500点をたった1つ作る人でありたい。気鋭の写真家・奥山由之は「過呼吸」な時代に反抗する

「本当に作りたくて作りたくてしょうがない、渾身の一発を出してますか?」
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Yoshiyuki Okuyama

300人の高校生が踊り舞う。集団の生み出すエネルギー、1人ひとりの揺らぎと情熱。

「青春を全力で肯定してください」

そう頼まれて、写真家・奥山由之は、ポカリスエットの広告写真を撮った。

「潜在能力をひき出せ」「自分は、きっと想像以上だ」

シンプルで力強いコピーに触発され写真は1万枚を超え、写真集『POCARI SWEAT』になった。

TVCMやMVの監督業、雑誌、広告、CDジャケットなどの撮影......。ジャンルの垣根を超えて大活躍する奥山氏。世代的にはネットやSNSの申し子のように思えるが、「フィジカルに失敗する」ことや「無駄な時間」の大切さを説く。

「生産性」や「時短」といった言葉では測れない、本来のクリエイティブとは何か。前編に続いて、次世代を牽引するクリエイターの本音を聞いた。

ボーッと過ごす時間は無駄なのか

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Kaori Sasagawa

――最新写真集の書店員さんに向けた説明会で、「数年前は、欲しいと思った洋書の写真集を探し回って、本屋さんを回ったりしたけれど、遂に見つけた! と思ったら、思っていたものと違ったりして、何も得るものがなかったことがよくあった。けれどその失敗が大事」と話されていました。どういう意図だったのでしょうか?

今はみんな極力無駄な時間を過ごさないようにするじゃないですか。時短。なんとなく「何かをしていなきゃ病」がありますよね。

でも、ボーっとしているから無駄な時間かというと、それは違っていて。

例えばそのボーっとしていた時間にたまたま目の前を通った蝶を見て、何か気付きがあって、それを基に世の中が驚く大発明をするかもしれない。

そしたら、それはもうとてつもない時短だったということになりますよね(笑)。

つまり、何か情報をたくさん得て、たくさんさばいていれば時短である、というのは間違っていると思います。

結局、時間に無駄も何もないんですよね。その経験を自分はどう活かすかというだけの話。

僕は活動のスタートが早かったので、もしかしたら周囲から見ると有効的な時間ばかりを過ごして、計画的に何かを作り上げてきたと思われているかもしれないですけれど、実情は全然違っていて。

一日中何もしてなかったりとか、歩き回ったものの目的の物が見つけられなかったりとか、一見無駄といわれる時間を過ごしてきた記憶が、10代の頃にたくさんあります。

ある時期は、2カ月間くらい何もしないで家にいたこともありました。活動を始めてからなので最近の話です。それでも、その時に感じたことや考えたことが今の制作や生活に活きています。

どれだけ嘘なく正面から向き合っているか。

ただ一つ、無駄な時間があるとすれば、自分が本心から思っていない言動をせざるを得ない時間かもしれないですね。

常に嘘がない状態で、正面から自分と向き合って生きていないと、日々の思考が繋がっていかない。どこかである日ふと思ったことと、日々の基本思考が繋がらなければ、新たな発見も少なくなると思います。

――何をするかではなく、どれだけ自分と向き合っているかが大事だと。

やっぱり嘘をついて自分をコントロールして、本心とは少し違う行動をするのは、仮面を被って何かをやっているということ。仮面を被るというのは、自分ではない誰かの真似しているわけですよね。

真似した上での行動が自分の血となり肉となり、という過程を踏めるとは考えにくい。なのでまずは、日々心から思うことを話して、心から自分が考えたいことを考える。そうすると結局、道がグッと夢に向かって近くなる。

夢に向けて時間がかかる人ってやっぱり、損得で物事を考えていたりする気がしていて。損得を基準に自分の行動や言動を変えたりする。それが結果、遅いんだと思うんですよね。

どんな出来事にも、どんな時間の過ごし方にも、得も損もない。その時間を自分がどう感じて、どう捉えるか。それだけです。

――いまは「効率」「時短」「生産性」といった言葉がひとり歩きしていますけれど、クリエイターとしてはどう感じていますか?

物流や思考の巡りのスピードもどんどん早くなって来ていて、何かを見たら、その瞬間には「はい次」って。感じている間に、次のことを、次に欲するもののことを考えてしまっている。

今って、出力側も過呼吸になっている感じがするんですよね。出力側というのは、供給側とも言えるでしょうか。

例えば、若手のミュージシャンの人たちもリリースのペースがとても早い気がしていて。数年前なんて、5年ぶりのアルバムとか普通だったじゃないですか。

2年ぶりにアルバム出したら結構早いペースだったのに、今はもう1年に1枚アルバムを出していたりしますよね。

「本当に作りたくて作りたくてしょうがない、渾身の一発を出してますか?」みたいな気持ちになってしまいますよね。

この言い方は印象が悪いのですが、ここ数年の時代は、何にせよ「80点のものを大量生産する」みたいな風潮がある気がしていて。

――80点のものを量産、よくわかります。多くの企業にも通じる話だと思います。

次の5年、次の10年をリードしていく人達には、1個の大事なキーワードがあると思っていて、「やっぱりいい」だと思うんですよ。

今はちょっとでも間をあけると、「もうやめちゃったの?」みたいな感じですよね。「いや、こっちはこっちで一所懸命いろいろやってるんだよ」みたいな(笑)。

――何が、以前と違うと思いますか?

ちょっと過呼吸なんですよね。受け取る側の人たちも。

1つの作品を1年ぐらいは噛み締めて楽しんでくれればいいのですが。数をたくさん作っていると、やっぱりどうしても全部が100点という訳にはいかない。

量産して全部100点だったら、きっと5年10年しか続かないわけで。長い目で20年30年、40年続けていくのだとすると、1つ1つに対して丁寧に向き合って、数は少なくても、渾身の一発を打ち込み続けたい。

「なんとなく断続的にいい感じだな」よりも「うわーやっぱり良いな」って思ったときの方が、よりグッと心を掴まれませんか? 本当は100点のところが、150点に見える。

だから、1年間の間に80点を5つ作るよりも、500点をたった1つだけ作る人でありたい。

マグマの様にして、ふつふつと沸き上がるのを抑えながら、あるときに爆発させる! みたいにして、"待つ""耐える"っていうのが、今の作る側もしにくい状況になってきていると思います。

僕は、「やっぱり良い」人たちの活躍の時代が来ると思っているんです。丁寧に丁寧に打ち込む人たちの。現代の過呼吸に合わせてしまうと、「疲れてきたなあ」となってしまう人が続出すると思うんです。

――余裕がない業界で、目先の利益を上げるために、クリエイターが無理している。消耗戦ですね。

最近だと、(映画監督の)スパイク・ジョーンズがAppleのCMを監督をしていましたよね。彼って今年ディレクションした映像作品がその1本だけなんですよ。そして昨年も1本、一昨年も1本なんです。

たしか昨年はカニエ・ウエストのミュージックビデオ。一昨年はKENZOのCMです。少ないですよね。けれど、だからこそAppleのCMを観た時の「やっぱりいい!」がこみ上げてきて。このドーン! という感じは、とてもカッコよく思えました。

――あらためて、奥山さん自身は、写真を通じて人に伝えることについて、どんな思いで向き合っているのでしょうか? 20代で数々の写真賞を受賞。ファッション誌だけでなくCM、MV、広告写真も手がけるなど多くの人に届ける作品を発表されています。

この間(写真集の)トークイベントでもお話したんですけれど、「一般」っていうのはあくまで概念であって、厳密には「一般」という人は存在しないじゃないですか。

つまり、人はそれぞれ、自分自身に大なり小なり「個」を感じている訳であって、広告ポスターの前を歩いている人達は、「自分は一般です」と思っては歩いてない。

極端に言えば、「世界に1つだけの花」だと思って然るべきです。

その人達に、「一般」の統計を基にした制作物を見せても、物理的に目には入るかもしれないけれど、心に深く刺さったりはしない。

10年後20年後も、人の心に残すには、やはり「個」に向けた「個」による強い意思表示が必要だと思うんです。

これは僕の予測でしかないのですが、例えばヒットするラブソングって「みんなこの歌詞が好きなんでしょ?」みたいにして書かれたものではないんじゃないかな、と思っていて。

つまり、誰か1人に対して書かれたものこそが、結果的に多くの人の心に残るものになっていると思うんです。

表現の矛先が、誰か1人ないし少人数で、その人に対してとても強い想いを持って打ち込まれた波動の、その余波を周囲が感じ取る。それが"伝える"の原則だと思うんです。

最初から広範囲に打ち込もうとしている波動は、部分的に見ればとても強度が弱い。

強い気持ちをもとに、ある少人数に対して打ち込まれた波動こそが、まるで湖に投げ込まれた重い重い石のようにして、円を描くように周囲にも広く伝わっていくのだと思います。

だからこそ、多くの人たちに伝えたい気持ちが最も必要とされる広告も、制作者は具体的な誰か1人だけのために作るべきなんです。

データをもとに統計をとって、「こういったものがみなさんに届く制作物ですよね」という流れで何かを作ったとしても、それは多くの人に広く浅く弱く伝わるだけであって、1週間も経てば忘れ去られてしまいます。

"伝わる"というよりも"見えている"だけという感覚でしょうか。

商品のラベルとタレントさんが次から次へと入れ替わっていく中で、以前掲出されていたポスターなんて誰も覚えていない。もちろん、広告物というのは、短時間に多くの人々へあるメッセージを訴求するものなので、訴求期間の長さや深度はそもそも必要ないのかもしれません。

ただ僕の場合は、そうではなくて、刀で誰かのお腹をグサッと刺して、その刀が何十年も抜けないみたいな。そういう強度のあるものを作りたい。

ただツンっと突くぐらいのものであれば簡単に作れます。けれどせっかく自分が関わるのであれば、自分が関わる意義を見出したい。それは一写真家として当たり前の欲望だと思います。

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Kaori Sasagawa

――自身の作品ではなく、多くの人にリーチする広告の写真であっても同じだと。

「これをそのまま撮ってください」みたいなものを撮るのであれば、それは会社員をやっているのと一緒だと思います。もちろんそれもそれで一種の"プロ"です。求められている画をかたちにする、という意味で。

けれど、僕の写真の起源がそこにはないんです。

デビューは、「写真新世紀」というコンペティションでの受賞だったのですが、その時に出品した「Girl」という作品は、当時の友人1人だけのために作った作品でした。

その友人に、言葉で気持ちを伝えることが上手くできなくて、それで仕方なく写真を使ったんです。

――気持ちを伝える手段が、写真だったんですね。

写真でなくてもよかった。けれど、当時の自分の気持ちの質感と、写真との相性がとてもいい様に感じたんです。

程よく曖昧で、奥行きがある。写真は、人の数だけ捉え方の数がある、余白を持つ表現だな、と。言い過ぎないことによる、表現としての色気を感じていました。

つまり、誰かに自分の気持ちを伝える手段の1つとして写真を手にしたのが始まりでした。だから今でも、写真に自分個人の思いを反映させられる要素が少しでもないと、なかなか撮れない。

だからこそ、明確なラフがあって「これをそのままに」という依頼になってしまうと、それであればわざわざ写真で表現しなくてもいいのでは、となってしまうんです。

――インターネットついてはどう思っていますか? 今は検索すればその場で答えがわかる時代、SNSですぐにつながれる時代です。先ほど、作る側も見る側も「過呼吸」という話もありましたが、ネットはその動きを加速させている部分もあると思います。

本当に失敗が少ない世界になりましたよね。数値上で上位に位置付けられているものが、あたかもクオリティとしても高いみたいな話に今なっているじゃないですか。

数が多いと、その物のクオリティも高いと思い込みがちで、特に集団心理の強い日本人は、10と100だったら「100のほうがクオリティが高い」と思ってしまう。

100人よりも300人がいいね!と言っている写真の方がいい写真であるって勝手にみんな思い込んでいますが、「そんなわけないだろ」みたいな(笑)。

むしろ数の少ない写真の方が奥行きがあるものだと思います。見応えがある写真、というか。数秒ではどうにも判断できない写真。

具体的に目に見える上下が数値で算出されるから、なんとなくそれに頼っちゃうところがありますよね。数字で評価すると楽だし。

――奥山さんのInstagramやTwitterのフォロワーも多いですが。

一概に良い悪いは言えなくて。というのも僕があまりSNSの面白さをまだ掴めていない気がするので。

ただ一つ思うのは、SNSで自分の価値を見るのであれば、それは止めた方がいいと思います。

周囲の情報を得るだけであれば、それでいいと思いますが、自分のことに関しては、インターネット上ではなく、その辺の公園を散歩しているおじさんに聞いた方がいいと思います(笑)。

百聞は一見に如かずです(笑)。

――この記事は、そんなインターネットを通じて読まれるのですが(笑)、何かメッセージを。

これは自分にも言い聞かせていることですが、人生を楽しみたかったら、シンプルに頑張らなくてはならない、ということですね。

――ストレートなメッセージですね。奥山さんは一見自然体というか、肩肘を張って力んでいるようには見えませんでした。

昔からなぜか「楽しい」だけでは進めない人生というか。楽しいを味わうには相当な努力が必要だって、常に誰かに言われている気がするんです。

誰かに背中を押されたものなんて、そんなに強い印象を残せないと思うんですよ。背中を押したいのに、追いつけないくらいの勢いで走っていく、みたいな人でないと。

だから、僕はそうでありたいですし、まだまだ作りたいものがたくさんあります。

.........

「見る側が過呼吸になっている」

なんでも検索できる時代。映画も音楽も本も、ネットですぐに触れられる時代。創る側もまた、そのスピードに翻弄されてしまっている。

「80点を量産する時代」にうなずく自分がいた。一歩引いて、そのサイクルから離れて見たら、どんな世界が見えるだろうか。生産性や時短から解放されれば、自分の時間を楽しめるだろうか。

奥山さんが話すように、今私たちに必要なのは、自分自身に耳を澄ませる時間なのかもしれない。