55年も昔の話になる。
その人は、世界で一番過酷な仕事についた。
新規事業部長とでもいう職で、最高度のマネジメント能力とおそるべき忍耐、心理学と教育に関する知識も必要とされるポジションだ。
十数個におよぶプロジェクトが同時進行し、自分の手を汚す必要もあれば、深い人間洞察力と勇気によって難しい判断を迫られるときもある。
気が休まる暇はない。
勤務時間は1日24時間。
寝る時間?
ないかもしれない。
1週間7日。
休みの日?
ない。
さらに、夏休みやクリスマス、連休期間中は、普段よりも多忙が予想された。もちろん、世間様に合わせて、休むことなど許されない。
当時は、労働基準監督局の監視の目が届かないところは無数に存在していて、その人の仕事もそういった仕事のひとつだった。
しかも、その仕事の給与は、ゼロ。
十数年継続することが条件であったが、翌年からの昇給も、要は、なにひとつ約束されない。
それでも、その人は好き好んでその職を選んだ。
そして、その人はその後十数年にわたり、そのポジションをこなした。
僕の「母」というポジションを。
数日前、父とふたりでなんとか自立して暮らしていた母が、また倒れ、頭を切った。
傷は頭の縫合だけですんだが、ついにひとりでは立ち上がれなくなった。
トイレの近い母を、父が支えて立ち上がらせ、トイレに連れて行く。
強く抱くと骨がきしんで痛いと叫ぶ母を、父がそっと立ち上がらせる。
トイレに座らせて用を足し、帰ってくるまでに、30分もかかる。
父は、80才ぐらいから、まさに岩のように頑固になり、妹や僕の救いの手をはねのけてきた。
認知症と診断されてはいないが、正常な判断力がない。
もう、父にまかせておくわけにはいかない。
倒れるまでは自分で歩いていた母親の介護度は低く、こういった事態を想定していない父は、介護してくれる施設のあたりをまったくつけていない。
僕と妹は途方に暮れた。
助けてくれたのは、ケアマネさんで、19日からあるグループホームに急遽入れていただけることになった。
父はケアマネさんの提案をやっと受け入れた。
そのグループホームは、両親の家の近くに新設されたもので、以前、母は「どうせなら、こんなきれいなところでお世話になりたいなあ」と言っていたそうだ。
認知症が急激に進んだ母は、家にいても、「もうひとつ、本当の家がある。早く帰りたい」とか、「ヘルパーさんが、こっそり新興宗教に誘ってくれて、自分もそれに入った」とか言う。
途中で、誰と話しているのか、わからなくなることもある。
55年前、あんな過酷な仕事につかなくてもよかったのに。
まったく、バカなおふくろ。
そして、去年、僕らの長女に子供が生まれ、またその「世界で一番過酷な仕事」についている。
どうやら、バカは遺伝するらしい。
↑ 「世界一過酷な仕事」というフェイクの広告に応募してきたひとたちの面接の様子。上に書いたような条件を言われて戸惑うものの、最後にその仕事が「母」であることを知らされたときの反応に熱くなる
photo from New Old Stock
(2014年4月17日「ICHIROYAのブログ」より転載)