アメリカの絵本作家シェル・シルヴァスタイン作の『おおきな木』という絵本がある。原題は"The Giving Tree"で、「少年」と「りんごの木」にまつわる話だ。
1964年のアメリカでの出版以来、30以上の言語に翻訳され、2010年には村上春樹さんによる日本語訳(あすなろ書房)も登場している(*1)。
少年は大きなりんごの木の下でよく遊んでいた。少年がだんだん成長し、ある日、お金が欲しいと言うと、「りんごの木」は実を売るようにと答えた。家が欲しいと言うと枝を切って使うように、舟が欲しいと言うと幹で舟をつくるように言った。「りんごの木」は、とうとう切り株になってしまった。やがて歳をとった少年は、安らぐ場所を求めて「りんごの木」のもとに戻ってきた。「りんごの木」は、老人になった少年に、切り株に座って休むように言った。「りんごの木」は、それで幸せだった。
この絵本は、「りんごの木」の無償の愛を表現しているのだろうか。「りんごの木」は少年にすべてを与え続けて本当に幸せだったのだろうか。
多くの読者には様々な感想があるだろう。村上春樹さんの「あとがき」には、『あなたはこの木に似ているかもしれません。あなたはこの少年に似ているかもしれません。それともひょっとして、両方に似ているかもしれません。あなたは木であり、また少年であるかもしれません』と記されている。
以前「私つくる人、僕たべる人」というテレビコマーシャルがあった。料理を「つくる人」と「たべる人」に固定的に役割を決めてしまうのは残念なことだ。なぜなら、料理には「つくる人」と「たべる人」双方に大きな楽しみがあるからだ。
おいしい料理をつくってもらうのはとてもうれしいことだが、同時に料理をつくってあげる人がいることも、とても幸せなことだ。料理を「つくる人」は、「たべる人」がいるからこそ「つくる」意欲もわき、「つくる」楽しみも大きくなるのではないだろうか。
社会には一方的に「与えるだけ」の存在はなく、それを受け止める「与えられる人」がいる。「与える人」は同時に「与えられる人」でもあるのだ。
寄付する人は英語で"Giver"というが、寄付も「与えるだけ」のものではない。寄付が人の役に立ち、社会に活かされることで、社会の一員である寄付者も、また、「与えられる人」になる。
ボランティア活動も全く同じだ。ボランティアする人は、他者の役に立つことで、自らの生きがいやアイデンティティを発見し、自己肯定感を強める。「おおきな木」も「料理つくる人」も、「寄付する人」も「ボランティアする人」も、世の中の「与える人」は、みんな「与えられる人」であり、「与えられる人」は、みんな「与える人」なのだ。
そこに「共助」社会の原点があるのだと思う。
*1 日本語訳の初版は、本田錦一郎訳『おおきな木』(1976年、篠崎書林)。
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(2015年5月26日「研究員の眼」より転載)
株式会社ニッセイ基礎研究所
社会研究部 主任研究員