論理的思考を鍛える5つの反論のパターン/「きのこVSたけのこ」論争に終止符を!

あらゆる「本当っぽいこと」を一度は疑ってみよう。「デマこいてんじゃねえ」と言ってみよう。そういう訓練を積まなければ、常識にとらわれない柔軟な視点は育たない。相手の反論を受け止める余裕も生まれない。
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田舎のタクシーに乗ったら運転手さんから政治の話を振られて面食らった――。そんな経験は無いだろうか。

今では想像できないけれど、一昔前まで政治はカジュアルな話題だった。それこそ天気や野球と同じように、初対面同士に最適だとされていた。新書や新聞、ドキュメンタリー番組が現在よりも好まれており、政治へのリテラシーが高かった。さらにマスメディアが情報を統一していたため、政治的立場が対立することはまず無かったのだ。情報ソースが多様化した現在、政治の話はあまりにもコントラヴァーシャルで軽々しく口にできない。初対面の相手とだなんて、もってのほかだ。

しかし、である。

社会問題や経済、政治に無関心な"ふり"をするのが処世術になってしまうのは危険だ。それらが地震や台風のように「関心を払っても防ぎようがない」ものとして扱われるからだ。当たり前だけど、あらゆる社会問題は人間が巻き起こすモノ。である以上、私たち一人ひとりの意識・関心が変われば世の中は変わる。誰もが無関心を貫いたら、この世はどんどん無秩序な方向へと進んでしまう。

では、そういうナイーブな話題をするときには、どんな点に気を使えばいいだろう。残念ながら私たち日本人は「議論が苦手」だと言われている。反論のつもりで口にした言葉が、単なる愚弄・罵倒になってしまうことも少なくない。理知的で知性的なほんものの反論をするには、どんなことに注意すればいいだろう。

じつは反論のパターンはそんなに多くない。代表的な5つのパターンに当てはまらない反論は、十中八九ただの罵詈雑言。相手にする必要はないし、口にすべきでもない。そして何より、意見を述べる前に「自己反論」してみることが大切だ。たとえ意見が一致しないとしても、最低限「くるであろう反論」は予測すべきだし、適確な反論ならば真摯に受け止めるべきだ。

反論のパターンは以下の5つ。

 1.No reasoning (論拠がない)

 2.Not true (うそだ)

 3.Irrelevant (無関係だ)

 4.Not important (重要ではない)

 5.Depend on *** (○○による)

競技ディベートで遊んだことのある人なら、目にしたことがあるはずだ。

では現実社会の論争を用いて、これらの実用例を紹介しよう。日夜、終わりない論戦が続き、いまだに解決の糸口が見えない巨大論争――。

そう、「きのこの山」派と「たけのこの里」派との抗争だ。

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1.No reasoning (論拠がない)

たとえばあなたが「たけのこ派」だとする。きのこ派に対して、こんなコトを言って満足していないだろうか:

「きのこの山はダメなお菓子だ!」

きのこ派の人間からすれば、この主張は取るに足らない罵倒でしかない。なぜなら、「どうしてきのこの山がダメなのか」という理由が説明されていないからだ。

あらゆる主張には、理由づけが必要だ。「のび太はダメなやつである、なぜならのび太だからだ」というトートロジーはジャイアンにしか許されない。のび太がダメなのは、彼がのび太だからではない。成績や要領が悪いうえに、しずかちゃんのお風呂を覗いたりカネや名声を欲しがったり――業深いからこそ、のび太はダメなのだ。

なにか意見を言うときは、必ず理由づけを行わなければいけない。そして理由づけのない意見には耳を傾ける価値はない。

マツダ先生(仮名)の思い出、あるいは議論の仕方を習ったことのない人はやっかいだということ

※理由をつけるだけなら、小学生にもできます。

「きのこの山はダメなお菓子だ!」とだけ言って満足している人には、こう反論してやろう:

「で、理由は?」

2.Not true (うそだ)

理由が示されていたとして、それが正しいとは限らない。この世はうそと勘違いに満ちている。立派な理由づけがあったとしても、理由そのものが間違っていたら、その主張は成り立たない。

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜなら森永製菓のお菓子だからだ!」

この主張は二つの意味で間違っている。

ひとつは「森永製菓のお菓子=ダメ」という論理展開が意味不明だ。チョコボール、ダース、小枝、さらにマリービスケットやエンゼルパイ。森永製菓の製品はどれも、長く愛される優れたものばかりだ。「森永製菓のお菓子」ならば即「ダメなお菓子」という主張はうそである。

そしてもう一つの間違いは:きのこの山はそもそも森永製菓のお菓子ではない。たけのこの里と同じ明治製菓の製品だ。上記の主張は徹頭徹尾うそである。

世間的に「反論」というと、この「うそをあばく」ことに主眼が置かれる。新聞やテレビ、ブログの記事――。ある程度まとまりのある文章には、必ず「主張」と「理由」の両方が含まれている。そして「理由」には真実味のあるものだけが選ばれる。それを大嘘だとあばくことができれば、その主張は成り立たなくなる。「うそだ!」は5つの反論のなかでいちばん強力だ。反論界のセンターポジション、AKBでいう前田敦子、ウルトラ・ヒーローでいうセブンだ(※そこは初代ウルトラマンだろ、というツッコミは受け付けない)。

ただし「うそである」ことを証明する責任が生じるため、簡単には使いこなせない。強力ゆえに使うのが難しいのだ。

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならチョコレートがあまり使われていないからだ!」

なんだか真実味のある理由づけだ。きのこの山のチョコレートは「かさ」の部分に使われているが、たしかにあまり大きなチョコ塊ではない。ひょっとして「きのこの山」は、カカオマスがあまり使われていないという、チョコレート菓子としては致命的な欠点を持っているのだろうか。

これに「うそだ!」と反論するためには、「チョコレートが充分に使われている」ことを証明しなければならない。

そこで、箱の裏側を見て欲しい。

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食品の原材料名は「使われている量が多いもの」から記載されるという暗黙のルールがある。たけのこの里が「砂糖>小麦粉>全粉乳>カカオマス>(以下略)」と書かれているのに対して、きのこの山は「砂糖>小麦粉>カカオマス>全粉乳>(以下略)」となっている。一個あたりのカカオマスの重要度は、きのこの山のほうが上だ。したがって「チョコレートがあまり使われていない」という理由づけはうそだ。カカオマスへの依存度が高いぶん、きのこの山は正統なチョコレート菓子だと言える。

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜなら森永製菓のお菓子だからだ!」

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならチョコレートがあまり使われていないからだ!」

こんな主張をする人には、こう反論してやろう:

「嘘だッ!」

3.Irrelevant (無関係だ)

嘘だと言われるのは怖い。だから「間違った理由づけ」をする人は滅多にいない。できるだけ真実味のある理由・正しいと確認されている理由が選ばれる。が、たとえ「正しい」としても、それが主張と無関係では意味がない。例えば:

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならベニテングタケには毒があるからだ!」

たしかにベニテングタケには毒がある。これは事実だ。が、「きのこの山がダメなお菓子か否か」にはまったく関係がない。

こういう「無関係な理由づけ」は意外と多い。「うそだ」ほど強力な反論ではないものの、使用頻度はこちらの方が上だ。たとえば「○○発電は安全だ、なぜなら自動車事故のほうが危険だからだ」という主張をしばしば見かける。しかし、どうして自動車事故と比較しなければならないのだろう。ハッキリ言って意味プーだ。「バンジージャンプは安全だ、なぜならスカイダイビングのほうが危険だからだ」と主張するようなものだ。どっちもヒモが切れたら死ぬじゃん。相対的に安全だからといって、絶対的な安全性までは証明できない。「○○発電は安全」という命題を証明したいのならば「危険ではない理由」をひたすら並べるべきであって、ほかの「危険っぽいモノ」との比較には意味がない。

似たような「無関係な理由づけ」には、属人的なものがある。たとえば「『けいおん!』はダメな作品だ、なぜならキモオタが観ているからだ」とか、「ゴルフはダメなスポーツだ、なぜなら団塊世代のオヤジが好んでプレイするからだ」とか――。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは言うものの、どんななまくら坊主だろうと着ている袈裟の価値には関係がない。どんな人が観ていようと『けいおん!』の価値は作品それ自体にもとづいて評価されるべきだし、ゴルフの面白さは、プレイヤーが団塊世代だろうと女子高生だろうと変わらない。属人的な理由で「いい・悪い」と主張するは無関係な理由づけの代表例だ。※そして『けいおん!』を観ているのがキモオタだけだなんて、ただの偏見だ。

「無関係な理由づけ」は本当に多い。

政治家や法律家、企業の役員――いい歳こいた大人でも、平気で「無関係な理由づけ」というミスを犯す。「うそをつかないこと」に気を払うことができる人でも、「関係あるかどうか」にはなぜか気が回らないらしい。誰かの主張を読んだ/聴いたときは、まず真っ先に「関係ある理由づけがなされているか」を検証したほうがいい。

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならベニテングタケには毒があるからだ!」

こんな主張をする人には、こう反論してやろう:

「カンケーねーし!」

4.Not important (重要ではない)

正しく・しかも関係のありそうな理由づけがなされていたとしよう。しかし、その理由の重要度が著しく低い場合、主張の信頼度も低くなる。たとえば:

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならパッケージに描かれたキャラが一人しかいないからだ」

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たしかに、たけのこの里のパッケージにはキャラクターが二人描かれているのに対して、きのこの山には一人しか描かれていない。また、たけのこの里では「2層のチョコがおいしいYO!!」とヒップホップ風のハイカラなキャッチコピーが書かれているのに対して、きのこの山は「2層のチョコがおいしいぜ!!」と純和風な「ダゼ語」が使われている。きのこの山のほうがキャラが少なくてキャッチコピーがダサい(?)のは事実だ。

しかし、だから何だというのだ。

お菓子の善し悪しは「味」で決めるべきであって、パッケージという表面的なものは重要度に乏しい。したがってパッケージの書かれたキャラの人数が少ないとしても、それが致命的な欠点にはならない。

似たような例はよくある。たとえば「生活保護は無くすべきだ、なぜなら不正受給者がいるからだ」という主張。たしかに不正受給は由々しき問題だし、きちんと取り締まるべきだろう。しかし、そもそも不正受給者は極めて少ない。生活保護を受けている人のうち、ごく一部でしかない。したがって「生活保護を無くすべき」という極端な主張に対して、あまりにも重要度が低いのだ。「無くすべき」という主張がしたいのなら、もっと重要度が高くてのっぴきならない理由を探すべきだ。

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならパッケージに描かれたキャラが一人しかいないからだ」

こんな主張をする人には、こう反論してやろう:

「それが何か?」

5.Depend on *** (○○による)

たしかに「きのこの山」はパッケージに描かれたキャラが一人しかいないし、キャッチコピーは純和風の「ダゼ語」だ。しかし人によってはこちらのコピーのほうがカッコいいと感じるかもしれないし、「たけのこの里」の怪しいメガネのキャラよりも、「きのこの山」のたくましいキャラのほうが魅力的に感じるかもしれない。パッケージの善し悪しは人による

こういう「○○によって」結果が変わるものを「理由」として使うべきではない。

たとえば「スキルを伸ばしてノマドになりましょう、そうすれば幸せになれます」という主張。スキルを伸ばしてノマドとして活躍することに「幸せ」を感じられるかどうかは、その人次第だ。世界を股にかけて活躍するよりも、こたつでみかんを食べながら、だらだらとネコと遊んでいたほうが「幸せ」という人もいる。人生の目的が人によって違う以上、「スキルを伸ばしてノマドになる」ことが「幸せ」とは限らない。

ここまで読めばお気付きだと思うが、議論の「目的」は非常に大事だ。

なにかを「よい」と主張するとき、それは何の・何に対する・どのような「よさ」なのだろう。妥当な理由づけを行う以前に、主張の目的をはっきりとさせておく必要がある。それを忘れると、あらゆる「理由」は「時と場合による」という一言で反論されてしまう。「スキルを伸ばしてノマドになる」ことが幸せだと主張するには、まず「住む場所を選ばず活躍できる」「きちんと収入を得られる」といった基本的な部分での「幸せの条件」にコンセンサスが必要だ。何を「幸せ」とするか――議論の目的にするかによって、議論の組み立て方そのものが変わる。

「きのこの山はダメなお菓子だ、なぜならカロリーがたけのこの里よりも高く、ダイエットに適していないからだ」

こんな主張には首をかしげざるをえない。よいお菓子の条件を「ダイエットに適したお菓子」とするかどうかによって、この主張の正しさは変わる。よいお菓子の条件を「冬山で遭難したときの非常食に適したお菓子」とするなら、カロリーの高さはむしろ好都合だ。議論の目的をまず最初に定義しなければ、議論そのものが成り立たなくなるのだ。

「きのこの山はたけのこの里よりも優れている」なんて主張をする人には、こう反論してやろう:

「そんなの時と場合によります」

ていうか、ぶっちゃけどうでもいいとコアラ派の私は思う。

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世の中の「反論」には、代表的な5つのパターンがある。

 1.No reasoning (論拠がない)

 2.Not true (うそだ)

 3.Irrelevant (無関係だ)

 4.Not important (重要ではない)

 5.Depend on *** (○○による)

「増税が必要だ」「変化の早い時代だ」「グローバル化が進んでいる」――。現在の私たちはこういう主張を、自明のものとして受け入れがちだ。けれど、少しだけ立ち止まって考えてほしい。これらは本当に正しいのだろうか。「常識を疑え」という言葉をよく耳にするが、「疑う方法」を解説してくれる人は滅多にいない。常識を疑うとは、つまり反論を試みるということだ。

たとえば「増税が必要だ」という主張を目にしたとする。理由はきちんと示されているだろうか。まずはNo reasoningでないかどうかを疑ってみよう。財政赤字が酷いから・社会保障費が膨らんでいるから・同盟国から軍備増強を求められているから――。様々な理由があるだろう。そうした理由の一つひとつは「増税でなければ解決できない」ものだろうか? Irrelevantかどうかを疑ってみるのだ。たとえば巨額の赤字国債ならば、貨幣価値そのものを操作することで解決できる。増税以外の解決策があるなら、増税と財政難との関係は薄くなる。ただし。「貨幣供給を増やせば増税は必要ない」:耳障りのいい説だけれど、すぐに信じてはいけない。Not trueと反論する余地がないか、一度は考えておきたい。......。

このように、あらゆる主張に対して「自己反論」するくせをつけよう。そうすれば的外れな意見を漏らして失笑を買う危険性は低くなるし、社会問題や経済、政治について話をするときにも役に立つ。最低限「くるであろう反論」を予測しておけば議論が噛み合う。妥当な反論を受けてハッとさせられた時に、冷静に受け止めることができる。「自己反論が足りなかった」と反省することができれば、相手に論破されても感情的にならずに済む。

かつて日本人は、今よりも新聞をよく読み、新書を買いあさり、ドキュメンタリー番組を好んでいたという。社会問題に対するリテラシーが高かったという。本当だろうか? その当時を私は知らないし、簡単には納得できない。

また現在ではインターネットの登場により情報源が複線化され、以前のような情報統一ができなくなったという。本当だろうか? ツイッターやフェイスブックを確認するまでもなく、私たちはネット社会のなかでクラスター化している。おきまりのトップページを開き、いつものブログを巡回し、見慣れたTLに安住している。そんな環境から摂取する情報は、むしろ現在のほうが単一・均一なものに偏っているのではないか。

あらゆる「本当っぽいこと」を一度は疑ってみよう。「デマこいてんじゃねえ」と言ってみよう。そういう訓練を積まなければ、常識にとらわれない柔軟な視点は育たない。相手の反論を受け止める余裕も生まれない。

完璧な知識を持つ人はいない。なんでも知っている人はいない。だからこそ人は必ず間違える。その間違いを誰かに指摘してもらえなければ――反論されなければ、人は成長できないのだ。

だからもっと反論をしよう。

現実世界の問題は「きのこVSたけのこ」論争よりもはるかに複雑で面白いのだから。

(※この記事は2012年02月12日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました。)