シドニーから3大会連続で五輪に出場した元陸上選手と、一緒に考え、議論を深めます。議論は週刊誌AERAの連載で紹介します。いただいたコメントを抜粋・要約することもありますがご了承ください。
世の中には人に奉仕する職業、社会に尽くす面が強い職業が幾つかあります。教師や医者、看護師など。そういう職業を選ぶ人を立派だと私は思いますが、一方で仕事の質さえ保ってくれれば必ずしも性格が社会貢献的でなくても構わないと思っています。仕事に対してお金を払っているのであって、性格に払っている訳ではないからです。
ですが時々、看護師さんのような職業の方が、仕事場以外でも優しい性格を求められたり、学校の先生が学校以外でも先生らしさを求められるということがあります。その人がもともとそうであるのなら問題はありませんが、周囲が業務外にまでそれを要求するのはどうなのでしょうか?
世間一般の方は、よくアスリートとして競技力が高い人は人格者であるということをいいますが、これは半分間違っています。確かに辛い経験をするので多少は人格的に向上しますが、予想されているほどではありません。はっきりと言えば勝つという点において、人格者であることはさほど必要ありません。むしろ学生時代に妙に教育的な指導者の下で育ってしまい、いざ切った張ったの勝負の世界に来た時に、ひるんでしまう勝負弱い選手になってしまうことすらあります。
会社が仕事場以外、労働時間外にも会社の論理を押し付けることを嫌う人は多いですが、ほぼ同じようなことを世間から社会的に圧力をかけられるのが、社会に奉仕する性質を持っている職業ではないでしょうか? "先生、その職業を選んだという事は、あなたの性格は本来そうなんでしょう"と要求され、"好きでその仕事を選んだんでしょう"と仕事と個を切り離すことを許してもらえない。そういう圧力を時々見かけます。
生み出した価値ではなく、思いの強さで仕事を評価する。実はそんな側面が日本は強いのではないかと思います。ところが思いは正確には計れませんから、思いの表れとして犠牲(労働時間や業務で定められたものを超えた範囲での貢献等)で評価されるようになります。効率的であるということは、1労力あたり生み出せる価値を増やすということです。ところが犠牲で計る文化では、効率的にすればするほど、犠牲が少なく見え、評価が下がります。
仕事ですからと割り切っている先生を見た時、それを許されるでしょうか? また思いの強さは必ず仕事の質と比例するのでしょうか? そもそも先生に求めているものは一体何なのでしょうか?
どうぞご意見お待ちしています。