理研の笹井さんについては、これまでも、これからも多くの事が語られるのだろう。STAP細胞云々については、特に書く事は無い。ただ、大きな才能の消失を悼むより、期待も予測もされなかったはずの一個人の死に、頭を垂れたい。
ニュースを知った時、世の無常を直視したような気がして、悲しさで頭がいっぱいになった。
笹井さんは、科学研究の最前線を担い、業績を積み上げてきた人物だった。出世街道を駆け上ってきたエリート科学者、と言っても過言ではないだろう。そうやって成果を挙げ続けてきた人が、メディアの耳目を集めたとはいえ、たった一度の疑義を経て、命を失うに至るとは、なんと恐ろしく、儚いことだろう。
歴史を振り返れば、このような類例はさほど珍しくない。そうでなくても、病や事故によって人間はあっけなく死んでいく。どんなに野心や才能に恵まれた者も、突然の不運、理不尽な運命には逆らえない。
このような未来を、一年前の笹井さんは予期していただろうか?まさか。だが、実際にはこのような8月5日がやって来てしまった。人間は、データを集積可能な領域ではそれなりに予測をたてることができるが、個々人の運命についてはほとんど何も知らない。その、不透明な時間を生きているからこそ、今こうして生きている事実は有り難く、知人友人との再会は交歓に値するのだろう......そんな事は頭ではわかっている!だが、今回のような出来事にいざ直面すると、自分自身の認識の甘さと娑婆世界の容赦の無さに身震いせずにはいられない。
私自身もそうだが、たいていの人間は、明日の自分もきっと生きていて、周囲の人間もきっと同じように生き続けているとボンヤリ信じながら生活している。そのこと自体は、決して悪いことではない。けれども人の世はもっともっと理不尽と不測にみちていて、簡単に人間の命脈を断ち切ってしまう。怖ろしいことだと思う。そして情け容赦の無いことだ。
私は、笹井さんが生きていたのと同じ娑婆を生きている。だから、他山の石とはするまい。もし破滅が明日に迫っていても、きっと私には知るよしなど無いのだから。
(2014年8月5日付「シロクマの屑籠」より転載)