完全自腹の「奨学金」を作った。日本好きの中国人を増やし続けた、ある男性の話

日本の文化を伝える場を作り、自腹の奨学金を設立し...日中友好の種を蒔き続ける男性が目指すのは“PPK”な終わり方。

中国・大連は“日本語熱”が高い都市だと言われる。

1905年から終戦まで日本の統治下にあったこと。その当時の建物が残っていること。港湾都市で、海外の文化に対して開放的な風土があること。

理由はいくつも思い当たる。

だがその陰で、日本語熱を支え続けてきた、ある個人の存在も忘れてはならないだろう。

完全自腹の「奨学金」を創設し、学生に1円も出させずに日本へのホームステイを体験させてきた男性がいる。その思いの底にあるものは何か。活動を続けてきた田中哲治さんを訪ねた。

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「小金橋」田中哲治理事長
Fumiya Takahashi

■400人以上が詰めかけた“小金橋”

「せっかく中国に来たからには、自分には何か役割があるんだろう」

2001年4月。ほとんど中国語も話せないままに、松下電器(当時)の系列会社を現地に設立するため、田中さんは大連の地を踏んだ。

当時は日本企業の進出が相次いでいた時期。田中さんは、デジタル通信機器向けのソフトウェアを開発する会社を立ち上げ、総経理(代表)の座に就いた。

田中さんが自身の「役割」について考え始めたのは、仕事が落ち着いた2002年。給料の高い日本企業へ就職することを希望する学生が多いことに気づき、日本語教育NPO「小金橋談心会(こきんばし・だんしんかい)」を設立した。

田中さんが心がけたのは、単なる「日本語の勉強」では終わらせないことだ。「日系企業文化だとかマナー、ビジネス日本語、ビジネスマナーも知りたいという要望があがった」と田中さん。日本企業にうまく溶け込むために必要な、ちょっとした気遣いを伝授することにした。

例えば、▽タクシーに乗るときエライ人をどこに座らせるか。▽上司に食事を奢ってもらったら、翌日職場で顔合わせた際「昨日はごちそうさまでした」とお礼を言う...などだ。

こうした日本的なマナーは、ともすると日本の就活生からも敬遠されがちだ。ただ、当時はこうした風習を学べることへのニーズは高く、多い時で400人を超える学生が「小金橋」に詰め掛けた。

■自腹の奨学金、日本ホームステイ

 一時は大量に来ていた学生も、現地の日系企業が減っていくのにつれ、波を引くように少なくなっていった。それでも「顔と名前が把握できる人数じゃないと、心と心の交流ができない」とプラスに捉えた。

現在、活動に参加するのは平均して30人ほど。田中さんは、こうした学生たちを身を切っても支援しようと考えた。

そして創設したのが「小金橋学生」制度。平たく言えば、田中さんの完全ポケットマネーによる奨学金だ。

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活動を振り返る田中さん
Fumiya Takahashi

学生に日本語作文を書いてもらい、皆の前で発表をしてもらう。その内容を田中さんが審査し、日本への留学や就職を特に強く希望していると認められた複数の学生に、現金を支給する。家庭の経済事情は考慮しない。

金額は、1学期につき1000元(約1万6000円)

中国の大学は2学期制だから1年で2000元(約3万2000円)だ。一度支給が開始されると、卒業まで毎学期奨学金を受け取れる。返済の必要はない。

極めつけは、学生に「生の日本」体験をプレゼントすることだ。

田中さんは、奨学金を受け取れる「小金橋学生」の中から毎年2人程度を日本へ招待している。横浜にある田中さんの家に計8日間ホームステイしてもらい、観光地や日本の大学などを見てまわる。

「学生たちは日本で一銭も使いませんよ、自分のお金は。

生活費や交通費...夏だったらアイス食べたいとか。そういうお小遣いも、あげるからなんでも好きに使いなさいと。そしたら学生がカップラーメンを買って食べていたこともありました。『日本のカップラーメンを食べてみたかった』と言っていましたけど」と田中さんは笑う。

ホームステイはこれまで10年間に渡って続けられ、のべ20人ほどが参加した。

「参加した学生の6割以上が、そのあと日本へ留学や就職を決めてくれたんです」と成果に目を細める。

■“本人は倹約家なんです”

そんな田中さんの教え子が東京にいる。兪潔麗(ゆ・けつれい)さんは大連理工大学出身。大学3年生時には小金橋学生にも選ばれ、2019年から東京暮らしを始めている。

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小金橋からの表彰状を見せる兪潔麗(ゆ・けつれい)さん
Fumiya Takahashi

「小金橋」に入った理由は単純明快。先輩に誘われた時に「奨学金制度」の存在を知ったからだ。

「最初は講座の内容もあまり知らなかったし、田中先生も知りませんでした。出発点は奨学金なんです」と兪さん。しかし状況はすぐに変わる。

「徐々に田中先生の人柄に惹かれていきました。先生は学生のためにたくさんお金を使っていますが、自分のことになると本当に倹約家なんですよ。タクシーには乗らず、移動は公共交通機関で節約しています」と素顔を明かす。

 日本人の同僚や顧客と働く日々。今では、「報連相など、報告の大切さを学んだのが役に立ちました」と、田中さんから習った日本企業のマナーが役立っているという。

兪さんが今も忘れないのは、大学院生の時にホームステイのメンバーに選ばれ、初めて来日したことだ。印象的なのは街の清潔さ。道を走る車のタイヤがどれもピカピカだったことを今も覚えているという。

中国から持ってきたお菓子を食べたが、包装紙をどこに捨てていいか分からず「そのまま中国に持って帰っちゃいました。日本は捨てるところが少ないですね」とはにかんだ。

■「田中先生の話をします」

兪さんにとって、田中さんは初めて触れる「生の日本人」だったという。出身の浙江省紹興市は、中国では南方に位置する。同じ南方の南京では、日本人を快く思わない人に出会ったこともあるというが、兪さんは必ず「田中先生」の話をすることにしている。

「田中先生は私の日本人へのイメージを大きく変えてくれた人です。

周囲で日本人のことを悪くいう人には、田中先生を素敵な例として話すんです。私も当然中国への愛国心はありますよ。でも、国がどうというレベルではなく、もっと高い、人対人のレベルなんです。

田中先生がこんなに私たちに親切にしてくれたんだと紹介することで、(日本を悪くいう)人たちの考え方も少し変わったんじゃないでしょうか」

■PPKな人生を

田中さんの教え子たちは今、兪さんのように日本や中国で自身の日本体験を周りに広めている。学校の教科書やメディアを通じてではない日本を知ってほしい、というのが田中さんの考えだ。

身銭を切ってまで、中国人に日本を知ってもらうため活動を続ける田中さん。その原動力はどこにあるのか聞いた。

「日中関係は色々問題多いですけど、長い歴史を見れば、日本の文化の先生は中国文化じゃないですか。日本から漢字を無くせますか?

日本は、世界から取り入れた文化を自分なりにアレンジしています。けれども、中国の文化を取り除いたら日本の文化はないですよね。

政治的な問題や戦争とか色々ありましたけど、中国とは縁が切れない。しかも中国は近隣であって、日本の位置をアメリカ側にずらすわけにはいかない。だったら中国と仲良くするしかないだろうと。

加えると、中国は遅かれ早かれ、アメリカを抜いて(経済力)世界一になります。その中国とどう日本は向き合うんですか、ということです。彼らに日本のことを理解してもらえば自分の親や親戚に話しますよね。日本に行ったらこんなにいいことがあったとか、お店に行ったらとても親切だったとか...だから日中両方の学生に、実際に現地行って見てみろと日頃から言っています」

田中さんは2019年の11月に70歳を迎える。2030年までは、健康管理に気を配りつつ、今の活動を続けていくのが当面の目標だ。クリアした時は80歳。独特なゴールを頭に描いている。

「2030年まではやる。でも過ぎたらパカっと(教室を)閉めるかも。年とって寝たきりとかはなりたくないんです。死ぬ直前まで元気でいて、そこでパカっと。

PPKと言っています。ピン・ピン・コロリです。死ぬ直前まで元気にしていて、パッと突然に逝く。じゃあ私はこれで、もう目的果たしました、と(笑)」

学生と一緒に参加した16キロの強歩大会では、トップでゴールした元気な69歳。2030年を過ぎてもなお、中国の若者と関わり続ける未来が浮かんでくるようだ。