予測できなかった! 草津白根山の噴火/難問「原発と巨大噴火」をどう考えるか?

「危ない所に、危ないものを造らない」これをどう考えるべきだろうか。

森林文化協会の発行する月刊『グリーン・パワー』は、森林を軸に自然環境や生活文化の話題を幅広く発信しています。3月号の「環境ウォッチ」では、環境ジャーナリストの竹内敬二さんとともに、原発と巨大噴火の関係について考えてみました。

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群馬県草津町の草津白根山が1月23日に噴火した。噴石で雪山訓練中の自衛隊員1人が死亡、他に11人が負傷した。

草津白根山と呼ばれる一帯には、白根山、逢ノ峰、本白根山という三つの火山が連なっているが、今回関係者が驚いたのは、「まさか、本白根山が噴くとは」である。火山学者も地元も、最近では1983年に噴火した白根山ばかりに目を向けており、誰も、約3000年前に噴火した後は静かだった本白根山を警戒していなかった。噴火直前に前兆もなく、ゲレンデ横の山が突然裂けて黒煙が噴出し、噴石がスキー客らに降り注いだ。逃げる間もなかった。

草津白根山の噴火は、あらためて「火山噴火は予測できない」ことを印象づけた。昔から火山と共存してきた日本人の自衛手段は、火山や火口から「まあ噴火しても大丈夫だろう」と思える距離を取って暮らすことだった。それでも歴史を振り返ると、しばしば大きな被害が起きている。登山者ら63人が死亡・行方不明になった、2014年9月の御嶽山噴火の記憶も新しい。この噴火も、やはり予測できなかった。

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●広島高裁が運転を禁じる決定を出した四国電力伊方原発
Asahi

噴火の予測は難しいが、頻度がまれな巨大噴火と原発の関係を考えるのはもっと難しい。昨年12月13日、広島高裁は、四国電力の伊方原発3号機の運転差し止めをめぐる仮処分の抗告審で、広島地裁決定(2017年3月)を覆し、運転を禁じる決定を出した。内容は「阿蘇山が過去最大級の巨大噴火を起こした時、阿蘇山から約130km離れた伊方原発まで火砕流が到達する可能性が小さいとは言えないので、原発の立地には適さない」というものだ。噴火のリスクを理由に原発を止める司法判断は初めてだった。

高裁がよりどころにしたのは、原子力規制委員会が策定した火山リスクの考え方「火山影響評価ガイド」だ。「160km以内にある火山の過去最大の噴火を想定し、評価しなさい」とある。これに従って、阿蘇山で約9万年前に起きたものと同様の巨大噴火が起きれば、約130km離れた伊方原発の場所まで火砕流が到達して大被害を起こしかねないとした。

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●巨大噴火を物語る大きなカルデラを持つ阿蘇山
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「危ない所に、危ないものを造らない」

これをどう考えるべきだろうか。社会にある一つの常識は、「そんな数万年に一度のことまで考えていたら、やっていけない」だろう。「九州の地図が変わるような噴火が起きたら、周辺は破壊され、人も死ぬ。そんな時に原発だけのことを考えても仕方がない。多くの人はそんな心配をしながら毎日を過ごしているわけではない」という考え方だ。

読売新聞の社説はこれに近く、「原発に限らず、破局的噴火を前提とした防災対策は存在しない。殊更にこれを問題視した高裁の見識を疑わざるを得ない」と主張した。

一方、毎日新聞の社説は「頻度が低いからといって、対策を先送りにすれば、大きなしっぺ返しを受けることを、私たちは福島第一原発事故で学んだはずだ」という。

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どちらも正しいだろう。本当に数万年に一度なら、極めてまれだが、予測は難しい。地震の研究は比較的進んでいるものの、「1000年に一度」の東日本大震災は運悪く「人間が原発を持った時代」に発生し、津波対策をおろそかにしていた中で原発が破壊された。

私は一つ、視点を加えたい。「あまりに巨大な天災を心配しても仕方がない」という社会通念は確かにあるが、大きな被害をもたらす人工物を造るかどうか、そして、それをどこに造るかは、別の問題だということだ。

福島第一原発の事故の後、原発推進派から「あれほど大きな津波が来るとは予測できなかった。想定外だった」という責任逃れの主張があったが、とんでもないことだ。津波は自然災害だが、放射能被害は海岸線に人が建設した人工物である原発が起こした。

まれな天災は多少諦めがつくが、人工物による被害は諦めがつかない。また、こうも考えられる。阿蘇山の巨大噴火で九州一帯が破局的に破壊されたとしても、いつかは復興の時代が来る。しかし、放射能を含んだ火山灰層が日本列島を分厚く覆っていれば、復興はままならない。

海外の人はしばしば「地震と火山の国日本に、なぜ多数の原発を建てるのか?」と聞く。どうせ分からない「発生頻度」や「前兆」に頼るのではなく、「危ない所には、危ないものを造らない」という単純な視点も大切だと思う。

裁判に影響する社会の意識

原発裁判で「伊方」といえばピンと来る。1992年の伊方原発訴訟の最高裁判決が有名だ。原発の安全性について「現在の科学技術水準で専門的な審査の過程に見過ごせない誤りがない限り、それに基づく行政の判断は適法」とした。以降は多くの原発裁判がこの判例に従い、パターン化した。これが原発の裁判でほぼ国側の勝訴が続く理由だ。

しかし、福島事故の後は少し変わってきた。2015年4月の高浜原発3、4号機の差し止め仮処分では、福井地裁の裁判長が、個人の尊重や幸福、文化的な生活を送る権利を求める「人格権」に基づいて判断し、注目された。

決定の中にある次のようなフレーズが有名になった。「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、(原発事故で)これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考える」

原発を止め続けていると、「火力発電所用の燃料代がかさみ国富が流出している」という主張への批判だ。「情緒的だ」との声もあったが、最高裁判例の枠にとどまるのではなく、自分で考えた熱意を感じる。

こうした変化を止めようとする動きもある。最近では、原発推進派の中から、「裁判リスク(裁判官リスク)」という言葉を聞くようになった。巨大地震や巨大噴火の頻度はまれだが、原発が止まるということにおいては「裁判リスク」の確率の方が高いぞ、ということだ。

住民勝訴の決定や判決の分析、さらには裁判官の評価などに関心が持たれている。「裁判官自身が差し止めの結論を初めから持って、その論理を寄せ集めて書いている」「今後の裁判で重大なリスクは、裁判官の状況」といった議論だ。気になる動きだ。

原発裁判が、これからも伊方の判例の枠組みにとどまるのか。それとも、人格権や巨大噴火などに視点を広げた判断が増えるのか。それは、社会の意識がどう動くかにも影響される。