ウルトラ木魚で人形供養

仏具としての様式を備えたウルトラ木魚。いったいどんな経緯で誕生したのでしょうか?
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■「世界ふしぎ発見!」でも紹介されたウルトラ木魚とは?

この木製のウルトラマンをご覧になったことがあるでしょうか。

お馴染みの金色に輝く目とアルカイックスマイル、しかし、いわゆるフィギュア作品とはどことなく違って見えます。TBSテレビの人気番組「世界ふしぎ発見!」でも紹介されたこのウルトラマン、実はお寺で使われる木魚なんです。名づけてウルトラ木魚。突拍子もない組み合わせだと思われますが、ただのトンデモ作品ではありません。

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ウルトラ木魚 (c)円谷プロ

向源では去る4月29日、徳川家の菩提寺である増上寺において、このウルトラ木魚を用いて人形供養を行いました。三河仏壇の職人・都筑数明さんによって制作され、仏具としての様式を備えたウルトラ木魚。いったいどんな経緯で誕生したのでしょうか?

ウルトラ木魚誕生のきっかけとなったのは、実際にテレビで放送されたウルトラマン第35話「怪獣墓場」でのこんなエピソードです。

―ある日、宇宙をパトロールしていた科学特捜隊は、かつてウルトラマンとの戦いに敗れ地球を追放された怪獣たちがさまよう「怪獣墓場」を見つけます。宇宙の果てをただようその姿に、隊員は思わず「憎らしいやつらだったけど(中略)ちょっとかわいそうな気もするな」とつぶやき、当のハヤタ隊員は「地球の平和のため、やむなくお前たちと戦ったのだ。俺を許してくれ」と空を見上げます。

そして、怪獣の霊を弔うため怪獣を供養することを決めるのです。

隊員は心から怪獣たちの冥福を祈り、苦しかった怪獣たちとの戦いを思い浮かべるのでした―

ウルトラ木魚は、円谷プロ創立50周年企画の一環として制作されました。お寺で使われる木魚の形がウルトラマンに似ていると以前から感じていた都筑さんが、この「怪獣墓場」のストーリーに着想を得て手がけたものです。仏壇職人として供養の場面に立ちあってきた経験から、円谷プロの企画が持ち上がったとき、まっさきに先述の怪獣墓場のエピソードを思い出し、自身も幼いころにウルトラマンに親しんだことを思い出しながらウルトラ木魚の制作を決めたそうです。

■そもそも「供養」という言葉には、仏さまを敬意をもってもてなすという意味があります。

現代の私たちにとっては、身近な供養の場面といえば家族やお世話になった方などのお葬式や法事ですが、これは供養の対象となるものが次第に広がったことによるものと思われます。家族や友人との最期の別れの儀式に臨む。そのとき心の中にはどのような思いが去来するのでしょうか。在りし日の様々な出来事や心の動きを思い出し、それらがもう二度と帰っては来ないことを悲しむ。その思い出を忘れることなく、これからも自分はしっかり生きていくよと、別れゆく相手に心の中で語りかける。そこに見えるのは、感謝の思いです。

巡り会えたことへの感謝、共に時間を過ごしてくれたことへの感謝、素晴らしい思い出をくれたことへの感謝、その思い出がこれからの自分を支えてくれることへの感謝......。

ともすれば、悲しみに浸る間もなく、ただ忙しさに追われるようにも見える「葬儀」という供養の場面は、死者との決別の儀式を経て、深い感謝に思いを寄せ、同時に残された私たちが未来を確かに歩んでいくために、悲しみに区切りをつけるという側面も持っているのです。

けれど、私たちの心に涌いてくる感情は、これだけではありません。

■「ウルトラ木魚で人形供養」

さて、増上寺で営まれた人形供養では、参加者がそれぞれに思い入れのある人形を持ち寄り、その人形との別れの儀式として法要が営まれました。ぬいぐるみだったり、着せ替え人形だったりフィギュアだったりと様々ですが、特定の人形に深い愛着を持って時間を共有した経験は誰にもあるでしょう。親友、お守り、話し相手、身代わりなど、その人にとってその人形は単なる物体ではなく、意思の疎通を図り合える、ある意味で人格を持った存在だったわけです。

古くから日本人は、人間やペット、家畜などの生き物だけでなく、物に対しても供養をしたいという感覚を持っています。その思いは、人形供養や針供養、筆供養などといった風習にも見て取ることができます。生き物以外にも強い思い入れを持ち、使い終わったからといって無情に捨ててしまうのは忍びないとする精神が、私たち日本人の中にはあるのです。

めいめいが思い出深い人形を持参し、僧侶の読経とウルトラ木魚の音で、あたかも人形の葬儀とも言えるような儀式を行う......人形、つまり親しい者、愛すべき者との別れを受け入れるためのステップとして行われたのが、向源の「ウルトラ木魚で人形供養」でした。

人形供養には「死」という明確な別れはありません。すぐに儀式を行う必要もありません。人形と自分という、極めて個人的かつ精神的なつながりの中で、関係が変化したことを自然に感じ取り、別れの時期を自ら決めるのです。このような場合には必要に迫られることがない自ら別れの決意を固める分、より「供養したい」という思いが強く感じられるかもしれません。

また、荼毘に付し、葬儀を行う必要がないにもかかわらず、あえて供養したいと考えるとき、そこには前述した感謝以外のもう一つの思いがあります。それは、畏れです。

日本人には、世のすべてのものに「神性」や「仏性」がある(平たく言えば「タマシイがやどる」)という考え方が浸透しています。たとえ命のないものであっても、こちらの都合で別れを決め手放すという、ある意味では不義理をはたらく相手を畏れ、自分の行いでそのタマシイが荒ぶることがないようにと祈る気持ちが、ものに対して供養をするという形になったのではないでしょうか。これは供養のもう一つの側面と言えるでしょう。

きっかけが感謝であれ畏れであれ、生き物以外のものをも擬人化してとらえる日本人独特の感性が根底にあるからこその供養という行為です。むしろ、感謝や畏れといった明快な言葉のみで解き明かすのは難しいものだと言えるでしょう。古くから、山や川、草木や石の一つでさえ、私たち日本人にとってはタマシイがやどるもので、祈りの対象となるものでした。この世の全てのものに「神性」「仏性」を見出す文化は、世界的に見ても稀であると言えます。

あまつさえ、ウルトラマンのエピソードのように、たまたま敵同士として出会ったために戦ったけれど、その相手を敬い、相対した日々を思い出しながら供養をするというのは、極めて日本人的な発想だと思わずにはいられません。ウルトラ木魚で人形供養、一見奇抜に見えるイベントの裏には、日本ならではの"感謝と敬意"が息づいています。