(JOCHEN LUEBKE VIA GETTY IMAGES)
「私の作品は、一般的な枠の中に収まるものではありません」
2016年に亡くなった建築家のザハ・ハディドは、かつてハフポストUS版にそう語った。「私が女性だからかもしれませんし、アラブ人だからかもしれません。女性もアラブ人も偏見を持たれています」
Googleは5月の最終日に、現代建築に大きな影響を与えたザハ・ハディドに敬意を表し、ロゴデザインをハディドをあしらったものにした。
ザハ・ハディドのGoogleロゴ
ハディドは1950年にイラク・バグダッドで生まれた。ベイルート・アメリカン大学の数学科を卒業した後、イギリスに渡りロンドンの名門建築学校「アーキテクチュアル・アソシエーション・オブ・スクール(AAスクール)」で学んだ。
有色人種であり、女性であったハディドは、自らが経験した女性蔑視や人種差別を包み隠さず語ってきた。
1970年代にAAスクールで学んでいた時、彼女と同じ分野を専攻する女性はわずか6%だった、とハディドと同じ時期にAAスクールで学んだ建築家のヤスミン・シェリフは語っている。ハディドが亡くなった2016年でも、その数はまだ24%に留まっている。しかしそれでも、ハディドは前に進み続けた。
男性ばかりの建築の世界で、ハディドの粘り強さはしばしば「生意気」と解釈され、耳を傾けてもらおうとする努力は「無礼」と見られた。ガーディアン紙のサイモン・ハッテンストーン記者は、「男性たちが紳士的な会話をし、ゴルフ場で握手をするような世界で、誰が声高に主張する女王を必要としたでしょう? 」と、冗談まじりに書いている。
ハディドにとっては、がっかりするような現実だっただろう。イギリスの男性は「意見を述べる女性に慣れていませんでした。女性を恐れていたのです」とハディドは語っている。
立ちはだかる障害にも負けず、ハディドは順調に名声を高めていった。彼女を教えた著名な建築家のレム・コールハースは、かつてハディドのことを「独特で、他の誰とも違う軌道を進む惑星」と表現している。ハディドの作品は、コールハースの言葉が正しかったことを証明している。
ハディドは1980年、ロンドンに自身の建築事務所「ザハ・ハディド・アーキテクツ」を設立した。そして、広州オペラハウス、ローマのイタリア国立21世紀美術館 (MAXXI)、ロンドンオリンピックで使用されたアクアティクス・センターなどの有名な建築物を次々とデザインした。
滑らかな曲線とくぼんだ形に重きを置いたハディドの近未来的なデザインは、大きな称賛を集めた。2004年、ハディドは建築界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」を、女性としてそしてイスラム教徒として始めて授賞した。
ハディドは2016年3月31日、心臓発作で亡くなった。ハディドが亡くなった日、ザハ・ハディド・アーキテクトは「ザハ・ハディドは、世界で最も素晴らしい女性アーティストと考えられていました」とハフポストUS版にコメントした。
マイノリティの壁に臆することなく、65年の人生を通して差別や偏見と闘ったザハ・ハディド。常識を打ち破る作品を残した。素晴らしい作品の数々は「Google Arts & Culture」でも詳しく紹介されている。
ハフポストUS版に掲載された記事を翻訳しました。
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