「永遠のドライチ候補」由伸2世がアメリカで挑むラストチャンスへの決意

プロになるため「最後のわずかな可能性に懸けてみたい」と、渡米を決断した選手がいた。
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本人提供

プロ野球のキャンプが終了し、まもなくシーズンが始まる。球春到来を待ちわびているのは、アマチュア選手も同じである。そんな中、プロになるため「最後のわずかな可能性に懸けてみたい」と、渡米を決断した選手がいた。

谷田成吾(やだ・せいご)。「由伸二世」という異名を持つ。

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「由伸」とは、現読売ジャイアンツ監督の高橋由伸だ。同大学出身の高橋由伸監督に打撃スタイルが似ていることからそう呼ばれるようになった。

谷田は、慶応高校初の1年生で4番に座り、横浜DeNAの筒香嘉智の69本を超える高校通算76本を放った。その後、慶應大学に進み、通算15本塁打をマーク。中学、高校、そして大学と日本代表に選出され、実績は十分だと思われた。

しかし、迎えた2015年ドラフト会議。上位指名は確実、1位での指名もささやかれていたにも関わらず、まさかのドラフト漏れ。周囲は驚きを隠せなかった。

ドラフト直後に谷田はこう語っていた。

「(指名されなかったことは)ショックだったけれど、立ち直れないわけでもなかった。いくら悩んだってどうすることもできないですから。(指名解禁となる)2年後、やってやるぞ。と。この気持ちになるために落とされたのかもしれないと勝手に解釈した。このときの感情を忘れないようにやれば、自分は成長できる」

実は、ドラフト会議の最中、慶応大学の監督とこんな会話をしたという。

「ドラフト会議が終わりに近づいて、これから、育成ドラフトの指名になるとき、監督から『育成でもプロに行くか?』と聞かれた。

ドラフトで指名されずに、パニックになっていたが、そのときは、2年後にプロになれる自信はあった。決め手となったのは、『3桁の背番号(育成契約)をつけたお前を見たくないから』という監督の一言だった」。

こうして谷田は、複数の会社から声をかけられたのち、「プロになるために必要なものを身に付けられるチーム」と、JX-ENEOSに入社した。

社会人1年目のある日、谷田は会社の人からこんな話を耳にしたという。

「巨人の原監督が『私がまだ巨人の監督を続けていたら谷田くんをドラフトで取っていただろうな』と言っていたぞ、頑張れ、と。正直、とても嬉しかった。だけど、本当に実力があって、どの球団からも欲しいと言われる選手だったら、間違いなくプロになれるわけで、まだまだ自分にはやるべきことがある」。

社会人野球の名門、ENEOSに入社後も、順調な滑り出しを見せた。1年目は4番バッターに座り続け、日本代表にも選出された。

大きな壁が立ちはだかったのは2年目だった。思うような結果が出ず、徐々に打順が下がり、さらには今まで経験したことのない「控え」にもまわるようになった。

「社会人は一発勝負。調子のいい選手でオーダーを組むということは当然の采配。結果をコンスタントに出すしかない。試合に出られないのは、自分が悪い。それだけ」。

自分へのふがいなさをパワーに変えた。代打で成績を残し、日本選手権でスタメンに復帰。

昨シーズンを終えた。

そして迎えた、2017年10月、プロ野球・ドラフト会議ー

またしても谷田の名前は、会場に響くことはなかった。同じ屈辱を二度も味わうことになった。

「部屋の中で、携帯をずっと見ていました。呼ばれないなあ...って」。

谷田の心境は複雑だった。

「2年前のドラフトとはやっぱり違う気持ちで、期待値は低かった。それは、自分の結果を見れば一目瞭然だった」。

谷田に調査書が届いたのは2球団のみ。前回のドラフト会議では11球団だった。それでも谷田は自分を励まし、前を向くしかなかった。

「調査書が1球団しか届かなかった人が、その球団から指名されたことがあった。だから、最後まで指名されると信じて見ていましたが...。」

2年前の慶大時代、2人の同期を見送ったのと同様、今年もENEOSから3人を見送った。

ネットでは、「永遠のドラフト1位候補」と残念がる人もいた。ファンたちは、谷田がドラフトに名前を連ねない理由を探し求めていた。

プロにこだわってきた谷田は、独立リーグでプレーするという選択肢も頭によぎったという。社会人野球でプレーする選手は、育成選手としてプロに入ることができない決まりがあるからだ。

「どうしてもプロにすがりつくなら独立リーグは選択肢の1つではある。だけど、そこまでして野球を続けたいのかと自分を何度も問いかけた。その結果、この1年、社会人で結果を出そうと思った。活躍できたらプロになれる。成績が悪ければプロを目指すのは終わりというのはどの舞台でも同じ。

自分の会社には、これだけ社会人野球にお金や時間を割いてくれていて、感謝の念があったし、部署の人も理解があって、応援してくれている。これまでの野球人生で支えてきてくれた人、練習に付き合ってくれた仲間、全てを思い出してこの1年、頑張る」

こう決断し、春のキャンプを終えた直後だった。一通のメールが届いた。

「うちの球団で君のプレーを見るよ」

メジャー球団のスカウトからの誘いだった。

アメリカには、「ショーケース」と言われるオーディションのようなシステムがあり、

マイナーキャンプがある3月に渡米する必要があった。メールが届いたのは2月末。

逆算すると、約一週間の間に決断しなければならなかった。

実は、谷田は、ENEOSでプレーすると決断する前に、様々な選択肢を模索していた。その中の1つに、アメリカでプロになるという考えもあった。しかし、当初は、どこの球団からも良い返事はなかったため、諦めざるを得なかった。そんな中で届いた朗報。渡米するとなれば、ENEOSを退職する必要があった。「キャンプを終えたばかりで『よし、これから』というときに、チームや監督に迷惑をかけて申し訳ない...」迷いはあったが、最後のチャンスに懸けてみたいという想いが勝った。

「アメリカの球団側にとっては、たくさん選手がいるうちの1人に過ぎない。見てもらえるのは1球団だけだし、契約してもらえる可能性だって高くない。見切り発車で決めたから、日本に帰ってきても職はない。自分の将来が一瞬にして見えなくなる怖さはあったけれど、それでも、たった一度の最後のチャンスに懸けてみたい」

この決断を後押ししたのは、友人であり、家族であった。

「家族からは、『ここまで野球と向き合ってきたんだから、最後、納得して終われるように、やりたいようにやったらいいと思う』と。先輩からは、『やめとけという人もいるだろうけど、やりたいならやったほうがいい。誰もお前の人生に責任はとらない。自分で自分の人生に責任をもてるように、自分を信じてあげたらいいよ。大きなことに挑戦できることは誇らしい』と、とても心に残ることを言ってくれた」

谷田にとっては大きな決断だった。これまで、レールの上に沿って生きてきた人生だったからだ。自分の人生にとって、会社を辞め、渡米するなど想像できなかった。そんな決断に胸が高鳴っている。

「先が見えない怖さより、何が起こるのかわくわくしてる気持ちの方が大きい。この感覚、よく考えたら、小学生のときの試合前の感覚だった。久しぶりのこの気持ちになれてる自分がいて、自分の選択は間違ってないかもしれないと思えた」

谷田は、渡米資金をクラウドファンディングで集めている。