1、健康と合格、「二兎を追うものは一兎も得ず」?!
法律の勉強を始めてから10年、長い年月を経て、私は今年、司法試験に合格しました。ここまで月日を要してしまった理由の一つに、私がパニック障害(PD)を発症したことがあります。
私がパニック障害を発症したのは約5年前のことです。PDになって初めの1,2年は、いわゆる急性期といわれる症状に苦しみました。今年、合格という結果を得ることが出来たのは、あきらめず勉強を継続できたということに加え、体力が大きく回復したおかげだと思います。
PDやうつといった病気は、個人差がとても大きいといいます。病気になっても、みるみるうちに体力を回復する人もいます。しかし、私の場合、急性期といわれる時期がすぎ、日常生活は送れるようになっても、なかなか、目標のために踏ん張りが利く状態にまで健康を回復させることができませんでした。
それも当然のことではあります。司法試験の受験勉強は、いくら手を抜いてもある程度は厳しいものです。日常生活が送れる、と言う程度の体力で受験勉強に臨むことは、少ない燃料で走り出すのと同じことで、頻繁なガス欠を引き起こすことになるからです。これでは、体力の回復も、受験の成功もおぼつきません。
2、長くかかってもいい
思うような体力回復が望めず、本格的な受験勉強になかなか取り組めなかった私にとって、司法試験合格を目指すことは、長期戦を意味しました。
しかし、長期戦を乗り切るのは簡単なことではありません。
PD発症の時点で既に30代となっていた私にとって、長期戦でこれ以上頑張り続ける希望を持つことは、色々なハードルとの戦いでもありました。自分の意思、周りの目、経済的物理的環境。また、PD発症という経験は、私を非常に臆病にさせ、悪化への不安感がつきまとうことになりました。
そのような中で、どうしたら長く頑張り続けることができるのか、というのが受験を続ける上での私のテーマとなりました。受験生活を終えた今、ふり返ってみると、長く頑張り続けることができたのには、いくつかの要素があったように思います。
3、(1)自分にとって居心地のよい場所に住むこと
私が受験勉強に本格的に取り組み始めたのは、法科大学院を卒業し、実家のある沖縄に帰ってきてからです。生まれ故郷というのは、おそらく、誰にとっても安らげる場所ではあると思うのですが、私にとって、故郷が沖縄であったのは非常にラッキーなことだったのではないかと思います。
地方はそれぞれ特色をもっていますが、沖縄の特色の一つとして、多様性に寛容なことが挙げられると思います。沖縄の多様性については、色々な説明がなされます。歴史的な辺境性として、地理的な交流可能性として、あるいは、南国的な楽観主義からの説明も可能です。今回、私が故郷に戻って感じたのは、「再チャレンジへの寛容さ」でした。
「再チャレンジへの寛容さ」がある理由の一つは、昨今の移住ブームで、第二の人生を求めて沖縄に来ている人が出現するようになったこともあるではないかと思います。そのおかげで、何をしているのか職業で語れなくても、あえて説明を求めないという風潮が生まれつつあるよう感じます。
また、南国気質のおおらかさゆえか、一直線の横並び競争へのエリート意識がそれほど高くないということも言えると思います。その結果、この年齢ではこういう状態になっていなくてはならない、というプレッシャーをあまり感じずにすみます。
家族や友人の支援をうけつつも、過度の詮索をされず、中途半端な私を容認してくれる沖縄という土壌に、私はとても助けられました。
4、(2)周囲の目と戦わないこと
沖縄がいくら多様性に寛容だとはいえ、自分は周りにどう見られているのか、というのは気になります。「あのコは昔は優秀だったのに、司法試験をやるなんて言ったばっかりに、身体もこわして、今は何もしてなくてかわいそう...」と周りに思われているのではないか、と想像しては、いたたまれなく思うことがしばしばありました。
結局、そういう周りの目は、自分の心の中で作り上げた自分へのプレッシャーであるにすぎないのですが、自分の心の中にある不安に蓋をすることはなかなかできません。また、地元のスーパー等で、知人に会ったとき、「今何をしているの?」と聞かれて口ごもり、実際に恥ずかしく感じたこともあります。
そのようななかで、私がとった対策は、一応の職歴をつけ社会につながる、ということでした。
週に一度でしたが、非常勤講師として講義をし、とりあえず自己紹介ができる肩書を手に入れることで、ずいぶんと地域社会で生きやすくなりました。また、収入にはむすびつかないことであっても、ボランティアで公務員受験や資格試験対策のゼミを持ち、小さな形ではあっても、自分を社会の中で生かすことを心がけました。
こうしているなかで、周囲の目を恐れる気持ちは、少しずつですが、小さくなっていった気がします。
5、(3)病歴を受け入れる
PDとの付き合いがある程度長くなってからも、私にとって、病歴は強く隠したいことでした。また、PDやうつという精神疾患に対する、定型的な語りに自分を入れられることへの抵抗感もありました。精神疾患に伴う、かわいそうな人、精神的に不安定な人、社会的な責任を任せられない人というイメージへの抵抗感です。
しかし、私にとって、病歴を受け入れるきっかけとなった出来事がありました。精神科・心療内科に通院する人を対象とした生活訓練事業所で、「法律カフェ」というイベントの講師をすることになったのです。講師とはいっても、知っておいた方が良い法律知識を一緒に学んで賢く生きていこうという問題意識を共有する座談会のようなものです。そこでは、私という人間がここで講師を務める理由を説明するために、PDの病歴を説明することは不可欠でした。
今までは隠そうとしていた病歴でしたが、私が病歴を話すことで、フロアーの出席者が私の話を聞こうと関心をもってくれた瞬間というのがありました。その瞬間、病歴のある私だからこそ、届く言葉があるのだ、というのが分かり、私はとても新鮮な驚きを感じました。それ以降、病歴があることで、私の言葉が届く余地があるのなら、この病歴とともに生活していこう、と私の意識が変わっていきました。
隠すことが少なくなるということは、ストレスの軽減を意味します。私にとって、病歴を受け入れ、隠さなくなることで、ストレスを減らすことができ、結果的に、長く頑張る元気につなげることができた気がします。
6、まとめ
長く頑張ることは簡単なことではありません。しかし、外部的環境を選択し、自己の内面と向き合い、折り合いをつけていくことで、長く頑張るための方法を見つけていくことはできるのではないかと思います。
(2016年1月5日「MRIC by 医療ガバナンス学会」より転載)
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