特撮番組『ウルトラマン』シリーズなどの脚本家として知られる上原正三さんが1月2日、肝臓がんで死去した。82歳だった。喪主を務めた長男、敬太郎さんによると葬儀は近親者で行ったという。
子供向け番組で、あえて民族差別などの社会問題を描いた上原さん。生前は「何でもかんでも自主規制がはびこると、作品自体を貧しくする」と過剰な自主規制について警告していた。彼の遺したメッセージを振り返る。
■数々の特撮・アニメ作品を手がける
上原さんは1937年、沖縄県那覇市生まれ。同郷の金城哲夫さんに誘われて1965年に円谷プロに入社した。
円谷プロ時代に脚本に参加した作品は『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』など。1969年以降はフリーの脚本家となり『帰ってきたウルトラマン』『宇宙刑事ギャバン』『秘密戦隊ゴレンジャー』など、多くの特撮、アニメ作品の脚本を手がけた。
その作品群は、差別や戦争などの社会的なテーマを扱ったものも多く、高い評価を受けている。
■ウルトラマンで差別問題を扱った「怪獣使いと少年」
上原さんの作品で、特に傑作と名高いのが1971年に放映された『帰ってきたウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」だ。「宇宙人では?」と疑われ迫害される少年、無抵抗なまま群衆に殺害される宇宙人を軸とした重厚なストーリー。沖縄出身者や在日韓国・朝鮮人といった国内のマイノリティに対する差別を象徴的に描き出していた。
筆者は2003年3月、都内で上原さんにインタビューした際に、なぜ子供向け作品で「怪獣使いと少年」という問題作を書いたのかについて聞いた。
彼の答えは、「インパクトが見た人の心の中に残るから」というものだった。その上で、「クリエイティブの世界では、ある意味での狂気って必要」として過剰な自主規制を批判していた。
「あれも(放映したTBSの)局内ではかなり問題になって、修正も加えられたんです。それで僕と(監督を務めた)東條昭平は草鞋を履かされてしばらく(『帰ってきたウルトラマン』の制作から)遠ざかったからね。でも、そうやって作られたものはいい悪いじゃなくて、インパクトが真実の姿として、または映像として見た人の中に残っていくわけです。富山のある中学校の先生は、『怪獣使いと少年』を教材にして生徒達に教えたそうです」
「何でもかんでも自主規制がはびこると、作品自体を貧しくするという気はしますね。作家の想像力までを規制してしまう。作家がお利口さんになっちゃうのね。だって、作家って危ないものじゃない?表現の自由の中には、自分の良識の範囲内というのも当然ある。でも、クリエイティブの世界では、ある意味での狂気って必要だと思うんですよ」