ロンドンブーツ1号2号の田村淳さんが4月、慶應大学法学部・通信教育課程に入学したことが明らかになった。
この冬、青山学院大学を受験した田村さん。AbemaTVの番組で受験勉強に励む姿やTwitterのつぶやきが話題になったが、結果は全学部で不合格。
それでも、田村さんはあきらめなかった。なぜそこまで、学びを求めるのか? ハフポスト日本版が単独インタビューした。
不合格の「その後」
今年中に、なんとか大学生になれないだろうかと思って情報を集めていました。僕の年齢(44歳)を考えると、とにかく時間がない。1年でも早く入学したい。少しでも可能性があるなら、この春にやれるだけのことは全部やりたかった。そんなとき、慶應大法学部の通信教育課程を知りました。
青学大の最後の「不合格」の結果を受け取った翌日、慶應大の資料を請求しました。
通信教育課程は書類選考で合否が決まります。その中に小論文があって、自分が、法律と向き合いたい理由を数百字にまとめました。古谷経衡さんの『日本を蝕む「極論」の正体』という本を引用し、極論にふれやすい社会の中で、ルールをどう作るべきなのかという自分の問題意識を盛り込みました。人生初の論文でもありました。
正直、心のどこかで「落ちるだろう」と思っていました。それまで全部落ち続けていたので。
僕みたいに中学高校で勉強しなかった人間が、大人になって学びたいと思っても、知識を問うタイプの入試は乗り越えられない。青学の受験で、そう痛感しました。進学校に通っていたような人が、「こんなことも学びたい」と思って学び直しするのとは、ワケが違う。
結果が届いたのは、3月末でした。
仕事中に、妻から「(合否判定の手紙が)来てるよ」と電話がきました。「いいよ、あけて」と言ってまもなく、電話の向こうから妻が「ぎゃー」と叫ぶ声が聞こえて、僕も合格を知りました。
嬉しいはずなんですけど、どこか「入れたんだー」とフワフワした気持ちだったのを覚えています。受験勉強の間は子どもの世話も、お風呂に入れるくらいしかできなかった。妻がとにかく喜んでいて、その姿に「苦労をかけていたんだ」と、改めて気づきました。
4月末の入学式は、妻と娘も一緒に出て、「入学式」と書いてある看板の前で自撮りしました。会場では僕が青学を受けたと知っていた人から、「通信にされたんですね」と声をかけられました。
学びの「壁」
合格が決まってほどなく、教科書の詰まった箱がドーンと送られてきて、勉強する態勢は整ったのですが、すぐに仕事との両立の壁に直面しました。
通信教育課程はレポート提出やテストに加え、夏休み中のスクーリングで単位を取っていきます。
ただ僕の場合、仕事の日程が確定するのが直前なので、テストが受けられない可能性もある。現時点で日程的にテストを受けられると確実に分かっている科目は、1科目だけです。
学びたいという気持ちはもちろんあります。だけど、テストを受けられないかもしれない段階で、レポートを書こうという気持ちが続くだろうか。時間はかかっても単位を取るにはどうしたらいいのか。
めちゃくちゃハードルが高くて、受験勉強でもがいていた時とは違う葛藤があります。いざ受かったら、僕の働き方にはなかなかフィットしていない。
最長で12年まで在籍できるんですが、今のままだとそれでも間に合うか...。仕事を辞めるわけにもいかないので、学び続けられる仕組みを自分で作らないと、と思っています。大学にこだわらなくてもいいかもしれないですけど、とにかく学びたいという気持ちはあるので。
家族との対話で「気づき」を得る
大学で学びたいものはいろいろありますが、そのひとつが「尊厳死」「安楽死」についての考え方です。
2年ほど前、実家の山口県下関市に住んでいる母ちゃんが「私には延命治療はしないで」と突然言い出しました。「元気なうちに意思を伝えとかないと、延命に行きがちだから」と言うんです。
里帰りの時や電話で、家族で何度も話し合いを重ねるうち、みんな少しずつ違う考えを持っていたことが分かった。今は、両親は2人とも延命治療はしない考えです。僕もしない、臓器は提供する。弟はまだ決めきれていない、という状況です。
母ちゃんの意思を自分は尊重できるか。直面しないと正直わかりません。でも、元気な時の母ちゃんの言葉を思い出して、願いを叶えたい。今はそう思って母ちゃんが上京する7月に、本人の意思をビデオに撮る予定です。
この体験から、人の死に方についてどう考えたらいいのだろうか、と思うようになりました。例えば安楽死は日本では法的に認められていません。けれども、安楽死を選びたいという人もいるでしょう。そうしたときに、いまのルールのままでいいのか、議論してもいいだろうと思うのです。
ルールを疑ってルールを作る
僕はルールで規制されていたり、認められたりしていることが、「本当にそれで正しいのか」と疑ったとき、企画の中で表現しようとします。
ちょうどいま、番組で、19歳と20歳の人だけ集めた場で、人は見た目だけで未成年かどうかを見分けられるのかを試す企画を立てています。僕が「20歳だ」に判断した子たちと乾杯して、その中に未成年がいたら土下座する、という内容です。
きっかけは、NEWSの小山慶一郎さんが未成年の女性と飲酒していたという報道でした。小山さんは女性から成人だと聞かされていたそうですが、実際は19歳だった。それに対して、世間は小山さんをバッシングしましたが、僕は違和感がありました。
もし自分が小山さんだったら、この時「本当に20歳以上?」って確認できるでしょうか。未成年が1人もいないことを確約するのが非現実的だと思ったら、今のルールを見直すための議論をするべきじゃないですか。僕は「店が確認する方法をとってほしい」と思っています。
こんな企画をしたら面白がってどんどん真似する人が増えるかもしれない。問いから企画が生まれ、勝手に広がりだしていくのなら、解決策を求めずに単なる不祥事で終わらせるよりずっといいと思っています。
振り返れば、子どもの頃からこんな性格でした。
小学校の児童会長に立候補した時、「廊下は走るな、から時々走ってもいい、とルールを変える」という公約を掲げました。先生たちが「廊下は走るな」という割には、雨の日の部活では廊下を走るというダブルスタンダードに、疑問を覚えていたから。
先生の揚げ足取りのつもりだったんですが、当選しました。校長先生も、全校集会で「廊下は時々走ってもいい」と宣言しましたよ(笑)
適切な問いかけができれば、ルールや人を変えられることもある。こういう経験から何となく感じていたんだと思います。
「白黒はっきり」から「白なの?黒なの?」
僕が世に知られるきっかけになったのは、「ガサ入れ」という企画でした。浮気を疑う男性の依頼を受け、恋人の家に侵入調査し、浮気しているのかしてないのか、白黒をつける企画でした。
でも今は、白黒はっきりさせず、「白だと思う?黒だと思う?それはなぜ?」と問う番組を作りたい。白か黒か、自分はどう思うのかを考えてもらうきっかけを作りたい。
先日、哲学者の萱野稔人・津田塾大教授とラジオ番組で話をしたとき、こんな質問をされました。
今年4月から、性同一性障害の人が、性転換手術をするのに保険が適用されるようになりました。それを受けての質問です。この世の中には、例えば小指とか右手とか、自分の身体が自分のものとは感じらない「身体完全同一性障害」に悩む人がいます。この人が、自分の右手を切断する手術をするのは現在の法律では保険適用外ですが、今後、保険は適用されるべきですか?
僕は答えが出せませんでした。だけど思ったんです。こういう問いは、「正解」を出すのが目的の問いではなく、考え始めるための問いなんだと。
僕はこうした「問いかけ」をできるようになりたいと思いました。勉強し尽くしても議論しても、簡単に答えが出ない問いに出会いたい。
学ぶって、知識を得ることだけではなくて、問いを深めていくことでもあるんだと思います。学べば自分が変わるし、自分が変われば、新たな問いを立てられる。問いを通して僕は、また新しい道を歩くことができる。
昨日までは「A」だったけど、色んなことを吸収して、今日「B」になる。
そんな態度を「一貫性がない」という人もいると思うけど、僕にとっては、これこそが学びの本質であり成長するということだと思っています。
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