上野の山、いざ生きめやも...都の「上野『文化の杜』構想」に期待

今私が語らなければ、誰も知らないまま、上野が変わっていってしまう...。漠然とした焦燥感にかられ、かなり丁寧に執筆させて頂いた、戦後の上野の記憶をごらんください

首都圏の地方議員や行政職員が愛読する東京都の自治体情報を扱う地方紙「都政新報」から「私の東京ストーリー~若かったあの頃」というコラムへの原稿依頼がきまして今月始めに寄稿いたしました。

お話を頂いた時、あいかわらずドタバタしておりましたが、「上野」をテーマに書こう!と瞬時に快諾いたしました。今私が語らなければ、誰も知らないまま、上野が変わっていってしまう...。漠然とした焦燥感にかられ、かなり丁寧に執筆させて頂きました。

ブイブイ言わせていた80年代を書いたらどうか?!というご期待もいただいておりましたし(笑)、ブログのお姐節をお楽しみいいたいている方もいらっしゃいましたが、上田令子の知られざる文学的一面?!に触れたと、他の議員や、東京都の職員におほめの言葉を多々頂戴いたしました。大変光栄でございました。

ここに「力作」をご紹介させていただきます。

「上野の山、いざ生きめやも」

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(台東区立黒門小学校入学後の初めての夏休み動物園帰りの不忍池で兄と従妹と)

日本アニメの巨匠、宮崎駿監督による『風立ちぬ』は、今も心に残る印象深い映画である。戦後70年を目前に、零戦設計者の堀越二郎の半生をモチーフにした宮崎監督の引退作品ということ、上映された2013年夏は都議会議員に初当選したという思い出もあるが、一番印象が強かったのは冒頭、主人公らが関東大震災に遭遇するのが上野駅周辺だったからだ。都電が大きく揺れるシーンは、まさに私の生まれ育った上野広小路で、祖父母が営んだ料亭が描かれているのではないか......と目を凝らした。

私の父方の実家が営んでいた魚すき料理「丸万本家」は、大阪南西櫓町(現道頓堀)で1864(元治元)年、禁門の変の年に開業した。商売熱心な大阪商人らしく、東京奠都(てんと)に商機を見いだし、1909年に曽祖父母が上京して上野・池之端に出店。東京帝国大学や東京芸術大学から近い地の利に加え、ハイカラな関西料理が江戸っ子に人気を博したという。森鴎外の小説にも登場し、伊藤博文、岡倉天心、横山大観ら時の政財界・文化人が来店して繁盛していた。

ところが関東大震災(1923年)で、店は焼失してしまう。祖父母は不屈の精神で復興を果たし、私の父親は27年に生まれた。商売が再び軌道に乗り始めた矢先、今度は第2次世界大戦が勃発。44年には決戦非常措置要綱による料理店閉鎖命令を受ける。

当時、早稲田大学の1年生だった父は学徒動員で岐阜県各務原の川崎航空機工場に赴き、三式戦闘機「飛燕(ひえん)」の製造に関わっていたという。「飛燕」の設計者は堀越二郎と帝大同期の土井武夫で、『風立ちぬ』にも登場する。

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(消失を免れた、早大角帽姿の若かりし日の実父)

45年の春先、大学教授が父に一時帰京を勧めてくれた。父の兄はビルマに学徒出陣中で親心をおもんぱかってのことだが、「お前の家は料理屋だからまだ酒があるんじゃないか。学生も楽しみがない。コッソリ持って来い」と粋な理由で送り出してくれたという。

父は自らの誕生日─3月9日に合わせ、喜び勇んで帰宅したが、まさにその晩、日付が10日に変わるころから東京には雨霰(あめあられ)のように焼夷(しょうい)弾が降ってきた。美しい江戸の情緒を残す街を焼き払い、10万人の尊い生命が失われた東京大空襲の日だ。関東大震災に引き続き、またしても店は焼失してしまったのである。

程なくして戦後を迎えたが、かつての和洋折衷建築の堂々たる料理店の復興はかなわず、我が一族は焼け残った池之端仲町の隠居所を旅館に、細々と生き延びていくことになった。そして1965年に私は生まれた。

父の兄弟、祖母、料亭時代からの住み込みの板長さんらと大家族で暮らした「ちびまるこちゃん」的な昭和の日々は、私の原風景だ。雪の中、芸者さんを乗せた人力車が池之端を走る姿は墨絵のようであったこと、隅田川を行き来する水上バスが身近で風情ある便利な交通手段であったこと、上野・浅草のにぎわい.........。戦前の東京の豊かさ、江戸から継承してきた文化、何げない人々の営みを守ることの大切さを、私はこの時に学んだのだと思う。

ハスの花の美しい初夏、夕暮れ辺りから父と不忍池を散歩したことも忘れ得ぬ思い出だ。帰り掛けの「おちか」のお好み焼き、「蓮玉庵」のそば、うまくしたら「伊豆榮」のうなぎにありつけるかもしれなかったからだ。それから、競馬の重賞レースがある時は、浅草の場外馬券場行きにお供。と私は「お父さんが大穴当てたら、『今半』のすき焼きかもね!?」とささやき合いながら、一日中「花やしき」で遊んだものだ。残念ながら、すき焼きにはめったにありつけなかったが......。

上野の子供にとって、上野恩賜公園は「庭」のような場所だ。動物園も博物館も入館料がかからないから気軽に出掛けた。当時の国立科学博物館の地下は、動物のホルマリン漬けや剥製(はくせい)のガラスケースが無造作に並び、コワイもの見たさに探検気分で行くには最適なスポットだった。正面入り口の2段目で柏手を打つと響くという都市伝説は、今も上野の子供たちに伝承しているだろうか。

東京都はこれから「東京文化ビジョン」の「上野『文化の杜』構想」で、文化庁と連動して国立西洋美術館への世界遺産登録や建設局の管轄である上野恩賜公園を世界に比類の無い文化拠点と位置付ける施策を展開していく。上野が故郷の私は、公私にわたり格別の思いで見守っている。戊辰戦争、関東大震災、東京大空襲と、歴史に翻弄(ほんろう)される無辜(むこ)なる人々の生命と暮らしを上野の山は静かに見つめてきた。終戦の翌年、上野の桜は愛でる人もない中、ぞっとするほど美しく咲いていたと語っていた父も鬼籍に入って久しい。

「風立ちぬ いざ生きめやも」

新しく生まれ変わる「上野の山」。そこに確かに生きてきた人々に思いをはせ、地域、商店街、NPOなど官民の全てが関わり、今を生きる人々の知と美と文化の平和な憩いの場となることを願ってやまない。

(都政新報2015年10月2日版 6面)

【保育園申請直前講習会無事終了】

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去る10月18日(日)は、お姐と楽しい地域のカーチャン仲間江戸川ワークマム主催によります江戸川でワーキングマザーの仲間入り2015in葛西が定員オーバーにて無事終了いたしまいした。

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保育に入りたい!切実な熱気を感じました。エドマムメンバー、三次 由梨香江東区議など先輩マザーも応援に来てくれて助かりました。ありがとうございました!久々に相談者が列をなし^^;ありがたいような、ありがたくないような...変わらぬ保育状況に胸が痛みます。すこしホッとされて帰られた皆さんにこちらも安堵。

参加者同士でお友達が出来たようでそれも嬉しかったです^_^

今週末は船堀で開催いたします。まだ少し余裕がありますのでぜひプレWM、WDの皆さんいらしてくださいね。

(2015年10月19日「上田令子のブログ お姐が行く!」より転載)