将棋の第30期竜王戦七番勝負(読売新聞社主催)の第5局2日目が12月5日、鹿児島県指宿市「指宿白水館」で指され、挑戦者の羽生善治棋聖が渡辺明竜王を87手で破り、通算4勝1敗でタイトルを奪取した。
羽生棋聖は2003年以来、15期ぶりの竜王復位を達成。通算7期となり「永世竜王」資格を獲得した。
これによって、将棋界の8大タイトルのうち新設の「叡王」以外の7タイトルで永世称号の資格を得たことになり、史上初の「永世七冠」資格者となった。
この日の昼時点で「羽生有利」の形勢だった局面は、そのまま進展した。
69手目、羽生棋聖は「▲1五香」を力強く放った。自陣の「玉」を固めつつ、盤面の端からも攻め上る。盤上の羽生棋聖の駒は、まさに「全軍躍動」だった。
午後3時半前、羽生棋聖が75手目で「▲4四歩」と指した。ニコニコ生放送に映った羽生棋聖の手が震えていた。
「羽生の手が震える時は、勝ちを読み切った時だ」。羽生棋聖の"伝説"を思い出させる瞬間だった。
渡辺竜王も最終盤、82手目で「△6九角」と果敢に敵陣に飛び込んだが、羽生棋聖が震える手で「▲8四香」で詰めろをかけた。
午後4時23分、渡辺竜王が投了を宣言。ここに第30期竜王戦は、羽生棋聖の勝利で幕を閉じた。
羽生棋聖にとって、渡辺竜王は因縁の相手だった。「永世竜王」まであと1期と迫りながら、2008年と2010年にも渡辺竜王に挑んだが、いずれも阻まれていた。
10月19日、羽生棋聖は第1局の前夜祭の挨拶で、「自分自身の持っている力を振り絞って、面白く内容の濃い将棋を指せるように全力を尽くしたいと思っております」と、抱負を語っていた。
そんな羽生棋聖のこれまでの歩みを振り返ってみよう。
1985年に中学3年生でデビューして以来、羽生棋聖は誰もが知るトップ棋士として将棋界に君臨している。
羽生棋聖は1970年、埼玉県所沢市生まれ。4歳からは東京都八王子市で育った。
居飛車中心の棋風だが、振り飛車もこなすオールラウンダー。序盤、中盤、終盤と隙がない。2014年に公式戦通算1300勝を達成した。
圧倒的な終盤力から見せる逆転勝ちは「羽生マジック」と呼ばれる。集中するにつれて目付きが鋭くなり、相手を下からジロリとにらむ独特の「羽生ニラミ」もファンの間では有名だ。
記憶力は抜群。重要な棋譜はすべて頭に入っており、「10代後半のころは、研究会で隣の人が指している将棋も覚えていました」と語る(朝日新聞1995年2月7日夕刊)。趣味のチェスでも、トップレベルの実力を持つ。
定跡からはずれた「未知」の局面の戦いでも強い。若手が考案した新戦法も積極的に取り入れ、相手の戦型に合わせて指す柔軟さも持ち合わせている。
羽海野チカさんの人気漫画『3月のライオン』に登場する主人公・桐山零や天才棋士の宗谷冬司は、ファンの間で「羽生棋聖がモデルの一人では」と推測する声がある。
将棋との出会いは小学1年生の頃だった。学校が終わると、毎日のように遊びに行っていた同級生の家に将棋盤があった。将棋のルールは同級生たちから教わったという。
小学2年生の夏、子ども将棋大会に出場し、大会デビュー。この時は、はじめに1勝した後、2連敗で予選落ちだった。
だが、この敗北をきっかけに、将棋道場「八王子将棋クラブ」に通うようになったという。
トランプ、ラジコン、ダイヤモンドゲーム、ゲームウオッチ、ヨーヨー...数ある遊びがある中でも、羽生棋聖は「将棋で遊んでいる方が面白かった」と回顧している。
デパートの将棋まつりなどにも「広島カープ」の赤い野球帽をかぶって出場し、次々と勝利した。
当時、将棋ファンの間では「恐怖の赤ヘル少年」と話題になっていたという(朝日新聞1990年6月4日夕刊)。これは母親が見つけやすいよう、羽生にかぶらせたものだった。
小学6年(12歳)だった1982年、二上達也九段に入門。同年、奨励会入会試験にも合格した。
その後、わずか1年あまりで「初段」になるなど、破竹の勢いで昇段した。1985年、15歳で「四段」となりプロデビュー。加藤一二三九段、谷川浩司九段に続く、史上3人目の中学生棋士となった。
中学時代について、羽生棋聖はこう語っている。
「中学時代は奨励会(プロ養成機関の例会)などで月3日は学校を休んでいました。でも、友達にノートを借りたり、努力している姿を先生に見せたりして、何とか赤点は取らなかった。試験の山かけは、よく当たりました」
(朝日新聞1995年2月6日夕刊)
羽生棋聖と同年代には、故・村山聖九段(追贈)や佐藤康光九段、藤井猛九段、森内俊之九段など、いわゆる「羽生世代」と呼ばれる強豪棋士たちが揃う。また、その上には谷川浩司九段という「天才」がいた。
1989年、デビューからわずか4年で初タイトルの「竜王」を獲得。19歳2か月でのタイトル獲得は当時の最年少記録だった。
1995年には史上初めて「六冠」となり、ついに「七冠」制覇に王手をかけた。
だが、ここで立ちはだかったのが、「目標」としていた当時の谷川浩司王将だった。
七番勝負の第7局、同一局面が4回現れる「千日手」による指し直しの末、谷川王将が勝利。4勝3敗でタイトルを防衛した。
谷川王将は当時、阪神大震災で神戸の自宅が被災。5局目まで、名古屋市にある夫人の実家から対局に通うというハンディを背負っていた。それを乗り越え、まさに意地の防衛だった。
七冠を目前に敗れた当時の羽生六冠。「再挑戦は難しい」という見方もあったが、ここからが驚異的だった。獲得していた6つのタイトルの防衛に成功。翌年、谷川王将への再挑戦を果たした。
王将戦では4連勝で谷川王将を圧倒。前人未到の「七冠」制覇を成し遂げた。こうして、「天才」の世代交代がはじまった。
あの七冠独占から、およそ20年が経った。
羽生棋聖はこの9月に「王位」、10月には「王座」と続けてタイトルを失い、2004年以来13年ぶりに「一冠」となった。
「羽生の時代は終わった」
Twitterではそんな書き込みもあった。
確かに、いま将棋界は佐藤天彦名人や豊島将之八段など20代の台頭が著しい。羽生棋聖を破ってタイトルを獲得した菅井竜也王位と中村太地王座も、ともに20代だ。
彼らの姿を見ていると、あの「天才」谷川浩司九段からタイトルを奪取していった「羽生世代」と、どこか重なる気さえする。
その「羽生世代」も、いまや齢五十も間近となった。気力・体力を酷使する棋士にとって、厳しい年齢になりつつある。
羽生棋聖と数々の名勝負を繰り広げてきた森内俊之九段は2017年3月、棋士の序列を決める「名人戦」順位戦でA級からB級への陥落が決まると、フリークラス転出を決断した。
これは、森内九段が二度と「名人」復位を目指さないことを意味する。
一方で、若手の台頭が著しい中にあっても、羽生棋聖はトップランクの「A級」棋士として君臨し続けている。
思えば、「一冠」に陥落した2004年、あの頃にも「羽生の時代は終わった」という声があった。
だが、結果は違った。直後に次々とタイトルを奪取し、同年度内には「四冠」(王座・王位・王将・棋王)となる破竹の勢いを見せた。
2007年に「二冠」になったときも「羽生は終わった」という声があった。
だがこの時も、羽生棋聖は風評を覆した。翌年には名人と棋聖を奪取し「四冠」となった。
40代となっていた2011年には、名人と、20年守り続けた王座を失い、またも「二冠」となった。「羽生の時代は終わった」という声はこの頃にもあった。
それでも、羽生の時代は終わらなかった。
翌2012年には「朝日将棋オープン戦」などで優勝。NHK杯では4年連続優勝を果たし、将棋界初の「名誉NHK杯選手権者」となった。史上3人目となるA級順位戦での全勝優勝も達成した。
1991年から現在に至るまで、常に一つ以上のタイトルを保持し続けている羽生棋聖。一度もタイトルを獲得せずに引退する棋士が数多くいるなか、この記録は快挙だ。
そして、羽生棋聖は15年ぶりの竜王復位。前人未到の「永世七冠」資格を獲得した。
羽生の時代は、まだ終わっていない。そう思わせてくれる竜王戦だった。