強く、美しく、セクシーなスーパーヒーロー。
映画『ワンダーウーマン』が8月25日、日本で公開された。
男女の賃金格差や女性監督の少なさなどが問題視されていたハリウッドで、女性監督がメガホンを取り商業的成功を収めた『ワンダーウーマン』は、フェミニズムの象徴ともされ、この夏大きな話題になった。
そうした背景もあり、この作品にはさまざまな批評が寄せられた。日本国内でも、『ワンダーウーマン』の宣伝において主人公・ダイアナを「天然系女子」と表現し、いわゆる旧来の"ヒロイン像"にステレオタイプ的に当てはめて表現しているとの声が出るなど、賛否両論が巻き起こった。
『ワンダーウーマン』は、ハリウッドにとって、私たちにとって、どんな意味があるのか?
ハフポストUS版のブロガーで心理学者のクリストファー・ファーガソン氏は、同作に対する批判的な意見を分析した上で、ワンダーウーマンは「少女にも少年にもロールモデルだ」と語った。ファーガソン氏のブログ全文を紹介する。(ハフポスト日本版エディター 生田綾)
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フェミニスト・ヒーローとしてのワンダーウーマン(Wonder Woman As A Feminist Hero)
新しいスーパーヒーロー映画『ワンダーウーマン』の成功は、昔からずっとある問題を再び提起している。「女性がセクシーでいることとフェミニストでいることは、同時に成立するだろうか?」という問題だ。
『ワンダーウーマン』は商業的な成功を収め、評価も高かった。しかし、この映画は、少数の批判もまた集めてきた。こうした批判は主に、"アクションヒーロー"と"魅力的な女性"という両要素を併せ持たせることにより、ワンダーウーマンはフェミニズムの象徴から遠ざかっており、ある批評家の言葉を借りれば、より「武装したスマーフェット」に近付いているといった指摘だ。
(※)スマーフェット:ベルギー生まれのコミック「スマーフ」の登場人物。青い妖精であるスマーフたちが暮らすスマーフ村で唯一の女の子。
フェミニズムの推進という観点において、アクション映画の立ち位置はユニークだ。
スーパーヒーロー映画は、男性ホルモンの一種であるテストステロンに陶酔したバイオレンスと、男性ヒーローたちの伝統ある歴史によって成り立っている。それゆえに何年間も、強力なアクションをこなす主役級の女性の存在が待ち望まれてきた。
しかしスーパーヒーロー映画は、素晴らしい体格を備えた男女を主役にしている。アクション映画で主演を務める女性は、そのジャンルだからこそ必要性に迫られ、暴力に晒されることになるだろう。
ここに課題が生じる。
スーパーヒーロー映画は、たとえ強い女性を描いていようとも、女性を物として扱っていることになるのだろうか?あるいは、女性に対する暴力を促進していることになるのだろうか?
これは、一部の映画批評家たちの懸念でもあった。
CNNに寄稿したルイス・ビール氏は、"魅力的な"ワンダーウーマンは性差別的であると指摘し、なぜ『ドリーム(原題:Hidden Figures)』(※)のような映画が制作されないのだろうかと述べた。黒人奴隷解放運動家に尽力した女性ハリエット・タブマン氏や、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライド氏の伝記映画は、どこにあるのか?
(※)『ドリーム』:NASAの宇宙開発計画を影で支えた黒人系女性を伝えた伝記映画。2017年9月29日に日本公開予定。
『ハンガー・ゲーム』(2012年公開のアクション映画)や『マレフィセント』(2014年に公開されたディズニー映画)など、数年前の映画に焦点を当ててのことだが、作家のケリー・オリバー氏は、著書『Hunting Girls』で女性中心のアクション映画と、実際のレイプを含む性差別的な暴力を同一視している。
2016年12月、国連は女性の地位向上の象徴としてワンダーウーマンを名誉大使に任命したが、女性を物扱いしていたとの抗議が寄せられ、たった2カ月で名誉大使の職から解任した。
一部の国連職員による異議申し立てでは、次のように不満が述べられていた。
「現実として今のキャラクターは、胸の大きなありえない体形をした白人女性で、肌を露出し、太ももが露わな星条旗をあしらったキラキラ衣装に、膝まであるブーツを履いている。これはピンナップガールの典型です」
厳密に言えば、この描写はワンダーウーマンの旧バージョンに相当するもので、現在のバージョンではないが、それはここでは問題ではない。
しかし、『ワンダーウーマン』の存在は、『ドリーム』のような映画の制作を妨げているわけではない。両方のジャンルの映画が、同時に存在できるのだ。
アクション映画は一つの手段として、男女キャラクターにタイトな衣装を着用させ、素晴らしい体格を持っていることを売り物にしている。こうした表現が観客に害を与えているという証拠は、見つからないままだ。
『ワンダーウーマン』がアマゾン族のコスチュームを着ていれば、強く、知的で、決断力のある女性を促進していることになるのだろうか?
このような論争は、現代のフェミニズムにおける"見解の違い"を反映しており...もっと観念的で、学術的なフェミニズムとは対照的だ。
近年フェミニズムは、男女同一賃金、女性たちに対する暴力の減少、少女や女性たちへのSTEM教育の促進、メディアにおけるより肯定的な女性の描き方など、実践的な目標に取り組むことで再興してきた。
エマ・ワトソンや、ロックバンドCHVRCHES(チャーチズ)のローレン・メイベリーのような象徴的存在によって導かれ、フェミニズムは「クール」になった。
疑いなく、近年のフェミニズムは父権的権威の再浮上に異議を唱えているが、フェミニズムの核心となるコンセプトは、統計値に基づくよりも、私たち人間の行動を、私たちが判断するべきであるという見方をしている。
しかし、それがどれだけ意義があろうと、あらゆる意見を主張することによって、堅苦しく、専門用語だらけの、政治的な問題に発展させてしまうリスクもある。つまり、あまりに完璧を求めすぎると、かえって成功を妨げてしまうかもしれないということだ。
また、『ワンダーウーマン』をめぐる問題の一部は、私たちがフィクション上のキャラクターに対し、現実の人間と同じ種類のロールモデルである必要がある、と考えているところにもある。
例えば、ノーベル物理学賞を受賞したドイツ系アメリカ人の女性物理学者、マリア・ゲッパート=メイヤー博士のことを考えてほしい。メイヤー博士は素晴らしいロールモデルであり、とりわけ STEM教育(※)に関心のある女性や少女(それにもちろん、少年にも!)にとって、そうである。
(※)STEM教育:科学や数学領域に重点をおいた教育
しかし、メイヤー博士のような人だけを自分のロールモデルにするよう、制限する必要はない。
とりわけアクション映画に登場するフィクションのキャラクターは、まったく違った種類のロールモデルとして存在している。
私たちはアクションヒーローに対して、物静かな天才であってほしいというよりも、道徳的な美徳や勇気、体力が伴った勇敢さの化身であることを期待している。
ワンダーウーマンは、こうした資質に見事なほどに適合している。
彼女は、その服装のためではなく、本質的に"女性だから"ということではなく、彼女自身の行為のためにヒーローであり、ロールモデルなのだ。
歴史上、映画作品でのヒーローなどの描写において、ジェンダーの平等主義的な方向に自然に向かうことがなかったことは残念である。
アクション映画であろうと伝記映画であろうと、最終的に映画がこうした方向に傾き始めるとき、それが私たちが観たいと思うものであるかどうかは、私たちが自分のお財布からお金を出して、評価するべきだ。
『ワンダーウーマン』と『ドリーム』は対立関係になく、どちらも異なった方法ではあるが、映画作品、そして映画業界における平等主義に向かっている。
つまり、『ワンダーウーマン』は、完璧ではないかもしれない。
しかし彼女の存在は、歴史的に見て、男性に支配されてきた映画のジャンルで、目覚ましい進歩である。そして彼女は少女にも少年にとっても、卓越したロールモデルだ。
私たちは、映画における平等主義では未だに達成途上にいる。
『ワンダーウーマン』を激しく非難するよりも、むしろ『ヴァレリアン』(原作のSFコミックのタイトル『ヴァレリアン・アンド・ロールリーヌ(Valérian and Laureline)』)から、なぜ女性キャラクター・ロールリーヌの名前がタイトルにクレジットされなかったのか、理由を尋ねた方がいいだろう。同じ仕事をしているのだから、平等なクレジットを!
ハフポストUS版の記事を翻訳・加筆編集しました。
【作品情報】
『ワンダーウーマン』8月25日(金)公開、配給:ワーナー・ブラザース映画