評論家、宇野常寛さんの最新刊『遅いインターネット』は、インターネット社会を分析した本だ。
すさんだ言論空間になってしまったネットの課題に触れつつ、そうした環境から自由になるための方法を探っている。
宇野さんは、こうした本の執筆などの評論活動と平行して、『PLANETS CLUB』という読者コミュニティを運営している。
そこで進めているのが、本のタイトルにもなった「遅いインターネット」計画。ネット時代の「書く」ノウハウを共有するという。
具体的には何をしているのか。インタビューの後編で、本人に聞いてみた。
「書きたい」人が増えている
――「遅いインターネット計画」ではウェブマガジン「遅いインターネット」(読む)と、ワークショップ「PLANETS School」(書く)を両輪としていると聞きました。こちらのワークショップに参加できる読者コミュニティ「PLANETS CLUB」では、どのような活動をしているのですか。
昨年(2019年)から、『PLANETS CLUB』で、僕がこれまで培ってきた「発信する」「書く」ノウハウを共有するワークショップを始めています。この反響がすごく大きくて、ちょっと驚いています。
この講座に来る人たちは「マスコミ志望者」や「物書きになりたい人」は、ほとんどいません。
自分の仕事や、プライベートの活動などで発信したいことがあって、その参考にするために参加しているひとがほとんどですね。
これは単純な話で、これからの時代、個人の責任で言葉をネットワーク上に発信することが、すべての人にとって、必須のスキルになっているということだと思います。
メディアや広報などの仕事に就いている人だけではなく、「企画職」や「営業職」の方でも同じです。
僕のPLANETS CLUBには、僧侶もいれば、プロバスケットの選手もいます。エンジニアもいれば、パン屋さんもいます。それぞれの動機で、ものを書くスキルを身につけにきているんですね。
文章を使って起業を考えるバスケ選手
――プロの書き手になりたい人以外が、そういう動機を持っているんですね。
例えば、先ほど伝えたバスケの選手はセカンドキャリアのことを考えているんですね。
バスケで培ったノウハウを、競技スポーツのためだけではなく、普通の人たちが、ライフスタイルに生かせるような「トレーニング」に転換するようなビジネスで起業してみたいそうです。
加えて、アスリートのマネジメントにも関心があるようです。
そうした領域で起業をするときに、自分の考えをしっかりと言語化して、コンセプトを発信していく必要がありますよね。そんな動機でPLANETS CLUBに来ています。
――なぜ、そうしたニーズが増えているのですか。
小中学校の頃に作文の授業がありましたよね。
あれ、文章を書くことが「だるい課題」としか認識されていなかったと思うんですよ。
ああいう作文の授業で褒められるのって、文章表現能力が高い生徒ではなく、部活で努力と友情の大切さを学びました、的な特定のイデオロギーに従順な内容をそれっぽく書く、つまり「空気を読む」能力の高い作文なんですよね。あれって本当に意味がない。
その結果、ほとんどの人は「書く」技術が身につかないまま社会に出る。そしてSNSに触れて、欲望の赴くままに「書く」「発信する」快楽を貪るようになって、社会を息苦しく、つまならくしてしまう。
要するにほとんどの人間には、発信に値する物を持ってなければ、発信するスキルも無いという「残酷な現実」がいま露呈しているわけです。
ただ、こうした現実を実感している人が多いからこそ、不足しているものを埋め合わせる為の訓練を受けたいという欲望が高まっているのではないでしょうか。
「僕が15年間やってきたノウハウを共有する」
――宇野さん自身は何を教えていくのでしょうか。文章術ですか。
文章に限らず、全部ですね。僕が普段どういう情報収集をするのか。どんな基準で本を読んでいるのか。
企画をどう進めるのか。文章を書くときに、ストーリー構成をどうするのか。さらに編集者としての技術も伝えます。
(評論家になる前)僕は、もともと地方でのんびり会社員をしていた人間で、そこからインディペンデントで情報を発信してきた結果、いまこういう活動をするにいたっているわけです。
だから僕が15年間やってきたノウハウを共有することにすごく意味があると思うんです。
別に業界の人でもなんでもない人間が「発信する」ものとしての情報とどう付き合って来たか、を開示する講座になっていると思います。変な話だけど、だからこそすごく反響が大きい。
これは(前編のインタビューで触れた)自己幻想の話と結びついていて、人々が「ネットワーク」に言葉を吐き出して、自己確認する、自己幻想を確認するっていうのは、当たり前の事になっていくというか、もう無意識に誰もがしていることだと思うんですよね。そして僕らの社会もそれを前提に既に動いている。
たとえば「この人どんな人なの?」って考えたとき、まずはSNSのアカウントをみんな調べるじゃないですか。
SNSのアカウントは20世紀における「運転免許」以上に、その人の社会的な信頼を担保するものなっていくんだと思うんですよね。
そのことをみんな直感的に分かっているわけなのだけど、残念ながらこの2020年時点では、あまり良い影響を社会に与えてはいないと僕は思っています。
でも、この状況はもう戻らないので、少しでもポジティブな面を引き出せるようなアプローチっていうものは必要なんじゃないかと思ってるんですよね。
タイムラインに流れる情報のスピードにとらわれない
――そのアプローチというのは、インターネットでの発信を「無くす」のではなく、まず遅くするということですね。
僕らは、いつの間にかGoogle、Facebook、Twitterといったインターネットのプラットフォームが決定した速度に思考を支配されていると思うんです。
多くの人たちが、気がついたら「ここはそういう場なんだ」という思い込みに支配されて、Twitterではつい、目立ちすぎた人への集中砲火に参加してしまうし、Facebookでは意識の高い自慢をしてしまう。
こういったプラットフォームの支配から自由になるために、僕はまず「速度」に注目したい。タイムラインに流れてくる情報に脊髄反射的に拙速な対応をするのではなく、しっかり自分のペースで思考し、発信することを主張していきたいと思っています。そのための「遅いインターネット」ですね。
テレビ番組で「わざと聞いていないふりをする」
――テクノロジーと距離感をとりながら、自分の「速度」を大切にするということですね。
自分のペースでものを考えることは、当然大事なんですよ。
例えば、僕は以前、テレビの討論番組によく出ていたんですが、今だから言いますけど、そのときによくやっていたのが「わざと聞いていないふりをする」ことですよね。
議論があまりよくない方向に向かっているな、と思ったとき。たとえばシングルマザーがネグレクトで子供を死なせてしまった、といった事件が起こったとき、卑しい番組だとその親の人格批判ばかり話題にしようとする。
でもそれって、視聴者の卑しい興味関心に応えるばかりで、再発防止に一切寄与しない。こういうときは、話題の流れをぶった切ることが必要で、わざと聞いてないふりをする。
話を振られたとき、「あ、僕ですか?」と一瞬ボケることで、ボールを手元に止める。で、自分のペースで投げ返せる。「これってそもそも、シングル親への公的な支援の問題だと思うんですよ」といった感じで話題を変えられる。
ここで場の「空気」を読んでいたらどうしても流されてしまう。
これはテレビ出演のときのテクニックでインターネットでの個人の発信の話ではないですが、通じるものがあると思います。要は場の空気やタイムラインの潮目から、どう自由になるか。そのための「速度」のコントロールが重要だという話です。
「砂漠とレモネード」という本を書いてみたい
――宇野さんは、今後はどのような本を書いていきますか。
『遅いインターネット』は現代の情報環境と政治、情報環境と経済というテーマではじまって、最後は「じゃあ、僕はこの新しい世界にどうコミットするのか」というマニフェストで終わる本なので、次はこの流れで主体について論じたいと思っています。
情報環境ではなく、人間の側から書いてみたいです。仮タイトルは『砂漠とレモネード』で、最初はなぜか『アラビアのロレンス』について取り上げる予定です。
もちろん、ロレンス論ではなくて、都市と身体を切り口に展開する予定です。これだけ言ってもワケがわからないと思いますけれど、『遅いインターネット』は箕輪厚介(編集者)と組んだこともあって、ものすごく社会に対して開かれた本にしたんです。
たぶん、初速から考えるとこれまでの僕の本で一番売れる本になるだろうし、代表作になるのだと思います。だからこそ、次は逆に思いっきり閉じた本にしたいなと考えています。
あとは、単行本化待ちの連載がひとつと、あとずっとオファーを塩漬けにしていた中高生向けの本に取り掛かりたいと思っています。出版の順序はまだ見えないですけれど……。
最近「水曜日は働かない」を提唱している
他にはエッセイみたいなものをしっかり書きたいなと思っています。ホーム社のウェブマガジンで『水曜日は働かない』という連載をはじめました。
僕は最近「水曜日は働かない」ということを提唱していて……。仮に水曜日が休みになると、1年365日がすべて休日に隣接することになるじゃないですか。そうすることで、なんというか人生がものすごく楽しくなる気がするんですよね。
エッセイを書いているのは、あたらしい文体を獲得しようという考えもあるんです。さっき、プラットフォームに無意識に書くものを決定されているという話をしましたよね?
今って、「プラットフォーム」と「語り口」が連動し過ぎていると思うんですよね。
やっぱり文章表現ってもっと自由なはずなんです。エッセイって結構何でも許されるような所あるじゃないですか。
僕の日常記録や遊びに行った思い出や趣味の話とか、エッセイのようでいて、問題意識が紛れ込んでいる文章を書こうと思っています。『水曜日は働かない』のほかにも、個人のnoteで試験的にいくつか書いています。
「変化を恐れる人たち」にどこまで気をつかえば良いのか
――『遅いインターネット』では、イギリスのジャーナリストであるディヴィッド グッドハードの言葉を引用し、グローバルな社会に適応し、どの都市でも生きられるAnywhereな人々と、ローカルな国民国家でしか生きられないSomewhereな人々に触れています。自己幻想をマネジメントでき、地球上のどこでも活躍できるAnywhereな人にとって「のみ」、幸せな社会にしかならないと思えてしまいます。
残念ながら、現時点はそうなってしまっています。だからなんとかしないといけない。しかしこの変化は不可避なので、Somewhereな人々をしっかりケアしながら、Anywhereな人々を少しずつ増やしていくしかないのだと思います。
古いシステムの中で幸せに生きてきたSomewhereな人たちがいて、その多くは戦後の先進国の中産階級で、この豊かさは概ね旧途上国からの搾取で成り立っていたわけですが、この国ではその人達が「冒険を恐れる気持ち」を理解し、忖度しないと世の中が動かないと言われ続けた結果、結局30年間、足踏みして、すごく窮屈でつまらない国になっていしまったと思うんですよね。
僕は、インターネットで強がるために自己責任論を振りかざすような人たちって本当に安易だなと思うのだけれど、Somewhereな人たちと言われている旧先進国の中産階級が20世紀に有していた特権を維持するために「壁を作れ」というトランプ的な態度は、集票としては有利なのかもしれないけれど問題を解決するとは思えない。
むしろAnywhereな生き方を人々が不可避に選択するほかにないことを前提に、それに適応できる人を少しでも拡大するという発想で、粘り強く仕掛けていくことしかないと思っています。
宇野さんはどうして走るのか
――分かりました。最後に、宇野さんが「走ること」について、聞いてみたいと思います。いつから、なぜ走り出したのでしょうか。
東日本大震災の後に、ちょっと医者に注意されてダイエットをしていた時期があるんですよ。最初に走ったのはそのころですね。
ただ、当時は走ることはあまり好きではなくて、苦行だと思っていました。
そしてそのことを、どっかでききつけて来たらしい『走るひと』というランニング雑誌が取材に来たんです。
僕みたいなオタクのおじさんが走っているのが珍しかったんでしょうね。そのとき上田唯人編集長と話したとき、とても盛り上がってこれは本格的に走ってみようかなと思って、改めてランニングをはじめてみたらすっかりハマってしまって……いまは、一応の目安として月に10キロを10回、つまり100キロ走っています。
東京は「鉄道」に依存している
僕は2006年ごろ、京都から東京に引っ越してきたんです。走り始めた頃は東京に来て約10年たっていたわけですが、土地勘はまったくなかったです。
東京って鉄道依存の街で、主に鉄道で移動することになる。そうすると「点から点」に移動する感覚になって、地理感覚があまり把握できない。
たとえばこの高田馬場から雑司ヶ谷って歩いてすぐなのだけど、鉄道のアクセスの関係で実際にはもっと距離の離れている中野や渋谷のほうが近いと感じている住民はすごく多いと思う。
でも走ると、この感覚がよくわかるんです。散歩でもいいんだけど、散歩は個々の街の文脈をじっくり、潜るように味わう感覚ですね。
対してランニングは5キロとか10キロを30分とか1時間で移動するので、街と街のつながり、地理と街の形成を体感できる。
僕は走ることによって、やっと東京というものが分かってきたし、やっと「自分の街」だって思えるようになったところがあるんです。
さっき『遅いインターネット』でプラットフォームから距離を置いて、自分のペースを確保するという話をしましたよね。
それは、走ることにも当てはまるんですよ。電車網というネットワークから距離をとって、自分のペースで街にアクセスする。地理そのものと素手で触れているというか、まあ素手と言うか素足ですけど。だから僕にとっては、走ることと書くことがすごく近いんです。
問題解決より、「自分の好感度」に関心がある人たち
――「ネットワークから距離を取る」ことがポイントですね。
単純に、閉じた相互評価のネットワーク内部にいると、他人の顔色をうかがってしか発言しなくなりますよね。
問題そのものではなく、問題についてのコミュニケーションのほうに気を取られる。
たとえば「あいちトリエンナーレ」の問題でも、表現の自由や地域アートのあり方といった本当の問題よりも、これを機会に「津田大介(芸術監督)がリベラルのヒーローになるのは許せない」とか、「これを機会にこのエリアのボスが知事なのか市長なのかハッキリさせたい」みたいな、極めてどうでもいい問題にばかり関心を向けて騒いでいた言論人や政治家がたくさんいましたよね。
「問題そのもの」ではなく、「問題についてのコミュニケーション」のほうに関心が高いメディアやユーザーのほうが多くなることも珍しくない。
実際にワイドショーに出ているタレントやコメンテーターは問題を解決するための議論ではなく、発言によって自分の好感度を上げることしか考えていないですからね。僕はこういう人たちがいま、一番世の中をダメにしていると思う。
「飲み会でウケるための言葉」を書かない
僕は飲み会で、その場にいない人の悪口とかを気の利いた修辞で述べて、バッと注目を集められる人間よりも、飲み会では喋れないけれど、しっかりと、その言葉を受け取った人の世界の見え方を変えることを世界のどこかに書き残すことが出来る人間の方が、圧倒的に価値があると思っています。
でもみんな「飲み会でウケるための言葉」を書くのに夢中になりすぎている。
あと、僕自身も色々新しいウェブマガジンを立ち上げるなかで、企画に関して試行錯誤していて、気づいたのですが、今のインターネットの記事って「人」が出すぎている。
SNSは自己幻想の記述が中心のメディアなので、基本的にいまは「おもしろい人」を探すことが「おもしろいこと」や「おもしろいモノ」を探すよりも簡単になっている。
だから僕も無意識のうちに、色んなジャンルで業績を上げた人やチャレンジしている人を取り上げるような記事をたくさんつくってきた。
もちろんそれは悪いことではないのだけど、これからはだからこそもっとモノとか場所とかコトとかが主役になるような記事を作っていかないと、それこそ僕自身がSNSに流されてしまうんじゃないかなと思っていて反省しています。
そうしたことも、今考えている最中です。
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