【筆者:医療ガバナンス研究所研究員・樋口朝霞】
「マイノリティは生きるために競争し、それが社会に活気を与えている」
私が、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ市で1カ月を過ごした感想です。ケンブリッジはハーバード大学やマサチューセッツ工科大学があるアカデミックな街です。橋を挟んで隣がボストン。この地域には、世界中から「エリート」が集まってきます。
「アメリカは自由で開かれた社会に見えるかもしれないけれど、外からやってきて生活するには厳しいところなの。強くなくては生き残れない」
私を受け入れてくれた大西睦子医師(フォーサイト常連筆者。バックナンバーやプロフィールはこちら)は言います。
大西医師は内科医です。10年前に研究者としてハーバード大学に留学し、ケンブリッジに定住しました。現在に至るまで、多くの困難を乗り越えてきました。研究室の上司が突然大学を去ってしまい、自分の研究を続けられなくなってしまう事態に直面したことも。やむなく研究テーマを変え、別の研究室に移籍することで、何とかこの地で研究を続けてきたそうです。
ケンブリッジでは、多くの研究者が生き残りをかけ、競争しています。業績をあげなければ、研究費が集まりません。研究費がなくなれば研究室は閉鎖され、研究者は自分で新たな研究の場(職場)を求めて移動します。もちろん、海外から来ている研究者の場合、ビザが切れれば自国に帰らなくてはいけません。
大西医師は、ハーバード大学で結果を残し、この地に残ることができました。現在は大学を離れ、健康分野について世界の最新の研究結果をまとめ、執筆家として活躍されています。
移民たちの活気で成り立つ社会
大西医師は米国人と結婚し、移民として米国で暮らしています。米国が移民を受け入れてきたことに感謝し、そして、そのことを誇りに思っています。
しかしいま、状況は変わりつつあります。トランプ政権が移民に対する排外的な政策を推し進めようとしているからです。その理由として、テロの増加や社会保障関連の財政負担、さらに麻薬の密売や犯罪の増加などを挙げていますが、少なくともケンブリッジでもボストンでも、多くの住民は納得していません。移民は米国社会に溶け込んでいますし、米国社会に貢献している移民も沢山います。私が街中で出会った清掃員や建設業者の中には、多くの移民がいるそうです。
もちろん、高学歴の移民も大勢います。コロンビア人の弁護士で、米国人と結婚してボストンで弁護士として働く準備をしている人や、レストランで働きながら勉強しているベネズエラ人のエンジニアもいました。かつての大西医師も、このような若者たちの1人だったわけです。
清掃員や建設現場で働く移民たちと同様に、彼らが米国で生き残るのも大変です。大学で学ぶにも外国人枠の制限があり、米国政府の学費ローンは外国人だと利用できません。その他、職業選択など様々な制約がある中で、それぞれが工夫し、夢を実現しようと努力していました。
私は、このような移民の存在、そして競争こそが米国社会に活気をもたらしていると感じます。たとえば、先にあげたマサチューセッツ工科大学では、全職員の内42%が移民です。 また、米国勢調査局(United States Census Bureau:USCB)の2016年統計によると、マサチューセッツ州はマイノリティも含むすべての人種で、収入の「中央値」が平均5.3%増えています。
不法移民でも保護する制度
米国は、1776年の建国以後も多くの移民を受け入れてきました。年間に100万人が合法移民として米国に入ってきます。不法移民は1000万人以上います。合法、違法にかかわらず、米国は移民を受け入れ、発展してきました。
今回私は1カ月とはいえ初めて米国で生活し、米国社会が移民受け入れに関してさまざまな配慮をしていることを実感しました。その中には日本では報道されないことも多々あります。ここでは、学校のシステムについてご紹介します。
今回の米国滞在中、ケンブリッジで唯一の公立高校「THE CAMBRIDGE RINDGE AND LATIN SCHOOL」を見学させてもらいました。2000人の生徒が学んでおり、授業料は無料です。
この学校の生徒は、人種も家庭の経済状況も様々で、65種類の言語が飛び交い、おそらく不法移民の子供もいます。ケンブリッジは不法移民でも保護する条例があり、連邦政府からそのための補助金も支出されている「サンクチュアリ・シティ」(聖域都市)です。
市の公務員及び警察官が入国者の身分を尋ねることを禁止しています。従って、学校の教員は生徒に不法移民か否かは聞きません。多様性に富み、非常に挑戦的な環境です。
学校のクラスは学力で分けられています。地元のハーバード大学などのトップ校に進学する人もいれば、卒業後就職する人もいます。目を見張るのが、職業訓練のための実践的な選択科目が充実していることです。
車の整備や家の内装工事、レストランのサービスを教わる授業もあります。看護学教育も行われており、看護師や医師など医療従事者を目指している人、看護師のアシスタントとして卒業後病院に就職する人も受講していました。移民の子弟に技能を身につけさせ、社会に同化させようとしていることがわかります。
学校内に「出産女子生徒」のケア施設
工夫はこれだけではありません。英語が流暢に話せない移民の生徒が英語を学ぶクラス、親の世代が大学に進学していない生徒の大学進学サポートシステムなどなど。とりわけ印象的だったのは、構内に無料のデイケア施設があることです。
米疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention:CDC)によると、米国で2014年に15~19歳の女子が出産した新生児の数は、約29万9000人にのぼります。この学校は、出産した高校生にも教育の機会を提供しようとしており、このような体制整備は、教育に関する性差別を禁止した連邦法「タイトルⅨ(教育改正法第9編)」で規定されています。
日本では数は少ないかもしれませんが、高校生で妊娠すると退学になる場合もあるようです。若いお母さんを誰も守ってはくれません。職業訓練も公立の高校では行っていません。お金を払って専門学校に行くか、大学後に社会で働き学ぶのが一般的です。
ところがアメリカではこのように、不法移民であっても基礎教育の機会を与え、競争社会のスタートラインに立つのに必要な最低限度の教育を行っているのです。
アメリカにはハーバード大学やマサチューセッツ工科大学のような有名な研究機関に、世界中の優れた人材が集まります。そのような国外から来る優秀な人材がこの国の競争を高めているのはよく知られています。
しかし、今回知ったことは、国力をあげて移民にも基礎教育に力を入れているということです。「境遇は様々でも、教育を受ける機会を与えられれば努力次第で人生を変えられる」――そのような雰囲気が感じられました。
日本の課題
人口減少が進む日本では、近い将来、移民を受け入れなければ国が立ちいかなくなる可能性があります。その意味で、アメリカで行われている教育のあり方はとても参考になると思います。
基礎教育を重視し、人材のボトムアップをはかると同時に、高等教育を受けた人は競争に晒される。こうやって米国社会は新陳代謝を繰り返しています。日本にとって見習うべき先行事例かもしれません。
【著者プロフィール:宮城県松島町生まれ。北海道大学卒業後、虎の門病院血液内科で看護師として勤務。2017年4月より東京医科歯科大学5年制博士課程に在籍兼現職】
医療ガバナンス学会 広く一般市民を対象として、医療と社会の間に生じる諸問題をガバナンスという視点から解決し、市民の医療生活の向上に寄与するとともに、啓発活動を行っていくことを目的として設立された「特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所」が主催する研究会が「医療ガバナンス学会」である。元東京大学医科学研究所特任教授の上昌広氏が理事長を務め、医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」も発行する。「MRICの部屋」では、このメルマガで配信された記事も転載する。
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