18歳から23歳の若者が、ハフポスト日本版とともに国会議員や自治体の首長らを訪ね、率直に質問をぶつける企画「Young Voice」。間瀬海太さんは、佐々木さやか・参院議員、橋本岳・衆院議員にインタビューした。
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今回、あるご縁から、LGBTや18歳選挙権など、次の選挙で争点になるかもしれないテーマを学生インタビュアーとして国会議員に取材する機会をハフィントンポストからいただいた。そのインタビューを通して考えたことを記事にしたいと思い、書き起こしてみた。
---- 今年は、7月に参議院選挙が待っている。
私が初めて投票をしたのは、1年半前、2014年12月の衆議院総選挙だった。
地元の何年ぶりかに行く小学校の体育館で、よくわからないまま投票所のスタッフの指示に従い、自分の「意志」を書き、銀色の箱の中にその紙切れを入れる。
これが私の初めての「投票」だった。
自分の一票で政治は変わるのか?
自分はいま、21歳だ。今年の8月には22歳になる。
初めて投票に行った日のことを覚えている。その日は成人式に行くときに似た自分が社会の一員になった感覚を持っていた。一方で「自分が投じた一票はこの先、本当に世の中に影響していくのか?」と無力感を感じたことも覚えている。とても広い海に一滴だけ薬を垂らす。そうしても、海の水質は何も変わらない。そういう思いがした。
この無力感は何から生じたのか。
自分が1億2千万という人口のひとりである、と自分の小ささを実感したのか。
それとも、自分が投票用紙に名前を書いた一度も会ったことがない、話したことのない政治家のことを「どうせ...」とすぐに諦めてしまったのか。
「投票」は無駄じゃない。頭ではそう思える。しかし、「みんな投票するべきだ。若者の投票率を上げるべきだ。」という意見を耳にしたとき、なにか上手く言葉にあらわせない違和感を私は抱く。私だけだろうか。
本当に、投票するということは私たちに求められているのか。
社会にコミットするとは、どういうことか。
なぜ、投票なんかするのか。
私たちに投票することは求められているのか。
そもそも、どうして私たち一人ひとりが投票して政治に参加する必要があるのか。投票しないことで何か被る不利益があるというのか。
そもそも、これは利益、不利益の問題なのか。
いきなり投票するか、しないかでなくもっと根本的なことを考えてみよう。
そもそも、私たちと社会はどんな関係にあるのだろう。
私たちは社会に存在し、社会に生かされている。ならば、何らかの責任を負ってしかるべきだ。社会を維持するために。つまり、社会に存在するのだから、社会に何らかのコミットをするべきだ。そういうことなら納得できる。
社会にコミットするとは、何なのだろう。
そもそも、社会にコミットするというときに、その手段は「投票」だけなのか。投票しない人間は、無責任な人間なのか。投票以外にも、社会にコミットする方法はあるはずだ。
例えば私は、東北や九州の地域に入り、中高生向けに出張授業、合宿型教育を届けるプロジェクトを大学の仲間と行っている。
今の時代には、「将来の仕事(やりたいこと、生き方)を自分で創る能力」を育てる教育が日本全国に必要だ。
首都圏と地方では、出会える人々、巡り会える教育機会にとてつもない格差がある。
首都圏の大学に通う大学生が、仲間を集め日本全国の地域に飛び、東京と地方の質的な教育格差を埋めていくことは、意義があると思ってやっている。
人が地域で育つようになれば、日本で元気なまちが増える。元気なまちが増えることで日本はもっと健康な国になる。
これが私なりの「社会にコミット」する手段だ。「投票」では生み出すことのできない価値を(規模は小さくとも)社会に生み出せていると信じている。
自発的な人々の集団が、「民主主義」をつくる。
話が少しずれた。
投票と、社会と、私たちの責任の話だった。
社会にコミットする方法は、何通りでもある。
勿論、その方法は人の得意、不得意、何が好きか嫌いかによるだろう。何をやりたいか、やりたくないかも重要だ。
話を投票のことに戻そう。
本当に、投票するということが私たちに求められているのか。
求められているだろう。だとしても、それは「義務」ではない。
「自発性」をもった上でのことだ。
私たちの生きる社会は、みんなが協力し合いながら生きている社会だ。
全員がどうしたら人の役に立てるかと、社会にコミットする責任があるし、それを選択しないのもありといえばありだ。ただ、人々がどんな選択をすることも認められているのは社会があるからだ。人々が自由でいられるために社会が永い努力をもってつくられてきたからだ。
自由な社会を維持しようと思えば、何が必要になるのか。
それが民主主義だ。
民主主義は社会の多様性を維持するための手段だと思うし、必要な道具だ。
民主主義を「ルール」だと思うから、他者に投票を強いるような言い方になってしまう。
民主主義は、社会を多様性のあるものにするためのツールで、課せられたルールじゃない。
投票を「義務」だと思うのはもうやめにしよう。
投票を「美徳」や、「モラル」の問題として考えよう。
なぜなら、私たちには社会を維持するための責任がある。社会に存在するからこそ求められる人格がある。
「民主主義」が機能するためには自発的な人々が必要だ。
誰も自ら動こう、何かをしようという人がいなければ誰も立候補しないし、誰も投票しない。これじゃ権力者が何をしようとも、勝手なルールをつくっても、文句は言えない。逆に、社会に自発的な人々が投票を行い、そのなかでも抜きん出て自発的な人々が立候補者として人々の前に立つ。自発性の豊かな人達がお互いに、何が社会のためになるのか議論しあう。
社会の自発性が高ければ高いほど、私たちの社会の民主主義もレベルを上げていくだろう。
政治家や政党に嫌気がさして、支持もしなく、投票もしたくないと思うことがあるかもしれない。そのときは、ぜひ自分の心に問いかけてみて欲しい。
「じゃあ、あなたは彼(彼女)の代わりに何をやったか?」
もしもそのとき、「これをやった」と答えられることがあるのなら、本当に政治家や政党が堕落しきっているのだろう。政治家も、政党も国民の鏡で、わたしたち自身の投影だ。私たちが諦めを感じるときは、きまって何もしていない自分の存在に気づいていない。
どうせなら、自分になにかできないか。と考えてみたい。
これを読んでいるあなたにだって、いずれ立候補する時がくるかもしれないのだから。
『投票』だけが民主主義に参加する方法じゃないし、それがすべてじゃない。