「共助」社会の原点-「与える人」・「与えられる人」:研究員の眼

アメリカの絵本作家シェル・シルヴァスタインの『おおきな木』という絵本がある。原題は"The Giving Tree"で、「少年」と「りんごの木」にまつわる話だ。
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IMAGE DISTRIBUTED FOR SHERWIN-WILLIAMS - Thousands of Sherwin-Williams employees joined forces with painting contractors and local volunteers to refresh hundreds of community organizations across the U.S. and Canada during National Painting Week, on Tuesday, May 12, 2015 in Los Angeles. (Photo by Colin Young-Wolff/Invision for Sherwin-Williams/AP Images)
Invision for Sherwin-Williams

アメリカの絵本作家シェル・シルヴァスタイン作の『おおきな木』という絵本がある。原題は"The Giving Tree"で、「少年」と「りんごの木」にまつわる話だ。

1964年のアメリカでの出版以来、30以上の言語に翻訳され、2010年には村上春樹さんによる日本語訳(あすなろ書房)も登場している(*1)。

少年は大きなりんごの木の下でよく遊んでいた。少年がだんだん成長し、ある日、お金が欲しいと言うと、「りんごの木」は実を売るようにと答えた。家が欲しいと言うと枝を切って使うように、舟が欲しいと言うと幹で舟をつくるように言った。「りんごの木」は、とうとう切り株になってしまった。やがて歳をとった少年は、安らぐ場所を求めて「りんごの木」のもとに戻ってきた。「りんごの木」は、老人になった少年に、切り株に座って休むように言った。「りんごの木」は、それで幸せだった。

この絵本は、「りんごの木」の無償の愛を表現しているのだろうか。「りんごの木」は少年にすべてを与え続けて本当に幸せだったのだろうか。

多くの読者には様々な感想があるだろう。村上春樹さんの「あとがき」には、『あなたはこの木に似ているかもしれません。あなたはこの少年に似ているかもしれません。それともひょっとして、両方に似ているかもしれません。あなたは木であり、また少年であるかもしれません』と記されている。

以前「私つくる人、僕たべる人」というテレビコマーシャルがあった。料理を「つくる人」と「たべる人」に固定的に役割を決めてしまうのは残念なことだ。なぜなら、料理には「つくる人」と「たべる人」双方に大きな楽しみがあるからだ。

おいしい料理をつくってもらうのはとてもうれしいことだが、同時に料理をつくってあげる人がいることも、とても幸せなことだ。料理を「つくる人」は、「たべる人」がいるからこそ「つくる」意欲もわき、「つくる」楽しみも大きくなるのではないだろうか。

社会には一方的に「与えるだけ」の存在はなく、それを受け止める「与えられる人」がいる。「与える人」は同時に「与えられる人」でもあるのだ。

寄付する人は英語で"Giver"というが、寄付も「与えるだけ」のものではない。寄付が人の役に立ち、社会に活かされることで、社会の一員である寄付者も、また、「与えられる人」になる。

ボランティア活動も全く同じだ。ボランティアする人は、他者の役に立つことで、自らの生きがいやアイデンティティを発見し、自己肯定感を強める。「おおきな木」も「料理つくる人」も、「寄付する人」も「ボランティアする人」も、世の中の「与える人」は、みんな「与えられる人」であり、「与えられる人」は、みんな「与える人」なのだ。

そこに「共助」社会の原点があるのだと思う。

*1 日本語訳の初版は、本田錦一郎訳『おおきな木』(1976年、篠崎書林)。

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(2015年5月26日「研究員の眼」より転載)

株式会社ニッセイ基礎研究所

社会研究部 主任研究員