国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、開始3日目の8月3日で中止が決まった企画展「表現の不自由展・その後」。再開が予定されているが、正式な日程は未だ発表されていない。
この問題をめぐっては、そもそも「表現の自由」とは何なのか、ということが問われている。
10月5日に開かれた「あいちトリエンナーレ2019国際フォーラム 『情の時代』における表現の自由と芸術」の中では、2人の憲法学者が「表現の自由」について解説した。
その内容を振り返る。
■「社会の発展」のための基本的な条件
京都大大学院の曽我部真裕教授は動画で登場し、「表現の自由の根本理念」について説明した。
まず、フランス人権宣言(1789年) が「思想及び意見の自由な伝達は、人のもっとも貴重な権利の1つである」としたことなどを例に、表現の自由は、欧米近代の人権保障の歴史の中で格別の重要性があるものと考えらえてきたと解説。
日本国憲法21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない」も、欧米の流れを踏まえたものであるとした。その上で、「日本は戦前に表現の自由が厳しく弾圧された苦い経験を持っており、その反省を踏まえて単に表現の自由を保障すると宣言しただけではなく、検閲を禁止することも明示的に定めています」と補足した。
■「民主的社会の本質的基礎」
歴史的背景を示した上で、曽我部氏は、ヨーロッパ人権裁判所の判決(1976年)を引用しながら、表現の自由は「民主的社会の本質的基礎」であるとし、2つの理由をあげた。
・社会をよりよくするための政策論議には、「不都合な真実」を含めた率直な議論が必要である。「不人気な意見」も含めてあらゆる意見が議論されなければ、適切な政策決定はできない。
・権力監視のために表現の自由は不可欠。「権力は必ず腐敗する」という言葉があるが、民主的な選挙で選ばれた政権も例外ではない。権力監視のために特に期待されるのは報道機関。現在の日本では報道機関に対する信頼が低下している印象があり、民主主義にとって非常に懸念すべき状況。
■「全ての人間の発達のための基本的条件」
次に、表現の自由は「全ての人間の発達のための基本的条件」であるという点を説明した。
表現の自由は、誰もが「その人らしく」生きていくために不可欠な自由だが、社会の多数派の常識とは異なる考えを持つ人たちは、多数派の同調圧力にさらされ、生きづらさを抱えがちであるため、そういう人の表現の自由を尊重する必要性はとりわけ高いものがあるとした。
そうして発信された表現は、それに接した人々にとっても、視野を広げるきっかけとなるので、「知る権利」として保障されていると説明。そうして「表現の自由」が尊重されることは、「社会の発展」につながっていくとした。
「表現の自由には、人々を説得し、社会を動かす力があるのです。その時々の常識に反するからといって、少数派の人々から発言の場を奪うのは誤りです」
■どのような表現まで許容されるのか
曽我部氏は、ヨーロッパ人権裁判所の判決(1976年)を元に、「どのような表現までが許容されるのか」という点も解説した。
「表現の自由は、好意的に受け止められたり、あるいは害をもたらさない、またはどうでも良いこととみなされる『情報』や『思想』だけではなく、国家や一部の人々を傷つけたり、驚かせたり、または混乱させたりするようなものにも、保障される」(ヨーロッパ人権裁判所の判決から)
「『多数派の道徳観や常識に反するのでショックを与える』という程度の理由で、表現の自由を制限することは、表現の自由の根本理念に反することだと言わざるを得ません」
なお、名誉やプライバシーなど特定個人の権利を侵害するようなものや、児童ポルノの製造や流通といったものは、法律により禁止することは許されると補足した。
■「公権力からの圧力、忖度を跳ね返せるか」
「表現の不自由展」については、「税金が投入された催しでやるべきではない」というような批判の声もある。
横大道(よこだいどう)聡・慶應大大学院教授は、この議論について憲法学の視点から触れ、「現在」の表現の自由が直面している状況について語った。
横大道氏は、公民館や劇場など国や自治体が設置した施設であっても、「政権を批判する団体には貸さない」「県政を批判する人には使わせない」というようなことは許されないと説明。それは、施設の設置の目的は「県や国の立場を伝えるためのもの」ではなく、市民が表現するための場所を与えているものだからと解説した。
また、国や自治体が金を出している今回のような芸術祭のケースについて、公権力側が「お金を出す以上、(内容に)口も出したくなる」ということを止めるためにはどうしたらよいか、憲法学では「間に専門家・専門機関を挟んで判断を委ねよう」という考えがあるとした。
「行政側は、『我々は展示された作品に賛成しているからお金を出すのではなく、芸術のイベントにお金を出した。作品の善し悪しはプロが決めたんだから口は出しません』というスタンスで臨むべきだ」
ただ、その前提には、「間に入るプロ」が萎縮せずに活動できる状態にあるのかどうかが重要だとした。
「専門家が日本において、どれだけ公権力からの圧力あるいは忖度を跳ね返して、自立的な判断をできるかどうかが問われているのが、今回の事態であったと思っております」