日本の台所と呼ばれた東京・築地市場の跡地に、かつて美しい日本庭園が存在していたこと、ご存知でしょうか?
それは「寛政の改革」で江戸の幕政を立て直した松平定信が作った「浴恩園(よくおんえん)」。
この浴恩園を、現地で再生させたいと活動する市民団体があります。名庭園とうたわれた浴恩園とはどんな場所だったのでしょうか?
浴恩園とは?
浴恩園は、白河藩主や江戸幕府の老中を務めた松平定信が、築地にあった下屋敷を庭園として整備した場所です。
定信は生涯で5つの庭園を作っていますが、中でもこの浴恩園は「天下の名庭園」として知られていたといいます。
浴恩園の中心は「春風の池」と「秋風の池」の2つの潮入の池。
潮入とは海水と河川水が混ざって入る仕組みの池のことです。
浴恩園は江戸湾から引き入れた海水が2つの池を巡るように作られ、潮の満ち引きによる岩の見え隠れなどを楽しめたほか、池で海の魚と川の魚を釣ることもできたそうです。
また、「春風の池」の周辺には桜、「秋風の池」には紅葉が植えられ、春秋それぞれの季節の景色を堪能できたといいます。
桃や梅、菊などさまざまな草木も植えられていたほか、約1万7000坪の園内には50カ所あまりの名所が作られ、風光明媚な風景を楽しめる庭園だったと考えられています。
明治時代に出版された「江戸浴恩園全圖」(国立国会図書館所蔵)には、浴恩園の全景が描写されています。
定信は、老中を引退した35歳ごろに浴恩園を作り、50代半ばで隠居した後は上屋敷から移住。
しかし、浴恩園は江戸時代の大火(1829年)で焼失し、同年に定信も亡くなりました。
明治維新後には、跡地に海軍兵学校や海軍病院等などが設置されましたが、その海軍関連施設も、1923年に起きた関東大震災で壊滅状態に。
同じように甚大な被害を受けた魚市場が日本橋から築地に移転することになり、2つの池は地下に埋蔵されました。
1935年に開場した築地市場は2018年に83年の歴史に幕を下ろし、豊洲に移転しました。
浴恩園は現在は跡地が残るのみですが、東京都指定の旧跡「浴恩園跡」として文化財指定されています。
また2023年の試掘調査の結果、江戸時代の遺構、遺物が残っていることが判明したため、現在も調査が継続しています。
築地は東京や日本にとって象徴的な場所であり、東京2020オリンピック・パラリンピックの後、跡地がどうなるのか注目されていましたが、東京都は2024年4月19日、築地まちづくりの事業予定者に三井不動産を代表とする企業グループを選んだと発表しました。
事業予定者の提案書では、約5万人収容のイベント・スポーツ施設や、ホテル、高層ビル、ヘリポートなどを作る計画になっています。
その一方で、浴恩園を築地市場跡地に再生させたいと願う市民もいます。
「旧築地市場に眠る『浴恩園』を再生させる都民・国民の会」では、造園や街づくり、潮入の流域の専門家が賛同し、 4月27日に浴恩園に隣接する浜離宮庭園とパノラマビューで市場跡地・浴恩園を観る潮入歩きツアーや、浴恩園の宝や歴史を知るセミナー、意見交換会を開催します。
申し込みはこちらまで: mizubelife◆gmail.com (※ 「◆」を「@」に置き換えて送信してください)