脱北16年目の母子再会ー母の悲しみと喜び
応援してくれた皆様に心から感謝 山下春枝
私は1970年代に両親と共に6人家族で北朝鮮に渡りました。その後、咸鏡(ハムギョン)南道・北青(プクチョン)というりんご農園に住まいが決まり、7年間をその地で暮らしましたが、父は北朝鮮へ渡った2年後に他界し、母が世帯主として農園で仕事をしながら生活をしていたところ、長女の姉が、結婚により咸鏡北道・清津(チョンジン)へ、また長男の兄と次女の姉も咸鏡南道・咸興(ハムン)の専門学校へ行ってしまったため、母と2人で暮らしていたところ、私も母と離れて清津の姉の元へ行くことになりました。その後、母も清津へと居住地を移動し、結局は家族みんなが清津で暮らすことになりました。
辛かった我が子を残しての脱北行
時の流れは早く、兄弟皆も成長しそれぞれ家庭をもち、私も清津で暮らしている帰国者(日本から渡った人、またはその2世)の長男の男性と結婚し息子を授かりました。 息子は1995年、私の長男として生まれましたが、結婚生活は順調ではなく息子が5歳を迎えた2000年10月に離婚をすることになり、その後生活はどんどん苦しく、これ以上は北では生活が出来ないと気づき脱北を決意したが、幼い息子を連れて脱北は難しく、また誰も子供を連れて川を渡ることには賛成をしてくれず、無理な状況でした。仕方なく兄夫婦に息子を預けて、どうか一年だけでも面倒を見てくれと頼んで愛する息子の手を離すことになりました。あれから16年、どれだけ会いたかったか。その息子の為、どれだけ辛い思いをしたか。言葉では表す事ができないほど辛かった。 私は2001年10月、南陽(ナミャン)という中朝国境の豆満江(トゥマンガン)を渡り、脱北に成功した。その後中国で1年半という期間に何もできず、ただただ時間だけが過ぎて行った。 中国で私より先に脱北した長女の姉と再会したが、日本に来られるとは思いもしなかった。そんなあるとき、日本にいる叔父に電話をしたところ、日本に北朝鮮難民救援基金というNGOの存在を知らされ、叔父が北朝鮮難民救援基金に依頼をして、私たち姉妹は無事日本へ辿りつくことが出来た。本当に夢のようなことが実現した。
消息不明となって過ぎた12年の歳月
その後、すぐ北の息子の消息を確認したが、「元姑が他所に養子にだしてしまった」という噂を聞くことになった。しかし、正確にどこの誰のところへ行ったかなどは誰も知る由もなかった。私が日本に来て1年になった頃、息子のおばあちゃん※の元へ荷物やらお金を送った。その時に便りが届いたが、息子のことに関しては一言も書かれていなかった。本当にどこで何をしているのかだけでも知りたかった。母のそばを離れたことがない幼い息子を、1人残して来た自分に腹が立ったり、本当に顔には出せない心の悩みは人一倍あった。ただ、息子がどうしているのかだけでも知りたかった。しかし、知る由もなかった。 その内、姉の娘2人も脱北し、無事日本へ来ることが出来た。彼女たちに聞いても、息子は他人に養子に出されたとの噂は聞いたけど何処に行ったかまでは知っている人は居ないとのこと、誰も彼の居場所を知っている人は居なかった。そうして、12年という年月が過ぎて行った。 ※筆者の元姑のこと
手が震え、声も震えた息子との涙の電話
初めて、息子から電話が掛かってきたのは、2013年8月だった。仕事中、韓国にいる脱北者(清津にいた頃の友達)から「北の息子から電話があったけど、夜帰ったら電話してみてください」と、折り返しの電話番号を教えてくれた。 その電話番号の主は北の中朝国境の穏城(オンソン)郡・南陽に住んでいる人だった。その場所は中国に近く、中国の電話を持っていることから電話が可能だった。 夜仕事から帰ってきて早速電話をしたが中々繋がらず、10回は連続して掛けたと思う。心臓のドキドキが止まらず、破裂しそうだった。10回以上掛けた時ようやく電話がつながった。最初に電話口に出たのは、韓国から連絡をくれた友達の弟だった。 その後、息子に代わってくれたが、信じられないほど手が震えて声も震えた。本当に息子なんだろうか。でも声を聞いた瞬間、息子かどうかの確認をする気もなく涙が出てきた。寝ても立っても忘れたことのない、我が息子。その後いくつかの質問をしながら、息子であることを確認した。「どれだけ苦労をしたのか!?」「どれだけ母に会いたかったのか」など考えただけで涙が止まらなかった。 子を持つ親なら皆がその子の成長を見届けられるはずだが、私はそう出来なかった。後に知ったことだが、息子は成長をしながら、「自分にも両親が居るはずなのに、なんでだろうか?自分は特別な孤児なんだ」と心の中で思っていたと過去を思い出してそう言っていた。
死のうと思った息子を想う母の切なる願い
再会して知ったことだが、母の顔も覚えていなかった。どこかに母は居るはずだから、必ず探し出して一度は会ってみたいと思っていたようだ。しかし6年前に江原(カンウォン)道から1人で養子の家を抜け出し、まだ14歳だった小さい体で千里を超える長い旅を経て清津に着いた時、そこでも母の消息が分からず、「もう母には会えないのかと思っていた」という。 他所の家に行って、愛されず「いつも冷たい部屋に1人で寝ていた」と聞いた時、また、おばあちゃんに意地悪をされた時「死んでしまいたい」と、道路に飛び出して車に向かって走って行った時、「幼い息子がどれだけ辛い思いをしたか」を考えると胸が張り裂けそうだった。でも、明るく強く成長をしてくれて、このように母を尋ねて電話をしてくれた時、「ただ、1日でも早く連れてこなければならない」との思いしかなかった。息子に「日本にくる気があるのか」と聞いたが返事がなかった。そういう話はしないでくださいとしか・・・。 でもでも本人の意思が確認出来ない事には何も始まらない。その日は沢山話をしたが、結局本人の意思確認は出来なかった。 次の年、2014年1月にもう一度電話をすることが出来た。その時にくるかと聞いたら「はい、ママの言うとおりにします」と一言だけ聞くことが出来た。 その後どうにかしてでも連れてくるには私が動かないと何も始まらないと考え、韓国にいる知り合いの紹介でブローカーに直接会いに韓国に行って約束をした。そうして2016年7月末にやっとそのブローカーから動くとの知らせがあり、人を息子の元へ送った。ししかし、住所が分からなかった為、私の兄宛に人を送った。正確にその人は兄にも会ってきたが、「息子には会えなかった」とのことだった。
用意周到で迅速だった脱出行
今になって分かったのだが、その時は私の兄から息子に電話で、母の便りをもって人が来たことは伝わっていたが、「あえて会わなかった」とのことだった。当時、北の保衛部の監視が付いていて動けない状況だったのだ。 しかし、息子は既に脱北する準備を少しずつしていたようで、自分の意思で母のもとへ辿り着きたかったからだ。その後も電話で連絡を取り合っていたが、脱北に関しては何も知らせてこなかった。2017年7月に息子と電話で話したばかりでまさか、8月に脱北して出てくるとは思ってもいなかった。 でも無事、豆満江を渡り中国で良い人に出会い、また今は日本で応援してくださっている皆様のお陰で無事、私の元へ辿り着くことが出来た。今は夢のような生活を送っている。 まだ来たばかりで言葉の壁はあるものの、少しずつ前に進んでいる。ボランティアで日本語を教えてくれる教室に1ヶ月、週2回、一生懸命通った結果、先生から日本語の習得がとても早く、「1000人以上の教え子の中でもダントツ」と言われた。本当に嬉しかった。今まで勉強が出来ない環境で育ったけど、これからは勉強をしたいという夢が、願いが、叶えられることの嬉しさを忘れず、これからも頑張って行って欲しい。 今は少しの会話、LINEのやり取りは全て日本語で行っている。この先、彼の成長が本当に楽しみだ。これからも立ちはだかる沢山の壁を乗り越えながら、陰で応援して下さっている皆様への感謝の気持ちを忘れずに、精一杯頑張って一人前になり、この日本社会で立派に成長した姿を皆さんに報告したい。 応援して下さっている皆様、心から感謝と共に深くお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
(文/北朝鮮難民救援基金 山下春枝/北朝鮮難民救援基金 NEWS Apr 2018 № 108より転載)
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●加入口座名:(特非)北朝鮮難民救援基金