先日、「沖縄戦を生きのびた患者さんが死ぬ前に後悔したこと」という記事で、沖縄戦を生きのび、その経験をずっと胸のうちにしまっていた患者さんのストーリーを書いた。彼女のように、戦争の経験を語りたがらない人は多い。しかし人生の最後、思い出したくない戦争の記憶は必ずよみがえる。
2012年、オハイオ州のホスピスで音楽療法士として働いていたとき、ジョージという男性に出会った。私が自己紹介をすると、彼は驚いた顔で言った。
「君、日本人?!」
ジョージは80代後半の男性で、ホスピス病棟に入院している奥さんの面会に来ていた。私が日本人であることを告げると、彼は目を輝かせた。
「僕は日本が大好きなんだ。戦後、日本に住んでいたことがあってね。日本の歌を唄ってくれないかな?」
アイリッシュハープの伴奏で「椰子の実」を唄った。その間、ジョージは何か考えているようだった。
「戦争中、フィリピンにいたんだ。日本兵に撃たれてね」
彼の左手には傷跡があった。その当時兵器が不足していた日本兵は、竹槍のようなものを使っていたらしい。ジョージはそれで攻撃されたそうだ。
「僕はまだよかった。親友は殺されたんだ......」
ジョージがいたのは、フィリピンのレイテ島。戦時中80,000人の日本兵と、3,500人のアメリカ兵が命を落とした場所だ。ジョージの親友もその一人だった。
「アメリカ兵が集まっているところに、日本兵が手榴弾を投げようとしたんだ。それを見た親友は、そこに飛び込んで行った......。兵士たちの上にかぶさるようになってね......。みんな助かったけど、親友は死んだんだ......」
ジョージの声は震えていた。彼は私の目を見れないようだった。
こんなにつらい経験をしたのに、彼はなぜ日本を大好きだと言ったのだろうか? 思い切って聞いてみることにした。
「日本兵に撃たれて、親友も失ったのですね。日本に対して怒りはないのですか?」
「ない」
ジョージははっきりと言った。
彼は怪我をしたあと病院に運ばれ、容態が回復したころには戦争は終わっていた。そして、広島に送られたのだ。
「原爆を落としたすぐ後だった。そこで信じられないような光景を目にしたんだ。溶けた電球なんかもあったさ......。溶けた人だっていた......。そんなこと信じられる?!」
戦後しばらくのあいだ、ジョージは日本に駐在した。
「僕は日本を愛している」
彼は涙ぐんだ。
「日本人も僕らと同じだってことに気づいたんだ。戦争中は命令されたことをやった。日本兵だって同じさ。ただそれだけのことなんだ......」
ジョージは両国が戦争で受けた悲劇を、目の辺りにした。戦後、彼が戦争の話をすることはなかったが、最近になって息子に話すようになったという。
数週間後、ジョージの奥さんがホスピスで亡くなり、お葬式で日本の歌を唄ってくれないかと彼に頼まれた。
私は「椰子の実」を唄うことにした。
お葬式の後、ジョージにさよならを言い、戦時中の記憶を語ってくれたことに感謝した。すると彼は私の手を強く握り、涙をこらえて言った。
「戦争があったことを、忘れないでくれ」
死んだ者を忘れることは、彼らを2度殺すことになる。
~エリ・ヴィーゼル(ユダヤ人作家・ノーベル平和賞受賞者)
(「佐藤由美子の音楽療法日記」より転載)
著書『ラスト・ソング 人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)
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