植松被告がキレた理由 「日本の借金」を、なぜあれほど憂えるのか

「社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?」
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「日本は社会保障を充実させていって100兆円もの借金を抱えることになりました。あなた自身はそれをどう思いますか?」

 「僕の言うことを非難する人は、現実を見てないなと思います。勉強すればするほど問題だと思いました。僕の考え、どこか間違っていますか?」

 「昨日来たお二人が、お金のことを一番に考える風潮が怖いとか言っていましたが、お金のことを考えない方が人間としてありえないんです。それはおままごとじゃないでしょうか。社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?」

 これらの言葉は、相模原の障害者施設で19人を殺害した植松被告が発したものである。『創』2018年11月号「植松聖被告が面会室で激高した瞬間」から引用した。

 『創』の篠田編集長が植松被告と接見したのは今年の8月22日。金沢大学名誉教授・井上英夫氏とともに訪れたという。井上さんは私もよく知る人で、社会保障などを専門とする名誉教授でありながら徹底した「弱者の味方」でもある人だ。2012年、北海道札幌市で生活保護の申請ができずに姉妹が餓死・凍死する事件が起きた際には調査団を作って共に現地に飛び、福祉事務所に改善を申し入れ、また、生活困窮者たちの聞き取りをするなどした。ケンタッキーの前にあるカーネル・サンダースそっくりの見た目で、いつも弱者に寄り添う人。それが井上さんである。

 そんな井上さんが、相模原事件について調査チームを作っているということを私は『創』で初めて知った。そのための面会だったのだろう。篠田編集長と井上さんが面会する前日には、調査チームの別のメンバーが接見していたようで、接見当日、植松被告は前日の面会でのやりとりを引きずって苛立った様子だったという。日本が多額の借金を抱えていることをどう思うかと尋ねたのに、話をそらされたと感じたためらしい。結局、井上さんとの接見でも、植松被告は「心失者は人間じゃありません」などと言い、税金を使って障害者の生活を保障することに対して「無駄というより、不幸しか作れないということです」など事件当時と変わらない持論を展開。そうして接見の途中、井上さんに「キレた」のだという。立ち会いの係官が制止しようとするほどの勢いで。

 植松被告がキレたのは、冒頭でも紹介したこの発言のあと。

 「昨日来たお二人が、お金のことを一番に考える風潮が怖いとか言っていましたが、お金のことを考えない方が人間としてありえないんです。それはおままごとじゃないでしょうか。社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?」

 これに対して、井上さんが言った。

 「でも日本は本当にお金がないのだろうか。借金してたとしても金はあるんじゃないかな」

 この言葉に、植松被告は激昂。アクリル板の前の机をバンと叩いて「ぼけてるんじゃないよ!」と立ち上がり、帰ろうとした。職員が制止するそぶりを見せたほどだという。

 その後も接見は続くのだが、植松被告はオランダの安楽死に触れ、自分のやった殺人行為に対して「安楽死にならなかったことは申し訳ないと思っています」などと発言。また、障害者の家族の無理心中などについても言及するのだが、唐突にやはり「日本の借金」問題に触れて、言う。

 「日本の借金だってこれ以上もう無理ですよ。これで大地震でも起きたら無茶苦茶になりますよ」

 「そもそも借金で何かをするということ自体、考えられないですよ」

 接見の会話について詳しくは『創』を読んでほしいのだが、一見めちゃくちゃに思える彼の言い分から見えてくるのは、彼は彼なりの「危機感」の中で生きている、ということである。

 このままでは日本の財政が破綻してしまう、というような切迫した思い。そのようなことは植松被告が言うまでもなく、日々メディアで報じられていることでもある。多くの人がそんなこの国の状況について、多かれ少なかれ危機感を持ち、なんとかしなければと思っているはずだ。

 このようなことについて、最近、非常に興味深い記事を読んだ。「『将来の生活不安が差別をはびこらせている』障害を持つ人の集会で抵抗の声」(BuzzFeed 岩永直子)という記事だ。ここで、障害者の人権問題に取り組んできた立命館大学の立岩真也氏の声が紹介されているのだが、立岩氏は、相模原事件などについて、少子高齢化が叫ばれる時代、「命を選別しなければ国民の生活が立ち行かなくなるとする不安」が背景にあると指摘している。

 そうして相模原事件について、以下のように述べるのだ。

 「犯人の言っていることは突拍子もないと思われているかと言えば、今はおかしいと思われていないところがこの事件を忘れてはいけない理由です」

 「この男は社会や国家の未来を心配し、こういう形で障害者を生かすことを続ければ社会がもっと大変なことになる、だから社会を危機から救うのだというある種の正義感にかられてやったと言っています」

 「誰もそんなことはしないけれど、手前のところで(植松被告と同様のことを)思っている。植松被告はそれを真に受けて人を殺しましたが、素っ頓狂な信仰に過ぎないと言えない状況になっていることが、問題なのだと思います」

 「少子高齢化という言葉を小学生でも知っている今、より生産に励み、生産しないものは産まれないようにしておかないと、この世の中はやっていけないらしいというある種の常識が根っこにあって起きた事件だと思います」

 立岩氏は、そんな「常識」が、「生産性がない」と書いた杉田水脈議員や、「自業自得の人工透析患者を殺せ」と主張した長谷川豊氏など、政治を志す者にも共有されていることを指摘する。

 「彼女らは物心ついた時には既に少子高齢化という言葉が世の中にあり、バブル崩壊後に社会の中で失業者がたくさんいるという中で育った。世の中は放っておいたらもっと大変になるという空気の中に生き、それを前提にして政治家になろうとした人たちです」

 そしてそんな「放っておいたらもっと大変になる」という予感と不安は、前述した通り、この国の多くの人が抱えているものでもある。

 そんなふうに見ていくと、植松被告の奇妙な「普通さ」が浮かび上がる。あれほど異常な事件を起こしたというのに、どこかものすごく「普通」で、「真面目」なのだ。なぜなら彼は、先に紹介したように、「借金はいけない」という高い倫理観と規範意識を強固に持っている。また、「迷惑をかけてはいけない」という言葉も彼を考える上で非常に重要なキーワードだ。例えば接見の中で、植松被告は井上さんに以下のように質問している。以下、やりとりを引用しよう。

 植松: 安楽死についてですが、あなたは自分の意思疎通ができなくなっても延命したいと思いますか?

 ――それはわからないけれど、少なくとも生きるか死ぬかは自分で決めたい。

 植松: 決められない人もいますよ。意思疎通ができないので死にたくないという人をどうしますか? もう排泄ができなくなった時も延命したいと思いますか?

 ――少なくとも最期に水を飲めなくなるその時までは延命をやってほしいと思います。

 植松: それが迷惑なんですよ。

 ――誰にとって迷惑なの?

 植松: 誰にとってもですよ。

 借金はいけない。人に迷惑をかけることもいけない。国の将来を憂い、危機感を持っている。なんとかしなければと思っている。ここまでの要素は「立派な若者」と言いたくなるものだ。しかし、それらの思いをすべて凝縮し、危機感と正義感をもって彼が実行したこと。それは大量殺人だった。

 彼のやったことは決して許されない。どこからどう見ても異常だ。

 しかし、彼の主張の背景には、40代ロスジェネの私にも共通するような「剥奪感」が垣間見えるのだ。

 例えば、「社会保障で借金が大変」という彼の言い分を読んで真っ先に思い出したのは、山野車輪氏の書いた『「若者奴隷」時代』という漫画だった。山野氏と言えば『マンガ嫌韓流』の著者で、嫌韓ブームの火付け役のような存在である。そんな山野氏が8年前に出したのが『「若者奴隷」時代』で、この本の表紙には、「だ・か・ら若者は高齢者に一生貢いでいればいいんだよ!」と叫ぶ老人に、犬のように鎖をつけられた若者が「ジジババを殺らなきゃオレたちはこのままなのか!?」と悲痛な顔で叫んでいるという絵が書かれている。帯には「65歳の高齢者は20歳のキミよりも3903万円もボロ儲け!」とある。いわゆる社会保障の世代間損得勘定でよく使われる数字だ。漫画の中では、報われない若者たちが高齢者を責めるシーンが何度も出てくる。例えばこんな感じで。

 「高齢者は自分たちの世代が働かずに豊かな生活を営むために...若者や将来世代から莫大な額の富を搾取しているのです!」「そして下の方にある1億2171万円という数字は...政府の将来純債務を将来世代一人当たりが背負わされる金額です」「高齢者はこれまでに積み上げた大量の請求書を現在の若者や未来の子供たちに回し支払わせようともくろんでいますがそのような愚劣な考えは到底許されません」

 漫画ではこのような若者の言い分に、何も言い返せず「うぐぐぅ」「むぐぐぐ...」と言葉を失う高齢者たちの姿が描かれる。他にも目次には「若者を追い詰める高齢化社会の弊害」「パラサイト・シルバーの時代」「将来世代や僕たちにツケを回す医療・年金・介護」「高齢者民主主義の国」「政治の仕組みが僕たちを食い尽くす」といった言葉が並ぶ。

 特筆したいのは、この漫画で描かれているようなことは、それほど「特別」なことではないということだ。

 「自分たちの世代はものすごい貧乏くじをひかされた」という気分は、おそらくロスジェネ以降の世代の多くに共有されている(ただ、今の20代前半とかになると「いい時代」をそもそも知らないので剥奪感はあまりなかったりする。ちなみに山野車輪氏は団塊ジュニアの71年生まれ)。実際、この漫画に描かれているような「高齢者憎し」の主張はこれまでもよく耳にしてきた。特に反貧困運動を始めたばかりの10年ほど前は現在より「若者バッシング」が激しく、貧困も「自己責任」とされがちだったため、理解のない上の世代への怨嗟の声は相当のものだった。デモをすれば、「自分たちの職を奪った団塊世代からすべてを奪え!」と叫び出す私と同世代の人もいたし、年越し派遣村の喫煙所では、「団塊世代より上の世代から選挙権を剥奪すれば俺らがホームレスになることなんてなかったのに...」と怒りに震える若者もいた。

 何がどうしてどうなって自分たちが路上生活や出口のない非正規生活になってしまったのかはわからないけれど、それらは団塊世代や高齢者が悪いのだ、という「気分」は、当時、一部の若者たちに確実に共有されていた。その背景には、高齢者は「弱者」として守られるけれど、若者はどこにも守られずに一気にホームレス化してしまうことや、非正規の若者が必死で働いても親の年金よりずっと低い額しか稼げず、そのことを親になじられるというような無理解などもあったろう。

 そんな中、貧困問題にかかわり始めてすぐの12年前は、私自身も高齢者バッシングに乗っかってしまいそうな瞬間もあった。しかし、そうならなかったのには理由がある。それは多くの現場に行き、支援団体と知り合い、ホームレスや生活保護利用者や困窮している当事者と多く会ったことだ。現場には、若者よりも圧倒的に高齢者が多かったのである。当時、「若者のホームレス化」が社会的な注目を集めていたが、それはこれまでほとんど若者を見かけなかった路上に出てきたからこそ目立ったわけで、数としては圧倒的に中高年以上が多いのだ。もちろん、今も。これ、世代間とかの問題じゃないんだな。団塊世代やそれ以上の人すべてが恵まれているなんて、全然幻想だったんだな。そう思ったことで、私は世代間対立とは距離を置いた。対立があるとしたら、持つ者と持たざる者で、世代は関係ないというスタンスとなった。

 しかし、そんな私も心のどこかで「団塊世代の親のような老後など私たちは絶対に迎えられず、恐ろしく過酷な老後で野垂れ死とか普通にあるだろうな」と思っているし、配偶者も子もない身として「将来の生活不安」は直視したくないほどに大きい。だから、植松被告が井上さんに「ぼけてるんじゃないよ!」と言った気持ちが少しだけ、わかる。高度経済成長の時代を生きて、ひと通りのものを手に入れて、自分たちだけ「勝ち逃げ」しようったってそうはいかないんだからな、という気持ち。それはおそらくロスジェネ以降の世代に刷り込まれている。

 あなたたちは逃げ切れるかもしれないけれど、私たちの未来は長いのだ、人生はまだ続くのだ、無責任なこと言うなよ、という悲鳴。それに対して、「日本の借金はひどいひどいと言われてるけど実はそうでもないという意見もある」とか、そういう話をしても意味がないと思う。私の中の「内なる植松」が聞きたいのはそんな言葉じゃないのだ。...でも、そうじゃないとしたら、どんなことなのだろう? 彼は何にあれほど苛立っているのだろう? そこがわかれば、事件の真相にほんの少しだけ近づけそうな気がするのだ。

 ちなみに残念なことに、植松被告は日本の借金が100兆円と言っているわけだが、1000兆円、というのが通説である。ヒトケタ多いと知ったら、彼の危機感はより深まるのか、非常に気になるところだ。

 そうしてこの原稿を書いている最中、安倍首相が来年10月から消費税を10%に引き上げることを表明した。社会保障制度拡充のためである。この一報を、植松被告はどう受け止めるのであろうか。