先日、ボスニア・ヘルツェゴビナに「子ども戦争博物館」を設立する若き活動家、ヤスミンコ・ハリロビッチさんのインタビュー記事を読みました。
ハリロビッチさんは8歳の時に、大好きだった11歳の女の子が殺されるという辛い経験をしており、子ども達は、戦争を始める決定には直接関与しないにも関わらず、とても辛い思いをしたので、その思いを伝えたかったと、「戦場で育った子どもたち」プロジェクトを始めた動機を語っていました。
ボスニア紛争は、独立に賛成するクロアチア人・ムスリム人勢力と、反対するセルビア人勢力との争いでした。ボスニアの首都サラエボは盆地にあり、反対勢力のセルビア人たちが周りを囲む丘の上に陣地を構え、盆地の底を目がけて攻撃していました。ボスニア政府軍は、市民が逃げてしまうと街が占領されてしまうため、一般市民がサラエボから出ることができないようにしました。市民は、いわば、人質のようなものだったと言います。(『ぼくたちは戦場で育った』―子どもたちが語るボスニア紛争より)
そのため、サラエボから出たり、入ったりするのは、兵士だけでした。
ところが、戦時下のサラエボへ、木を植えるために歩いて行った人物がいました。
最初の徒歩の旅 カナダ~南米 第一回地球環境サミット会場へ
イギリス・マンチェスター生まれのポール・コールマンが、誰もがうらやむような仕事を捨て、バックパック一つで歩き始めたのは、1990年7月25日でした。
7月26日のフェイスブックの投稿では、当時をこのように振り返っています。(筆者訳)
「26年前の今日、僕は、オンタリオのキングストン郊外の茂みの下で目が覚めた。前夜は湿度が高かったので、寝袋がナメクジだらけになっていた。破壊されつつあったアマゾン熱帯雨林と、2年後に行われることになっていた地球環境サミットに注目を集めるために、カナダから南米を目指して歩き始めたのだが、それまで、イギリス王室の友人でもある人のお抱え運転手として働き、素晴らしい家に住み、世界でも指折りの高級ホテルに泊まるような生活をしていたので、新しい人生は、かなりシビアなショックだった」
ヴィンテージのロールスロイスに乗っていた運転手時代(1986年撮影)
運転手時代は、かなり裕福な生活を送っていましたが、仕事を辞め、2度のアマゾン探検の後、私財は底を突いており、歩き始めて一か月後には、所持金がゼロになりました。最初の1年間、アメリカを歩いている間は、何日も飲まず、食わずの日が続いたこともありましたが、メキシコの国境を越えてから、多くの人々が彼を助けてくれるようになりました。
そして、ある町で、町長が「一緒に植えてくれませんか?」と木をくれ、人々と一緒に木を植えたことがきっかけで、次の町では、10人、それが、100人、1000人と増え、メキシコを出る頃には、1万人の人と1万本の木を植えることになりました。
人々のサポートがあまりにも多かったので、メキシコの大統領が警察のエスコートをつけてくれるようになり、行く先々で政治家がサポートしてくれ(支援の理由は、それぞれ利権と絡んだところがあったようで、自分を利用しようとする政治家たちに使われるのは、嫌だったし、なるべく、一般の人々の声を聞くようにしたとポールは言っていますが)、チアパス州の知事は、彼の活動と人々の声を聞き入れて、アマゾン熱帯雨林の保護に1億2500万ドルを投入すると発表しました。
このとき、ポールが感じたのが、一般の名もなき人々が団結した時のパワー、「パワー・オブ・ザ・ピープル」(人々の力)でした。
それが、後に、何年も歩き続けることになった原動力となり、1994年に紛争中のサラエボへ歩いて木を植えに行くためのパワーともなりました。
メキシコでは行く先々で大歓迎を受けた
2度目の徒歩の旅 カリフォルニア~ワシントンDC、 パリ~サラエボ
きっかけは、カリフォルニアで、平和団体と環境団体をつなげる連合ネットワークを作り、国連50周年とアースデイ25周年を同時に祝うイベントを準備している時に、ボスニアのジャーナリストから、「私の母国が戦争で破壊されている。助けてもらえないだろうか?」と言われたことでした。
「ネットワークを作っていると言っても、国際的な影響力はない。自分たちに何ができるだろう?」と悩んだ末、ポールは、単独でサラエボまで歩き、翌年のアースデイに木を植えることを決意しました。長期にわたる包囲戦により、サラエボの人々は、愛する森林の大部分を失っていました。森は、サラエボの人々の命でした。彼らの想いに共感し、彼らを支援するために、歩いて行こうと決心したのです。
1994年のアースデイ(4月22日)にカリフォルニアから出発。アメリカ大陸を横断して、ワシントンまで歩き、その後、パリへ飛んで、パリからサラエボまで歩いて行きました。
クロアチアにて。レンガに戦死者と失踪した人の名が刻んであった
持って行ったのは、戦地で国連平和維持軍の基地に避難できる、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)のカードだけで、組織には、全く属していませんでした。
「前線に立つのは自分なのに、それをはるか遠くのオフィスから、ああしろ、こうしろと言われたくなかった。また、大きな組織に属すると、組織として見られるが、個人なら、一人の人間として扱われる。そこには、思想も利害関係もない。それが、自分の強みになると思った」と、ポールは言います。
銃をこめかみに突き付けられ、ジャーナルに命を救われた
最終的に、サラエボへ到着するまで、6回拘束され、尋問され、銃をこめかみに突きつけられたこともありました。しかし、そのたびに、持っていた大きなジャーナル(日記)を見せ(その中には、出会った各国の人々からの平和を祈るメッセージ、新聞記事、日々の日記が綴ってありました)、その日記を上官が開くと、釈放されたのでした。
「みんな、ページを開くと、手でページをなぞって、何かを感じ取っているようだった。そこに込められた多くの人の想い。美しく書かれた文章などが、怒り狂って、僕を殺すとまで言っていた上官の心にも届いたようだった」
戦場までの旅路を共にしたジャーナル
美しいジャーナルが命を救った
こうして、6度拘束された後、一般の民家(パン屋)に監禁されていましたが、サラエボから尋問にくるはずだった上官が、あまりの戦線の激しさに来ることができなくなり、釈放されました。
当時の日記には、このように書いています。(下記の写真参照)
「サラエボで木を植える前、ターチンで拘束され、パン屋のセホ(中央)と友達のアルマンの世話になった。アルマンは写真では驚くほど元気そうに見えるが、ひどく負傷し、療養中だった。弾丸が尻に当たって身体を突き抜けたのだ。」
「この日の夕方、戦争の様子を撮影したホームビデオと、アルマンが撃たれて担ぎ出された様子を撮影したビデオを見た。翌日、さらに尋問を受けるために警察に出向いた。そして、釈放された後、セホと、サラエボに植える木を探しに行き、小さな木を見つけた。その後、僕は戦争で荒廃したボスニアの首都サラエボへ向かったのだった」(筆者訳)
パン屋のセホ(中央)と友人のアルマン(左)その下に日記が綴られている
兵士の後に続き、狙撃手と地雷を避けながらサラエボへ
サラエボへの最終ルートは、狙撃手(スナイパー)たちに包囲されている丘を下って行かなければなりませんでした。地雷も、あちこちに埋まっていました。しかし、運よく、サラエボへ行く若い兵士たちに会ったので、彼らの後をついて行くことにしました。
「中腰で、ワーッと、一気に丘を駆け下りて行った。途中にある店に入って、ビールを急いで飲み、サンドイッチを食べて、また、一気に駆け下りて行く。ルートに、ビールを売っている店が何軒もあって、驚いた。みんな、普通に生活していたんだ。丘を駆け下りて、やっとたどり着いたのは、爆撃された農家だった。そこが、サラエボの人たちが手で掘ったトンネルの入り口。サラエボへの唯一のルートだった」
トンネルは、飛行場の滑走路の真下に掘られていました。長さ約800メートル、高さ約1.5メートルのトンネルで、食料や燃料を運ぶサラエボへの唯一の生命線だったため、石油を通すパイプも通っていました。
「想像してごらんよ、トンネルが爆撃されたら、みな全滅だ」
そのトンネルを、みなが、頭を低くして、進んで行きました。人々は、ジャガイモなどの食料やその他の物資を運んでいました。
やっと、トンネルから出ると、多くの人が物資を待ち受けていました。トンネルの外で、あれやこれやと売り買いされている中、国連のベースはどこかと聞くと、見ず知らずの人が、命の危険も顧みず、車に乗せて国連のベースまで連れて行ってくれました。銃声が聞こえると、みな大通りを走って逃げるような状態で、命の危険が常にありました。
国連のベースに着くと、入り口でUNHCRのカードを見せ、中へ通されました。国連が植樹など手配してくれる予定でしたが、「戦争が激しくなりそれどころではない」と言われ、「どこに泊まりたいか?」と聞かれました。ジャーナリストたちがホリディ・インに泊まっていたのを知っていたので、咄嗟に「ホリディ・イン」と答えました。国連軍は、武装車でホリディ・インへ連れて行ってくれましたが、彼らの保護はそこまででした。
まるで、戦争が起こっていないかのように、人々は普通に生活していた
爆撃されて、あちこち、穴だらけだったホリディ・インにチェックインし、まず、レセプションで受付の女性に、歩いて安全な場所はどこかと尋ねました。すると、制服をきちんと着て、お化粧をした女性が地図を取り出し、「ええと、ここと、ここは、大丈夫。ここは、危険。あと、この場所は・・・」と、地図に印をつけ始めました。
その時、ドカーンと爆撃音が鳴り響き、ホテルの建物が大きく揺れました。すると、女性はペンを動かす手を止めて、顔を上げ、「マイ、ゴッド!」と言い、爆音が止まると、何事もなかったかのように、「ええと、それから、ここと、ここは危ないわ」と、印をつけ続けました。
その地図を頼りに、次は、銀行へ向かいました。銀行では、まるで平常時のように職員が働いていました。
「両替をしたいのですが」と、ポールはドル札を手渡しました。すると、職員たちは、みな、クスクスと笑い出しました。
「なぜ、笑っているのですか?」尋ねると、一人が答えました。
「だって、お金なんか、ないんです」
「ええ?じゃあ、なぜ、銀行が開いているんですか?」
すると、答えが返ってきました。
「万が一、お金が入ってきたときのためにですよ」
そして、みんな大声で笑ったのでした。
「戦争中だということが信じられないくらい、みんなが普通に生活していた」と、ポールは回想します。
「両替ができないので、仕方なくホテルに戻ると、BBCのジャーナリストが滞在しているので、両替してもらえるかもしれないと聞いた。当時、ジャーナリストはみな退去していて、残っていたのは、BBCぐらいだった。そこで、ドアをノックすると、ケイト・ヘイディが現れた。そして、彼女は真っ先に、こう言ったんだ。『あら、こんにちは。お茶でも、いかが?』まったく、シュールな経験だった」
たった一人で植えた木。しかし、それがもたらしたものは
翌日、1995年の4月22日に、ポールは、サラエボの大統領官邸の庭に一人で木を植えました。
「メディアも誰も見ていない、たった一人での植樹に、何のためにここまで来たのかと思って涙が出た。でも、メディアの注目を集めるために歩いてきたわけではない。ここに、こうして歩いてきて、木を植えたということが大事なのだと思い直した」と、ポールは、言います。
しかし、彼のことを見ていた人たちがいました。
翌日、サラエボ市長から、和平合意の項目などを話し合う総会に出席して欲しいと招待されたのです。地下に作られた会議場に出かけて行くと、そこには、500人の代表者が集まっていました。総会でスピーチをすると、市長は、「戦争が終わったら、まず、木を植えます。これが、そのリストです」と、「戦争が終わったら植えたい木のリスト」をポールに手渡したのでした。
その後、アメリカに戻り、このリストを、アメリカン・フォレスト社に渡しました。それから、半年後に、停戦が実現し、和平合意が調印され、アメリカン・フォレスト社は、サラエボの森林再生プロジェクトをスタートしました。
8歳の少年との交流
サラエボには10日程、滞在していました。その間、借りていたアパートの部屋の隣りに、8歳の男の子が住んでいました。その男の子は、戦争が始まってからほとんど部屋から出たことがなく、戦車や戦闘の様子を絵を描いて、毎日、持って来ました。
そこで、毎日、木や森などの絵を描いて、彼に渡しました。すると、翌日、男の子は、戦車の絵を描いて持って来ました。そんなやりとりが何日か続いた後、ポールがサラエボを去る日、男の子が絵を持って来ました。その絵には、木の絵が描いてありました。
男の子が毎日、描いていた戦車の絵(左下)
その後、ポールは、サラエボで殺された子供たちのために木を植えながら、イギリスを歩きました。旅の終わりにロンドンに到着した日がちょうど、サラエボの独立記念日でした。独立記念日のパーティーに招待され、大使館に出向きました。その時、サラエボ大使は、こう言いました。
「ポールさん、あの時、私たちは、サラエボにいなければならなかった。でも、あなたは、サラエボにいる必要はなかったのですよ」
その時、ポールは、サラエボの人たちが、ポールが歩いてサラエボに行ったこと、そこに平和の木を植えたことをどんなにありがたいと思っているかが、初めてわかったと言います。
二度と使わないと誓った言葉
戦地へ木を植えに行った後、ポールの心に大きな変化がありました。
「僕は、サラエボへ行ってから、『嫌い(ヘイト)』という言葉を使うのをやめた。代わりに『好きではない』というようにした。なぜなら、僕らが何気なく普段使っている『嫌い』という言葉が集まったその先にあるのが、戦争なのだと分かったからだ。『嫌い』という言葉を使うのをやめると、自分の内側からも『嫌い』という感情が消えていくことに気づいた」
「僕は、21年間、なぜ、この言葉を使わないかを説明する時以外、『嫌い』という言葉を使っていない。このような感情を僕らの語彙から取り除けば、僕らのハートからも取り除くことができるのだ」
※ポール・コールマン氏提供の写真、日記、講演内容などを元に構成しました。