先日、アメリカで立て続けに起こっている災害について記事を書いたところ、「なぜ、アメリカでは銃を廃止できないのか?」「アメリカの銃の問題は本当に理解できない」という内容のコメントが届いた。おそらく同じ疑問を抱いている人は多いと思う。
驚くかもしれないが、近年大半のアメリカ人は銃規制強化を支持している。一般的に、"common-sense gun control(常識的な銃規制)"と呼ばれるもので、2012年にコネチカット州の小学校で銃乱射事件が起きた後、国民の支持が高まった。2015年の調査では、購入者のバックグランドチェックを強化するべきだと思う人が85%、精神障害のある人の銃器購入を規制すべきという人が79%に及んだ。
実際には、銃規制は未だ進んでいないのが現状だが、大半の国民が「何かが変わる必要がある」と感じていることは確かだ。
一方で、銃を「廃止する」という意見は一向に聞こえてこない。オーストラリアは、1996年に起きた銃乱射事件後、国民が銃を自主提出したことで知られている。しかしアメリカでは、何度銃乱射事件が起こってもこのような発想は聞かないし、「銃廃止」の会話はタブーと言ってもいい。
アメリカ人が銃規制について語るとき、"responsible gun owners (信頼できる銃所有者)"という言葉をよく使う。アメリカ国内には3億丁を越える銃が存在するが、そのほとんどの所有者は信頼できる人たちであり、犯罪を犯すのはあくまでも "irresponsible gun owners(信頼できない銃所有者)" であるという考えだ。
国民の大半が支持する銃規制とは、あくまでも〈信頼できない銃所有者〉を取り締まるための規制であり、〈信頼できる銃所有者〉が銃を持つ権利や自由は守らなけれいけない、という考えに基づく。
問題は、信頼できる銃所有者とそうでない人を事前に見分けるのは不可能に近いということだ。今回のラスベガス銃乱射事件の犯人は、銃購入の際バックグランドチェックを受け、合法的に銃を購入した。銃規制を強化したとしても、このような事件を防ぐことは難しいだろう。
アメリカではよく、「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ」と言う。年間1万人以上が銃によって殺されている国で、問題は「銃」なのか「人間」なのか、という議論が未だに繰り返されているのだ。日本人にはばかげた発想に聞こえるかもしれないが、アメリカ人には「銃のない社会」そのものが想像できないのだと思う。
先日、アメリカ人の友人から興味深い話を聞いた。彼は銃のある家庭で育ち、自己防衛のために銃を所有する典型的なアメリカ人だが、日本で生活するうちに、銃に対する考えが変わったと言う。それはある出来事がきっかけだった。
夏の夜、彼は都内の公園をひとりで歩いていた。すると、警察官と5~6人の青少年の姿が目に入った。
「こんな所に座っていてはダメだ」
警察官が若者たちに言うと、彼らは警察官をバカにしたように笑った。警察官は顔色ひとつ変えず、冷静に彼らと話を続けていたという。
一見ありふれた光景のように思えるが、友人にとっては衝撃的な出来事だったそうだ。
「アメリカだったら、あんなことはありえない」
彼は言った。
「もしアメリカで警察官にあんな態度をとったら、怪しいと思われて、警察官は銃を出すかもしれない。相手だって銃を持っているかもしれない。そして事態はすぐにエスカレートして、大きな事件になる」
攻撃性は攻撃性を生む。銃は社会を安全にするのではなく、逆に危険にする。彼は実体験を通じて、初めてそのことに気づいたのだ。
自分では気づかないことや客観的に見れない事柄を「ブラインドスポット(盲点)」と言うが、銃問題はアメリカ文化における最大のブラインドスポットであろう。
半生を外国で過ごしていると、どこの国にもブラインドスポットがあることを実感する。日本も例外ではない。私たちが「普通」と思っていることが、海外の人から見ると異様で理解しがたい、ということがたくさんある。
例えばこの前、日本在住の別のアメリカ人に聞かれた。
「なんで、安倍総理のポスターが至るところに貼ってあるの?」
彼女は目を丸くして言った。なぜそんなに不思議なのか聞くと、彼女はこう答えた。
「だって、国のリーダーの写真や銅像をいろんな所に配置するのは、独裁国家がやることよ」
確かにアメリカでは、大統領のポスターを町で見かけることはない。選挙中、支持する政治家の名前が書かれたシールを車に貼ったり、プラカードを庭に立てたりするが、選挙が終われば取り除かれる。今日、多くのアメリカ人はトランプ大統領を「独裁者のようだ」と感じているが、彼のポスターなどどこにも貼られてない。アメリカ人の感覚では、デモクラシー(民主主義)において、国のリーダーのポスターが町中に貼られているなんていうことは、許されないことなのだ。
しかし、どれだけの日本人がこの件に関して、「おかしい」と感じているだろうか? あまりにも慣れてしまっていて、それが普通のように思ってはいないだろうか。
アメリカの銃問題が私たちにとって理解しがたいことであるのと同じように、私たちが疑問にすら感じていないことが、外国人の目には異様に映ることがある。「灯台下暗し」と言うが、身近にあるからこそ気づかないことがあるのだ。
(2017年10月15日「佐藤由美子の音楽療法日記」より転載)
佐藤由美子(さとう・ゆみこ)
ホスピス緩和ケアを専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院を卒業後、アメリカと日本のホスピスで音楽療法を実践。著書に『ラスト・ソング』『死に逝く人は何を想うのか』。