現代日本における意識の分裂について(1) 現代うつを巡る考察から

「日本」について考えるのが難しいのは、日本が「西洋近代」という参照枠に対してねじれた関係にあるからである。西洋近代の精神性は、現在のあらゆる信頼のおける学問の基盤になっている。その一方で、明治以来の日本と西洋近代の精神性との関わりは、「和魂洋才」の言葉に表されるように、全体としての受けいれは拒否しつつ部分的には強く同一化を目指すという歪んだあり方が中心であった。

「日本」について考えるのが難しいのは、日本が「西洋近代」という参照枠に対してねじれた関係にあるからである。西洋近代の精神性は、現在のあらゆる信頼のおける学問の基盤になっている。その一方で、明治以来の日本と西洋近代の精神性との関わりは、「和魂洋才」の言葉に表されるように、全体としての受けいれは拒否しつつ部分的には強く同一化を目指すという歪んだあり方が中心であった。このことの影響を明らかにすることで、現在におけるさまざまな社会問題について考える一つのヒントが与えられることが期待できる。

(1)メランコリー親和型の黄昏とうつ病像の変化

筆者の専門とする精神医学の領域から最初の話題を取り上げたい。「現代うつ」という言葉が一般に流布され、社会的な当惑を引き起こしている。「うつ病」と診断された人物が、例えば自分の好きな趣味などには熱中するものの、職務に関連すると意欲が低下する事例が散見され、それに対しては「現代うつは本当に病気であるのか」という疑念が呈されることがある。

それでは典型的なうつ病とはどのようなものだろうか。この質問に対して10年前の日本の精神医学ならば、「メランコリー親和型や執着気質のような病前性格を持つ者」という回答が、当然のようになされたであろう。メランコリー親和型はドイツの精神科医のテレンバッハが、執着気質は日本の下田が報告したもので、前者は几帳面で良心的な、対他配慮が勝る性格の持ち主であり、後者はそれと類似しているが熱中性や精力性など、物事にのめり込む傾向が顕著な性格を指している。このような性格の持ち主が、困難な周囲の状況に巻き込まれ、良心的に振る舞おうとして自縄自縛に陥ったり、過労から消耗状態を呈したりする中で、ある限界を超えて性格の環境への反応だけでは説明できないような身体的な変化が生じるものが典型的なうつ病と考えられた。これに対しては、然るべき社会的な敬意が払われながら適切な休養が与えられることが妥当と判断されたのである。

ところが、このような病前性格論が注目されたのはドイツと日本ばかりで、それ以外の国ではあまり注目を集めなかった。このことと、その両国が他の西洋諸国より遅れて近代化を開始し、国全体を強烈に組織化して諸外国に追いつこうとした歴史上の経緯を結びつける議論がある。個人に国家nationという大きな組織の一部となる献身を行うことが、強く求められたのである。メランコリー親和型の特徴は「社会的な役割への同一化の強さ」と論じることが可能である。この性格を有する人物の「几帳面さ」「対他配慮」は、あくまで周囲の小さな人間関係や職場環境において発揮されるのであり、個人的な愛情関係や普遍的な価値に対しては、むしろ冷淡であったり鈍感であったりする。テレンバッハはさらにメランコリー親和型について、「自己肯定の義務が欠けている」と述べ,「正義の基準を奇妙なまでに他者の手に委ねたがる傾向」があると指摘した。社会への同一化が強く、個人としての自我が確立されていないのが、メランコリー親和型であると理解できる。

このような議論を行う時に問題となるのが、西洋近代が論じる「自我」の倫理的な意味や価値である。テレンバッハがメランコリー親和型を「自我を確立できていない」と批判的に論じた時のように、西洋近代の立場は「自我」に高い位置を与える。普遍的な「人間そのもの」に価値や意味を見出し、その確立を自らの文化の課題であると引き受けたのが西洋の近代初頭の精神であった。この基準においては、メランコリー親和型は劣った人格であると判断されてしまう。いわゆる批判的な形でなされる「日本論」には、このような文脈に沿っているものが多い。

しかしその後、事態の審級の立場にあったはずの「西洋近代」の精神性に対しても、さまざまな場面で批判が行われることとなった。そもそも、日本を含めた世界の他の地域において、具体的な社会における立場を超えた普遍的な「人間」が、文化における主題として真剣に取り上げられることは、必ずしも頻繁ではなかった。事実、「メランコリー親和型」を日本に紹介した世代の精神科医の中で、精神分析などを参照しつつ「自我」の強化を通じてうつ病を治療する可能性が模索されたことがあったが、臨床場面で混乱を生じることが多く、この問題に深入りすることを避けることが妥当であると考えられるようになった。「普遍」を強く志向する文化は、歴史上必ずしも「普遍」的ではなく「特殊」であった。二つの世界大戦や共産主義の失敗などを通じて、西洋近代が掲げた普遍的な「自我」や「人間」への信頼性は揺るがされ、ポストモダンのような思想的な潮流も西欧では生じた。(もっとも、近代そのものに近代を乗り越えようとする傾向性が内在しているという事情も存在している)。批判的な日本論に対しては、このような西洋近代の精神性の弱点を暴いてそれを逆に指摘するのが、一つの有力な反論法となっている。

今回の議論は、そのような「日本論」を巡る状況からさらに一歩先に進むことを目指している。そのために確認したいのは、日本が「西洋近代」にとってねじれた立場にあることである。西洋的な自我の確立が真剣に目指されたことがないなど、全体としての西洋近代の精神性を受けいれていない点で、西洋近代の立場からは日本が遅れて見えることがある。しかし、問題が複雑になるのは、西洋近代自体が西洋近代を乗り越えたり解体しようとする運動を示すために、結果として「遅れていたはずの日本」と西欧が目指すものが一致したり、「近代的自我」に拘束されることが少ないので、ある意味では日本の方が先に進んでいるように見える状況も頻繁に生じることである。さらに、個別の技術や知識については、日本における達成が他の近代的な諸国の先を行くことも少なくない。強い同一化の傾向は高い学習能力を保証するものでもある。日本の立場は、精神性の中心に「近代」を置くことは敬遠しつつ、超近代であるのと同時に前近代であるようなねじれの位置にあることを改めて確認しておきたい。

木村敏や樽味伸のような精神病理学者は、メランコリー親和型を単にうつ病の病前性格ではなく、日本人の特性と通じるところがあると考えた。そして、木村は日本人における自己が西洋近代の主張するような自我とは別様のものであることを示し、次のような議論を展開した。「突発的な激変の可能性を含んだ予測不可能な対人関係においては,日本人が自然に対して示すのと同じように,自分を相手との関係の中へ投げ入れ,そこで相手の気の動きを肌で感じとって,それに対して臨機応変の出方をしなくてはならない。自分を相手にあずける,相手次第で自分の出方を変えるというのが,最も理にかなった行動様式となる。このようにして,日本人の人と人のとの間は或る意味では無限に近い,密着したものとなる。そこには,厳密な意味での『自己』と『他人』はもはや成立しない。自己が自己でありつづけるためには,自己を相手の中へ捨てねばならない。そして,相手の中に自己をもう一度見出して,それを自分の方へ取り戻さなくてはならない。」このような自己が社会的な役割に同一化することを通じて、社会的な人間が形成されていくのであろう。西洋近代における「自我の確立」のような課題は、先送りされる。筆者はこのような記載から、西洋近代が直面した個の疎外という課題を乗り越える積極的な可能性と、全体主義的な潮流に抵抗できない否定的な可能性の両方を感じるのである。

メランコリー親和型の病前性格を持つ典型的なうつ病と、現代うつをめぐる議論が混乱しやすいのは、二つの問題が混在しているからだと筆者は考える。一つは、精神疾患に対する社会の偏見が弱まり、早期受診する軽症例が増加したことである。そのために、ある程度重症化してから受診することが普通であった時代に作られたうつ病治療の常識が、当然のように改変を迫られている。もう一つは、かつて日本国内で広く共有されていた「日本社会」への同一化が揺らぎ、価値観が多様化したことである。20~30年前であるならば、患者も家族も、医療関係者や職場も日本社会全体への同一化が強かった。その時には患者の示す「同一化」の傾向を大切にする治療方針が奏功することが多く、道徳的にも正しいと考えられた。しかし、現代社会における状況は多様化している。ある精神科医が「メランコリー親和型の強いものは,境界設定の曖昧な職場の中で,彼が『済まない』と感じる仕事があることに対してレマネンツ感情(注:負い目の感情に近い。注は筆者)を刺激され,それを回避するために際限なく仕事を負う孤立した立場になる」と論じたように、同一化を行う傾向が強く個の確立が果たされない個人が、かつてのメランコリー親和型のように保護されずに経済的に搾取される可能性が大きくなっている。その中で、個別の状況への配慮が求められるようになっている点で、「現代うつ」への治療的対応は複雑で難しくなっているといえるだろう。難治例の経過には、日本人における自己と西洋近代の自我の相克のような、文化的な難問から生じる葛藤が関連していることがある。(なお、臨床場面ではこのように解決困難な形で問題を定式化することは避けられねばならない。文化的な議論の場面であることを踏まえて、ここでは敢えてそうしている)。

本論ではここまで、うつ病像の変遷とそれに関する精神病理学的な考察を主な軸に、日本と西洋近代が文化的にねじれた位置関係にあることを示してきた。この考察は社会学者の佐藤俊樹の著書に多くを負っているが、文責は全て筆者にある。今後は、西欧近代と日本との間にあるねじれが現代の日本社会に意識の分裂をもたらしていることを明らかにし、その観点から福島の原子力発電所事故や閣僚の靖国参拝などの問題についても取り上げたい。

井口博登:日本におけるグローバリゼーションの進行とメランコリー親和型.臨床精神医学,34;681

686,2005

堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011

木村敏:人と人との間 精神病理学的日本論.弘文堂,東京,1972

佐藤俊樹:近代・組織・資本主義ー日本と西欧における近代の地平.ミネルヴァ書房,京都,1993

樽味 伸:現代社会が生む"ディスチミア親和型".臨床精神医学,34;687

694,2005

Tellenbach,H.:Melancholie.Vierte Erweiterte Auflage.Springer,Berlin,1983(木村 敏訳:メランコリー.みすず書房,東京,1985)

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