ジャーナリストの山本美香さんが、2012年8月20日、内戦の続くシリアのアレッポで取材中に凶弾に斃れて2年になる。彼女は生前、早稲田大学で「ジャーナリズムの使命」という講義を担当してくれた。最後の年の講義は『山本美香最終講義 ザ・ミッション 戦場からの問い』(早稲田大学出版部、2013年)として出版した。私は5年間、授業を一緒に運営したものとして、同書の編集に協力し、彼女の人となりについての一編(「教育者としての山本美香」)を寄稿した。世界で紛争が続き、新たな紛争が発生する今日、山本美香さんのようなジャーナリストの存在はますます重要になってきている。山本美香さんが考えていたことを一人でも多くの人に知ってもらうため、『山本美香最終講義』に書いた寄稿文を一部修正した文章を、本ブログで公開することにした。
■2012年8月の記憶
衝撃的な出来事やニュースに遭遇した人々の多くは、そのとき、自分がどこで何をしていたかをながく記憶しているといわれる。私にとって、山本美香さんがシリアで亡くなられたニュースは、9.11のアメリカ同時多発テロ事件や3.11の東日本大震災の発生と同じように、自分の心と体に深く刻み込まれた形で記憶されている。
日本時間2012年8月21日。寝苦しい熱帯夜がつづく真夏の日の明け方だった。
枕元に置いてある携帯電話が通信社の速報を知らせるメロディーを鳴らし、その音で目を覚ました私は、布団に寝転んだまま右半身をやや起こして携帯画面に目をやった。こんな時間帯に流れる速報はアメリカの政治・経済ものじゃないか、という軽い気持ちだった。しかし、ぼんやりした頭で眺めはじめた携帯ニュースは、普段とは異質のものだった。
シリア北部のアレッポで日本人ジャーナリストが砲撃により死亡した、という内容だった。「えっ」。胸騒ぎがした。再び横になり、次の速報を待った。また合図のメロディーが鳴り、画面を見た私の目に「日本人ジャーナリストの山本美香さんが死亡」という文字列が飛び込んできた。
「やまもと・・・みか・・・さん・・・」。
文字の並びをゆっくり反芻しながら、私の頭は拒否反応を起こしたまま、しばらくフリーズしていた。
山本美香さんには2008年1月に初めてお会いした。早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース(ジャーナリズム大学院、Jスクール)での授業をお願いするためだった。私の申し出を快諾していただき、その後、2008年度から2012年度までの5年間、ジャーナリズムコースの非常勤講師として、「戦争とジャーナリズム」をテーマに毎年2回~3回の講義をしてもらった。事件が起きた2012年も5月にJスクールで3回の講義、政治経済学部で1回の講義を担当してくれた。
「来年はもっと多くの授業に参加していただきたいと思っています」という私の言葉に、山本美香さんは「わかりました。来年もまたよろしくお願いします」と笑顔で答えてくれた。
日本時間の8月21日早朝に飛び込んできたのは、その山本美香さんがシリアで死亡した(現地時間8月20日午後)というニュースである。私の頭には、また来年、という山本美香さんの爽やかな笑顔が浮かぶだけで、思考機能が停止してしまったのである。
それでも、起き上がると、テレビやネットのニュースで最新の情報を求めた。どこかに「人違いだった」という情報が出ていないか、それを探したい気持ちがあった。だが、午前8時前には、日本の外務省が山本美香さんの死亡を確認したというニュースが報じられた。現実の過酷さを否応なく突きつけられたこの時点で、私の思考回路も機能停止から少しずつ修復しはじめた。
山本美香さんは、いつも「伝えることの大切さ」を学生に話してくれていた。彼女の思いに応えるために自分ができることは何か、そう考えたとき、山本美香さんを追悼するために、彼女がやってきたこと、話してくれたこと、伝えようとしていたことを、一人でも多くの人に伝えようと思い至ったのである。
■山本美香さんについてのツイート
山本美香さんの講義メモなどを急いで読み返しながら、Jスクールのツイッターで、彼女の人柄や言葉についてツイートをした。以下に紹介するのが、当日午前9時前から順次流したツイート文である。
「戦闘が続くシリア北部でフリージャーナリスト山本美香さんが亡くなられたとの報道が入ってきました。山本さんにはJスクール非常勤講師として毎年、『戦争とジャーナリズム』について講義をしていただいています。信じられない、信じたくない気持ちです」(2012年8月21日8時56分)
「小柄で華奢、優しい眼差し。戦場記者のイメージとはかけ離れた方でした。なぜ危険な戦場を取材するのかという学生の質問に、山本美香さんはこう答えています。『紛争地では非人道なことが沢山起きています。しかし、現地の人は表現手段を持っていません。彼らの代弁者になれると思うからです』」(同9時3分)
「今年の授業では次のように話されました。『戦争ジャーナリストは自ら危険なところに行く訳ですから少し変わっているのかもしれません。でも慣れることはない。テレビでは過激なものの方が取り上げやすいわけで、自分もそのことは十分承知している。その上で私は淡々と取材します』」(同9時5分)
「『私が一番強く興味があるのは、生命の危険にさらされる中でも笑ったり、元気に生きている人たち。人間力、たくましさにすごく興味があるので、逆境の中で生き延びようとする姿も取材したいと思っています』。山本美香さんの言葉を反芻しながら『なぜあなたが』と思ってしまいます。合掌」(同9時13分)
その頃、たまたま毎日新聞東京本社にインターンシップに行っていたJスクールの学生が、山本美香さんが早稲田で授業をしていたことを毎日新聞の記者の人に伝えた。毎日新聞から、授業を依頼した私にコメントを求める電話取材が入った。その毎日新聞の記事がネットで掲載されたことがきっかけとなり、山本美香さんの授業について、新聞・テレビなど5、6社のマスメディアの取材を受けることになった。
私自身、大学に移る前は、毎日新聞で記者をしていたので突発事件の発生時の取材には慣れている。しかし、突然の訃報に接して自分が取材を受ける側に身をおくのは初めての経験だった。
その都度丁寧に応対したつもりだが、面識のない人から携帯電話や電話機をとおして取材を受け、それに即答するという音声だけのインタビューというのは奇妙な感覚だったことを覚えている。私の話が簡潔で要領を得たものではなくメディアの側が使いにくかったのだろう。また、メディアの側でも、作成したい記事やレポートの文脈に合わせてコメントの一部を切り取って使うので、必ずしも真意が伝わらなかったケースが散見されたように思う(もちろん、しっかりと扱ってくれたメディアもあった)。
当時、メディアの人から寄せられた質問はおおよそ4点に集約できる。本稿ではその4つの質問に答える形で、山本美香さんについて私の考えを述べさせてもらうことにする。
■なぜ大学の授業をお願いしたか
質問① どういう経緯で山本美香さんに大学の授業をしてもらうことになったのですか?
山本美香さんを大学の非常勤講師に招いた経緯についてである。これはJスクールの創設と密接な関係がある。
早稲田大学大学院政治学研究科にジャーナリズムコースが創設されたのは2008年4月のことだった。理論と実践を融合しつつ、高度専門職業人としてのジャーナリスト養成する、日本で初めてのジャーナリズム大学院(Jスクール)である。私は、ジャーナリズムコースの運営を担当するプログラム・マネージャーとして、新聞社から大学に籍を移し、ジャーナリズム教育に全面的にかかわることになった。
Jスクールは、大きく3つの人材育成像を掲げている。
1.プロフェッショナルなジャーナリストの育成
・倫理、知識、技能において真に実践的な人材
・「個」として強いジャーナリスト
・21世紀の新しいメディア環境で活躍できるジャーナリスト
・マルチメディアを駆使し、既存のメディアを内側から変革していける人材
2.専門ジャーナリストの育成
・複雑化する社会の課題を「発見し、読み解き、伝える」ことができるジャーナリスト
・専門知と課題に対するアプローチ法を身につけた人材
3.アジアにフォーカスしたジャーナリスト育成
・アジアに強い日本人ジャーナリストと日本に強いアジア人ジャーナリスト
・アジアにおける公共圏の構築に貢献できる人材
特に1.の「プロフェッショナルなジャーナリストの育成」では「個」の視点を重視し、技術的にはスチール、ビデオ、ウェブを含めたマルチメディアのスキルの獲得をめざしている。独立したジャーナリストとしての使命感の涵養も重視している。
そうした「個としての使命感」を養うための中心的な授業としてジャーナリズム研究セミナーA「ジャーナリズムの使命」という科目を開講することにした。現場取材の経験豊富なフリージャーナリストの方を講師にお呼びし、取材体験に裏打ちされたジャーナリズム論をそれぞれ展開してもらい、学生との質疑で深い議論を交わすことを狙いとしている。
同授業の講師の一人に、若手の女性フリーランスジャーナリストで戦場取材を数多く経験している山本美香さんにお願いすることにした。Jスクールに入学してくる女子学生の身近なロールモデルとして、山本美香さんは欠かせない存在と考えた。
メールのやりとりの後、先述したように、2008年1月に早稲田大学の教職員レストラン「楠亭」で初めてお会いし授業について話をした。
「なんて爽やかな笑顔の人だろう」。これが山本美香さんの第一印象だった。屈託がない笑顔とも表現できる。私には、生と死が紙一重の紛争地取材を何度もくぐり抜けてきた人という先入観があるだけに、一緒のテーブルで話をしている小柄で華奢で聡明な女性から、戦場取材の血なまぐさや泥臭さをまったく感じることができないことが不思議でならなかった。
Jスクールの授業については「私でよければ。自分の勉強にもなるので」と快諾してもらった。
以後5年間、毎年春学期(2010年度のみ秋学期)に開講している「ジャーナリズムの使命」の授業準備のため、年に1、2度、楠亭でこのようにお茶を飲み、近況をお聞きするのが習わしとなっていた。屈託のない爽やかな笑顔の人、という山本美香さんの第一印象はずっと変わることがなかった。
■どんな人だったか
質問② 瀬川さんが知る山本美香さんはどんな方でしたか?
この質問に答えることは、なかなか難しい。
山本美香さんと知り合って5年。その間、1年に2~4回の授業を一緒におこない、年に1、2度、お茶を飲みながら話をさせてもらった。また、毎年の授業後1、2回は学生有志と山本美香さんを囲む懇親会を開催し、私もほぼ同席していた。たしかに年に数回、定期的に一緒に話をする機会をもっていたが、そこでの会話はもっぱら、戦場取材のこと、ジャーナリズムの現状のこと、ジャーナリズム教育のこと、学生のことだった。
私自身は、パートナーの佐藤和孝さんやアジアプレス・インターナショナルの野中章弘さんのように山本美香さんと一緒に取材をした経験はない。第一、お互いに私的な会話を交わしたことがほとんどない。
佐藤和孝さんが取材・編集した長編ドキュメンタリー『サラエボの冬 ~戦火の群像を記録する~』を観て衝撃を受けたことが、ジャーナリスト・山本美香の大きな転機になったことは、彼女が授業で紹介してくれた。佐藤和孝さんの影響を強く受けていること、二人がパートナーだろうということは、私も直感で何となく察していた。しかし、そのことを私から尋ねはしなかったし、彼女からの発言もなかった。お父さんの山本孝治さんが朝日新聞の記者をしていたという話も知らなかった。私の方も、自分の家族について話をした記憶がない。表面的な付き合いだったと言われれば、そうかもしれない。
だから、山本美香さんが亡くなった今、多くの人から「どんな人でしたか」と尋ねられ、私は果たして、彼女の何を知っていたのだろうと自問してしまうのである。ここで語ることができるのは、毎年の授業やその前後の会話などからえた「教育者としての山本美香」についての私の印象に過ぎないことをご理解いただきたい。
山本美香さんがどんな人だったかと聞かれて思いつくのは、以下のようなことである。
・勉強熱心な人
・一方的に自分の意見を押しつけない人
・謙虚な人
・柔軟性のある人
・視線がまっすぐな人 表裏のない人
・気持ちの強い人
・ポジティブな性格
・怒りを持つ人
・気配りを忘れない人
いい面ばかりではないかとのご指摘は甘んじて受けたい。申し訳ないが、実際のところ、こうした点しか思い浮かばないのである。
勉強熱心だなあと感じることは多々あった。2009年1月に、前年に亡くなられた筑紫哲也さんの追悼シンポジウムを開催したときには、「遅くなってすみません。まだ受け付けてもらえますか」と参加を申し込んできた。私たちが大学でジャーナリズムやメディア関連のシンポジウム、あるいは報道実務家フォーラムなどを開催すると、しばしば「参加したい」と言ってきてくれた。また、「ジャーナリズムの使命」の授業では、同じように授業を担当している毎日新聞外信部の大治朋子さんの授業の聴講を希望され、2年連続で出席された。自分の知識や分野の幅を広げていこうという姿勢がうかがえた。
一方的に自分の意見を押しつけない姿勢も印象的だった。『山本美香最終講義』を読んでいただくと分かるように、紛争地における取材について、山本美香さんの意見や考えに対して懐疑的、あるいは彼女とは異なる意見をもつ学生も少なくはない。山本美香さんは、こうした意見をできるだけ学生から発言させ、その上で議論しようと試みていた。多様な意見を出させ、学生が自ら考え悩む機会をつくるのである。人や物事に対して謙虚で柔軟な彼女の姿勢が表われているとも言える。
視線のまっすぐさというのは、山本美香さんという人物を端的に語るときに欠かせない要素だと思う。ジャーナリズムがやるべきことについて強い意思をもっており、少しも揺らぐ感じはしなかった。Jスクール学生のレポートの中に、山本美香さんのような姿勢を「偽善ではないか」と指摘する意見もあった。たしかに表向き格好いいことを言っていても、内実は・・・という世界はある。いや、多いかもしれない。ただ、山本美香さんに限っていうと、実際のところ、彼女の言動に表裏があるようには感じられないのである。それも偽善というのであれば、「無意識下の偽善」と呼べるものだろう。しかし、それはもはや偽善といえるものなのか。
気配りという点では、個人的な経験を語らせてもらいたい。私は椎間板ヘルニアの手術をするため、2011年12月に入院生活を送った。私の知人からそのことを聞いた山本美香さんから次のようなメールをもらったのである。
「冷たい風が吹き始め、いよいよ本格的な冬の到来です。
○○○様からヘルニアで入院と聞きました。
お加減はいかがですか?
微力ではございますが、何かお力になれることがございましたら、ご連絡ください。
どうぞお大事になさってください」
仕事で忙しい彼女からのメールに恐縮するとともに、その気遣いの優しさを嬉しく思った。
質問③ 山本美香さんが伝えたかったことは何だと思いますか?
山本美香さんはジャーナリストとして何を伝えようとしていたのか。率直に感じたのは、彼女は、いわゆる「戦場ジャーナリスト」ではないということだ。伝えようとしたのは戦闘の様子でも戦況でもなく、戦争のもとで影響を受ける紛争地の市民の姿である。
「世界のどこかで無辜の市民が命を落とし、経済的なことも含め危機に瀕している。その存在を知れば知るほど、どうしたら彼らの苦しみを軽減することができるのか、何か解決策はないだろうかと考えます」
それでは、山本美香さんは、紛争地の市民を、戦争に翻弄される弱者として描こうとしたのだろうか。
■何を伝えたかったのか
そうだとも言えるし、そうではないとも言える。報道をする際には視点が変わることがあり、一概に言い切れないのではないか。
一つはっきりしているのは、力を持たない、か弱き市民という描き方ではないことだ。
翻弄されるという視点に立てば、彼女の原動力になっているのは、そんな現実を生んでしまう世界の不条理に対する怒りであり、告発である。一方、市民は決して翻弄され放しではないという視点に立てば、彼女が描こうとしたのは、戦争のもとでもたくましく生きる市民のバイタリティーである。そこには、人間の強さに対する共感がある。
「伝え、報道することで社会を変えることができる。私はそれを信じています」
父親の山本孝治さんは、美香さんを「ヒューマンジャーナリスト」と呼んだ。私が持つイメージも孝治さんのそれと重なっている。もう一言補足すると、自立した市民への共感という観点からは「市民ジャーナリスト」とも呼べるであろう。
ビル・コヴァッチとトム・ローゼンスティールが書いた『The Elements of Journalism(ジャーナリズムの原則)』(2014年改訂第3版)はジャーナリズムを学ぶ者のバイブルと言われる本である。同書は、ジャーナリズムがその目的を果たすために有すべき10項目の原則を掲げている。1番目に「ジャーナリズムの第一の責務は真実である」という原則が記され、2番目には「ジャーナリズムは第一に市民に忠実であるべきである」という原則が記されている。
2つの原則を解釈すれば、市民を意識し、同じ目線で考えながら真実に迫るというのがジャーナリズムの基本ということになる。その点からいうと、山本美香さんはジャーナリズムの基本に基づいて現地取材を進める規範的なジャーナリストであり、「ザ・ジャーナリスト」だったと指摘することができるだろう。
5年前に早稲田で教えはじめた山本美香さんは、2、3年経って、ますます授業に力を入れてくれるようになった。若い人に伝えたいという気持ちが強くなったのだろう。
ジャーナリズムの現状を見つめながら、彼女は危機感を抱いていた。良質のジャーナリズムに少しずつ変革しいくには、若者に期待すべきだと考えていたように思う。
その若者たちが、一般的に視野が狭いことについても懸念を感じていた。日本の外に一歩踏み出せば、世界の至る所で紛争が起きている現実を、ジャーナリストをめざすかどうかに関係なく、広く若者にリアルに知ってほしいという思いが強かった。
大学での授業は、世界の紛争の現実を若い人に伝えるため、最も重要な場所だったのである。
■ジャーナリズム教育者として
質問④ 教育者としての山本美香さんはどうでしたか?
最後は、ジャーナリズム教育者(Journalism Educator)としての山本美香さんをどう評価するかという問いである。
高度専門職業人としてのジャーナリスト養成を主要な目標とするJスクール(ジャーナリズム大学院)は、一般の研究指向の大学院とは理念もカリキュラムも異なる。アメリカのJスクールでは、多くのジャーナリスト出身の実務家が教員となって学生の教育に携わっている。ジャーナリズム教育者は、このように実践的な側面を色濃く持っている。
それでは、優れたジャーナリストは即、優れたジャーナリズム教育者になるかというと、事情は違う。野球の名選手が必ずしも名監督にならないように、優れたジャーナリストが優れたジャーナリズム教育者になるとは限らない。
たとえ優れたジャーナリストであっても、自分がやってきた取材を誇らしげに語り、その自慢話を一方的に学生に伝えるだけでは、教育者としてはお粗末であろう。また、自分の考えを学生に押しつける姿勢もいただけない。一方で、メディア業界の裏話を得意げに学生に話す人がときにいる。学生が裏話に興味津々なのは事実だが、ジャーナリズムの理念のない業界話は耳年増を増やすだけで、ジャーナリズム教育にとっては害の方が大きいだろう。
私が7年間、Jスクールの教育に携わってきた経験からいうと、自分の考えを一方的に押しつけるのではなく、学生の多様な意見を発言させ、自分の意見を述べた上で、学生に議論させ、考えさせるような授業ができる人こそ、優れたジャーナリズム教育者だといえる。また、報道機関の組織のために役立つジャーナリストではなく、市民のために独立して活動する「個」として強いジャーナリストの育成が求められている今日、Jスクールの、このような養成目標を理念として共有していることも、ジャーナリズム教育者の不可欠の要件と言えるだろう。私自身、こうしたジャーナリズム教育者像を強く意識しながらも、自分の実力がなかなか理念に近づけないもどかしさを感じてきた。
その点、山本美香さんは、私などとても及ばない、優秀なジャーナリズム教育者だったと思う。私の知る限り、Jスクールの教員の中で、最も優れた資質を持つ教員の一人だったといって過言ではない。
一方的に自分の考えを押しつけない、という彼女の特質は、先の質問②の回答の項で記した。同じ項で述べたように、とても勉強熱心で、Jスクールの教育目標をきちんと理解してくれていた。彼女には安心して授業を任せることができた。
『山本美香最終講義』には、学生との質疑応答や議論の場面もでてくる。
山本美香さんは、戦争取材の個別事例を取り上げ、「取材すべきかどうか」と学生に問いかけるのである。山本さんの意見とは異なる意見が学生から出させることもしばしばあった。彼女は学生の言葉をしっかりと受け止め、落ち着いた声で「他の皆さんはどう考えますか」と再び問いかけるのである。修羅場の取材経験のある者とない者。新聞社で若手記者が生意気なことを言えば、上司や先輩から「現場に行ってない者が・・・」と一喝されておしまいになるだろう。大学でのジャーナリズム教育の重要さを実感する場面である。
「この問題の正解は一つではないのです」
山本美香さんは、議論のあと、この言葉を学生に伝えていた。正解が一つあってそれを見つけ出すのではない。現場に遭遇した一人一人がその場でしっかり考え、行動することがジャーナリズムにとって大切だと力説してくれた。そのために、大学院などで、事例を十分に学び、学生一人一人が考え、議論し、ジャーナリズムの使命や倫理について、自分なりの考え方の枠組を構築していくことが重要になる。
彼女はまた、進路に悩む学生からの相談にも気軽に応じてくれた。「美香さんが3時間、私の話を聞いてくれた」と嬉しそうに教えてくれた学生もいた。
こう見てくると、山本美香さんは非の打ち所がないジャーナリズム教育者だったと私が言っているような印象をもたれるかもしれない。
その点が心配なので、あえて辛口の評価をさせてもらう。彼女は優れたジャーナリズム教育者の資質を十分備えていたが、まだ十分には開花していなかった。
私が気になっていたことがある。彼女が伝えたいことが学生に確実に届いていたかという点である。実際のところ、学生の反応を聞いてみると、彼女の仕事や発言に大いに共感し、強く心を揺さぶられる学生が毎年、数人いたのは事実である。しかし、彼女の授業にピンとこないと発言する学生も少なからず存在した。
なぜ、共感が生まれないのか。
一つは戦場取材ということに対する意識の壁を考えることができる。戦場取材、戦争取材はジャーナリズムを語る原点ではあるが、しかしながら、学生の多くは、戦場取材を、どこか自分とは関係のない特別な活動と感じてしまうのではないか。山本美香さんの仕事や発言が、自分の将来像と重なってこないところに、ピンとこない一つの要因があるのではないかと感じている。
もう一つは、山本美香さんの仕事や発言が、あまりにジャーナリズムの正道を語っているために、学生が「きれい事すぎる」と感じてしまうのではという点である。
先述したように、学生のコメントの中に「偽善者」という言葉が使われていたが、まさにそうした感覚を表現したものと思える。山本美香さん自身は、まっすぐな視線をもつ、表裏のない人柄なのだが、それが若者には、生身の取材者ではなく、聖者のような存在に映るのではないか。
この点からいうと、山本美香さんは、ジャーナリズム教育者としてまだ発展途上の段階にあり、これからまだどんどん成長するのりしろがあったと思う。
2012年5月15日の「ジャーナリズムの使命」の授業前。私は山本美香さんと大学内の「楠亭」でお茶を飲みながら小一時間、話をした。2013年度の授業についてである。これまで彼女には、年に2、3回の講義を受け持ってきたが、2013年度は、ジャーナリズムの使命の授業にもっと強く関わってもらい、計15回の全授業のコーディネーターを一緒にやっていただけないかと、私の方から提案した。彼女は、全授業は無理かもしれませんが、とてもやり甲斐のある仕事なので、できるだけ前向きに検討してみます、と笑顔で答えてくれた。
山本美香さんを失ったことは、日本のジャーナリズム教育にとっても、たいへん大きな喪失である。
【追記】
大学で授業をご一緒させていただいた縁があり、私は現在、一般財団法人・山本美香記念財団理事としても活動している。山本美香さんの三回忌の法要が、2014年8月2日、実家のある山梨県都留市の普門寺でご親族や財団関係者を中心にとりおこなわれた。
普門寺には美香さんのお墓ができていた。墓碑には、パートナーである美香さんに宛てた佐藤和孝さんの真情あふれる文章が記されていた。その中に、美香さんが残した次の言葉が刻まれている。
「私たちは、ジャーナリストが何人殺されようと残った誰かが記録して、必ず世界に伝える すべてのジャーナリストの口を塞ぐことはできない。どんな強大な力をもった存在であっても、きっと誰かが立ち向かっていくだろう」
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『山本美香最終講義 ザ・ミッション 戦場からの問い』(早稲田大学出版部、2013年)
一般財団法人・山本美香記念財団
早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース(J-School)
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