アルビノ・エンターテイナー:粕谷幸司です。
生まれつき、体内のメラニン色素を生成する能力が無い(または極端に少ない)遺伝子疾患のアルビノには、その外見が真っ白い(ないしは色がとても薄い)ため、大いに日本人らしくないという見た目の特徴の他に、視力が弱い場合が多い、という問題もある。
視力検査そのものが、ちょっと厄介な制度ではあるのだけれど。
アルビノの"弱視"は、そもそも眼球内部の形成に問題があってメガネなどをかけても矯正視力がほとんど上げられない、というよくある現象の他に、色素が無い・ほとんど無いことによって光の量をうまく調整できないことから普通の人より過度に眩しさを感じてしまう"羞明(しゅうめい)"という症状もある。
僕が学生時代には、保健室で、ボードで立ててある大小の「C」のようなマーク(ランドルト環)を先生が指し、その方向を「上」とか「右」とか答えて確認するような手法がもっとも一般的だったけれど。
天気の良い昼間、壁もカーテンも、天井も床も真っ白な保健室での視力検査は尋常じゃなく眩しくて、0.1の一番でっかいのですら、見るのが厳しかったりした。
(...自分自身が真っ白なくせして!)
のちに、大人になってから、顕微鏡のようなものを覗き込み、その中に表示されるランドルト環の方向を答える機器での視力検査をしてみたら、意外にも0.3くらい見えたりもした。
いつもまったく見えないわけではなくて、状況・環境によって見えづらい、というこの目は本当に説明しづらい。
僕は普段、Androidのスマートフォンを使っているのだけれど。
自室などの屋内ではわりと平気で使っていて、そりゃあまあ画面と顔面の距離はかなり近いけれど、そしてフォントサイズ設定を大きめにしているけれど。
それで、不自由のない暮らしをしている。
けれど、ひとたび昼間の屋外に出ると、まあ周りが明るくて眩しくて、普段は見えているスマートフォンの画面も極端に見づらくなる。
(そんな時は大体、画面の外周を手で覆って影をつくって、簡易的に"ファインダーを覗き込む"ようなスタイルで過ごしてる)
ときに、僕がイベントMCや朗読劇でステージに立ち、ステージ上で台本を読むような場合は、かなり自分なりの適応が必要で。
ステージ上の演者を明るく照らすべき照明が、よく出来ていれば出来ているほど、羞明のある僕には逆光状態となって、眩しすぎて台本が読みづらい状況になったりする。
そして、妙に苦労している僕の姿を見て、周りのスタッフや共演者たちは思う。
(会議室の打ち合わせではちゃんと読めてたのに...)
もう、ステージに立ってから言ってもしょうがないので、僕はそんな状況では照れ笑いをしてごまかしたり、または堂々と、顔が隠れようとも台本を近づけて読んでいたりするけれど。
この、人より過度に眩しくて見えない、という状況は、なかなか説明しづらくて、そしてみんなも、なかなか理解しづらいみたい。
...と、ここまで画面に向かって書き綴ってきて、ふと思う。
パソコンは便利で好きだなあ。
画面がバックライトによって発光しているわけだけれど、その明るさ調節をしておけば、常に自分の一番見やすい状況にしておける。
しかも大体どの画面でもズームを自分で調整できるから、文字が小さくて読みづらい場合だってなんとでもできる。
実際にこの文章だって、ワードで下書きしているわけで...。
確かに見えづらい、説明しづらい視力の弱さは厄介だけれど。
けれど僕は、こうして生きている。
そして、パソコン画面に向かって、こんなふうに文章を書いているし、読んでもらえている。
そう考えると、視力が弱いことで難しい・苦手なことは確かにあるけれど、そんなに困っているわけじゃない。
そんなに困っているわけじゃないなら、この、説明しづらい見えづらさは、説明しなくても良いんじゃないのか。
状況・環境によって見えづらいことがあるこの目だから。
「どんな時に見づらいんですか」と聞かれても、多すぎるパターンをすべて説明することなんて面倒くさい。
かといって「じゃあ見えないんですね」と思われても、見える状況・環境では見えるのだから、それもそれで誤解になっちゃう。
だから僕は、もう事前に「弱視なんです」という説明をするのをやめた。
こちらからは説明しづらい、そして相手も理解しづらい会話が、面倒くさい。
困ったときは、困ったと言うし。
見えないときは、見えないと言うし。
手伝って欲しいときは、手伝ってと言うから。
自分でなんとでも出来るときは、自分でどうにかしているので。
事前に「僕にはコレが出来ません」という説明は、もう面倒くさいのでやめた。