2016年にカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門審査員賞を受賞した深田晃司監督の最新作、『よこがお』が公開中だ。受賞作の『淵に立つ』でタッグを組んだ筒井真理子の横顔からインスピレーションを受けた作品というが、込められているテーマは複雑で多様だ。
「今の日本映画は多様性をまだまだ欠いていると思うんです。いろんな人がバリアを感じずに、自分の思いを映画にぶつけたり、自分にはこう見えるという世界観を自由に描いたりできる世界にならないといけないと思います」。
現代の日本映画について、そんな危機感も露わにする深田監督が、この作品で描いたものは何なのか。
なぜ犯罪を起こしたのか。それは簡単にわかるものではない
『よこがお』が描くのは、不条理な出来事によって人生が一変したある女性の「復讐劇」だ。
筒井真理子演じる市子は、訪問看護師として懸命に働いていたが、ある日突然女子中学生失踪事件への関与を疑われ、メディアの過熱報道などにより人生が一変してしまう。すべてを失った市子は、名前を「リサ」と変えることを決断し、用意周到な復讐を企てる。
作品には、人間の多面性や白黒つけられない「曖昧さ」など、さまざまなテーマが込められている。
印象に残ったのは、一人の人間の中にある矛盾や、善にも悪にも向かう揺らぎが繊細に描かれ、わかりやすく単純化しては描いていないところだった。
「自分が作る映画は、いろんな面で曖昧さが残されていて、それを意識的にやっている部分もあります。見終わった後に想像力の余地、つまり“余白”を残したいという思いがあるんです。なるべくお客さんが思考停止して見るものではなく、100人いれば100通りの見方ができるようなものにしたいと思っています」
「人が生きている社会は、ものすごく曖昧さに満ちていると思うんです。親子であっても恋人であっても夫婦でも、本質的には他人が何を考えているかはわからなくて、お互いに『多分、こういうことを考えているんじゃないかな』と想像しながら関係性を築いている。そんな風に他人と接するときのような尺度で、スクリーンの登場人物とも接してほしいし、向き合ってほしいという思いがあります」
「いろんな曖昧さが映画の中にも存在する。そこが今回の『よこがお』のテーマの一つでもあるのかなと思っています。誰かの顔を横から見る時、ひとつの面は見えているけど反対側は見えていないように、人間は一面的なものでなく、多面的な存在であると思います」
わかりやすくしようとすれば、白黒はっきりしてくる。
しかし、『よこがお』に出てくる登場人物は、そんな簡単に「こういう人物である」と白黒つけて語り切れない存在だ。
「白黒つけたくなるのは、人間の欲望かもしれないですね。例えば、ある犯罪が起きた時、法律上はもちろん白黒をつけないといけない。でもそれはあくまでも法律上の話であって、実際になぜ犯罪をしてしまったのかは、そんなに簡単にわかるものではないと思います」
「もっと本質的なことを言ってしまうと、結局、自分の心なんて、自分自身にだってわかるものではない。これこそが20世紀以降の重要な人間観だと思っています。なのに、加害者が犯罪を起こしたのは幼少期のトラウマが原因なんじゃないかとか、家にテレビゲームがあったからとか、そういうところに飛びついてしまう。何か理由をつけて『自分とは違う』と線を引こうとする。本来は線引きができるものではないと思うんですよ。脚本を書いているうちに、本当は曖昧さに満ちているのに、曖昧ではないとする人の葛藤みたいなものに関心が出てきました」
人間を裁いたり、「マスコミは悪」と裁くことが映画の役割ではない
事件が起こったとき、報道することの重要性もある。しかし、さまざまな情報から決めつけてしまうことは避けなければならない。そのふたつのことも、矛盾しているようにも思える。
さまざまな事件が起こると、自分は果たしてどのように報道を見ればよいのか、わからなくなってくる。
「人間には、好奇心もあるし、欲望もあるし、それは否定してもしょうがないわけで。人間の性質みたいなものを裁くことは、僕にとっては映画の役割ではないと思っています。そこは誤解のないようにしたいと思います。『マスコミは悪である』と裁くのが映画の仕事でもない。それよりは、社会に対しての『彩度』をより上げていくことが必要だと思うんです」
「人の欲望や好奇心を、まるでないもののように扱うのではなく、『いや、あるんだよ』と示せることが映画や文化芸術だとも思います。『よこがお』のような作品があることによって、社会の見え方、彩度や精密さ、画素数みたいなものが、よりクリアになってくのなら嬉しいです。それが文化芸術の役割なんじゃないでしょうか」
さらに深田監督は、「それ以上のことを文化芸術に求めると逆に危険なのではないか」と警鐘も鳴らす。
「やっぱり、映像の歴史、映画の歴史というのは、プロパガンダの歴史でもあると思うんです。映画というものは、多くの人に一気に訴えかける力がものすごく強いですよね。だから、戦争中は政治的な宣伝やメッセージを伝播するために利用されたわけです。映画の持つ力に対して、作り手こそが警戒しないといけない。だからこそ、そういったプロパガンダからいかに離れていくか、ということが自分の中では大事だと思っているんです」
映画の中で「女性」を描くということ 「MeTooなどの社会運動は意識しないといけない」
深田監督は、他媒体のインタビューで、この『よこがお』の主人公・市子のことを、「女性だからという特別な視点では描かなかった」と語っている。
一方で、前出の「欲望や好奇心があるにも関わらず、存在しないように扱わず、『ある』ことを示すことが必要」という視点は、女性にも当てはまる。つまり、女性が女性であることで生じる不便さを、『ない』ことにしてはいけない、ということだ。
「やはり自分は男なので、どうしても女性観というものにフィルターがかかっている。ステレオタイプな女性を書いてしまうかもしれない、という懸念はあります。そこから離れるために、こういうときにどんな気持ちになるのか、そこは性別のフィルターをかけずにフラットでいようと意識しました」
「また一方で、作家の視点としては、MeTooなどの社会運動の流れも意識しないといけないと思っています。自分の過去の作品を見ても、女性が可哀そうな目にあっている場面が多いんです。男性作家の描く文学作品でも、女性の方がより可哀そうな目にあっていたり、女性が亡くなることがロマンチックに描かれていたりする。男性の無意識の目線によるものかもしれませんが、なぜそういった表現が多く生まれてきたかというと、やっぱりそれだけ社会の中で女性は立場が弱いものであったことが大きいと思います」
今でも社会的に女性が置かれている立場は弱い。そして、性被害など悲劇的な状況が存在する状態は続いている。
しかし、近年の映画作品の中にはその事実がもう『ない』ということにされ、『女性は強いもの』だという理想を描くものもある。
「例えば、溝口健二監督の『近松物語』や『西鶴一代女』では、執拗に堕ちていく女性が描かれます。それは、その時代に社会の中でいかに女性が弱い立場であったのかを客観的に見つめると、そう描かざるをえないと思うんです。その状況がまだあるのに、『女性は弱くないから大丈夫だ』というメッセージを無理に込めようとすると、そこには危うさがあると思います」
女性キャラクターが強く活躍する映画には、確かに勇気をもらえる。
しかし、すべての差別がなくなっているわけではない。
存在する差別を「なきもの」にはできないという例として、深田監督は医大入試の件を挙げる。
「日本の医大入試で女性が一律に減点されているという、とんでもない差別が当たり前に行われていた。その状況で、『女性はこんなに強いんだ』ということを描くよりも、社会の中で弱い立場にある女性をそのままに描くことに僕は関心があるのかなと思います」
「ある種、こうあるべきという理想を先取りして見せることも映画表現の力であると思うんですけど、そうなると映画が現実に起きていることの『ガス抜き』になってしまう可能性もある。ひとつひとつ、慎重に作り手として態度を決めていかなければならないと思っています」
「今の日本映画は多様性を欠いている」
映画は、見る人の考えや価値観、そして時にはその人の人生そのものに大きな影響を与える。
今、深田監督は、日本映画に必要なものは何と考えているのだろうか。
「今の日本映画は多様性をまだまだ欠いていると思うんです。いろんな人がバリアを感じずに、自分の思いを映画にぶつけたり、自分にはこう見えるという世界観を自由に描いたりできる世界にならないといけないと思います」
「民主主義の本質は、いかにマイノリティや声なき声を政策に反映させることができるか、ということだと思っています。でも、多数決である限りは、多数派の声ばかりが反映されてしまう。マイノリティの声を民主主義政治に反映させるためには、声なき声が可視化される必要があります。それは、今まで文化芸術が担ってきたことです。好き勝手に、野放図に文化芸術を作れる環境があるだけで、民主主義は成長していくと思います」
一方で世の中には、たくさんの観客に向けられた、多数派の原理で動いている映画もある。
「経済至上主義の社会では、資本を持っている会社の作品がやはり圧倒的に強くなります。本当に健全で多様な状況が生まれるためには、競争するにしても、健全な競争原理も必要ですよね。例えば、フランスは助成金が多いうえに、テレビで映画のCMを流すことが法律で禁止されています。それを許してしまうと、資本力がそのまま宣伝力になってしまい、広告費を持っている映画が強くなるので、それは文化の多様性を阻害するという観点があるんです」
「日本は助成金なども少ないし、あまりにも新自由主義的な状況です。文化の多様性の先に民主主義があるという観点で、もうちょっと変えていかなければならないのでは、と思っています」
冒頭で、深田監督は観客の想像力をゆだねること、余白を残すことについて語っていた。今の日本映画の「多様」の中には、監督の世界観が完璧に描かれ、逆にいうと想像の余地のないものも多いのではないだろうか。
「完璧主義といわれる監督の映画は美学としてすごいと思いますが、監督のコントロールが行き渡り過ぎていて、どこかに退屈さもある」と深田監督は言う。
「ヌーベルヴァーグの旗手と言われるエリック・ロメールなどの作品は、ものすごく偶然に満ちているんです。監督にもコントロールし得ない豊かな偶然が映画の中で起こっている。偶然というものは、例えば俳優に演技をゆだねた時に起こるものだと思っています」
「監督である私にとって、俳優一人ひとりは他者であり、自分とは違った視点の持ち主。映画というものは、監督のコントロール外のことがいかに起きるか、俳優がカメラの前でいかにコントロールの外にある魅力を放ってくれるか、ということが大事だと思います。自分にとっての映画とは、そういったコントロールできない世界にカメラを向けることによって、みずみずしさを持ちうるメディアであると思っています」
深田晃司(ふかだこうじ)
1980年生まれ。東京都小金井市出身。大正大学文学部卒業後、99年に映画美学校フィクションコースに入学。05年、平田オリザが主宰する劇団「青年団」に演出部として入団。16年、『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞したほか、17年には第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。18年、インドネシアを舞台にした『海を駆ける』が公開した。
(執筆:西森路代 @mijiyooon / 編集:生田綾)
【作品情報】
『よこがお』
7月26日(金)より角川シネマ有楽町、テアトル新宿他全国で公開中
出演:筒井真理子/市川実日子 池松壮亮/須藤蓮 小川未祐/吹越満
脚本・監督:深田晃司
配給:KADOKAWA