内田篤人ってどんな人? 「あんな経験、二度としたくない」 雪辱を期す"日本のベッカム"

2度目のワールドカップ日本代表に選ばれた内田篤人。彼の不屈のサッカー人生を振り返る。
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NOVI SAD, SERBIA - OCTOBER 11: Atsuto Uchida of Japan stands for the national anthem prior to the international friendly match between Serbia and Japan at Karadjordje Stadium on October 11, 2013 in Novi Sad, Serbia (Photo by Srdjan Stevanovic/Getty Images)
Srdjan Stevanovic via Getty Images

2010年6月のサッカーワールドカップ・南アフリカ大会。日本代表に選ばれたDFの内田篤人(うちだ・あつと)を待っていたのは、屈辱の日々だった。

攻撃力を買われて、アジア予選で右サイドバックの主力を務め上げた。しかし、岡田武史監督は本大会直前に守備を重視する戦術に転換。体調不良も重なって、南アフリカの競技場では、1試合も出場することはできなかった。内田は当時の悔しさを、こう振り返る。

「岡田監督(当時)にずっと使ってもらってきたのに最後までもたなかった。チームが勝てなくなり、戦い方が守備重視に変わった時、監督が求める守備力が僕にはなかった。大会後、多くの方に祝福していただいたけど、僕は何もしていないんだっていう悔しさは消えなかった。あんな経験、二度としたくはない」

(朝日新聞デジタル「内田篤人スペシャルインタビュー」)

帰国直後の2010年7月、内田は古巣の鹿島アントラーズから、ドイツのブンデスリーガの名門チーム「シャルケ04」に移籍した。当初は代表戦での負傷もあり低調な滑り出しだったが、秋には右サイドバックのレギュラーに定着。2010年末の欧州チャンピオンズリーグでは、シャルケ史上初のベスト4入りに貢献した。

欧州での活躍で、ザッケローニ監督の目に止まり、ワールドカップのアジア予選では主力メンバーになった。順風満帆に見えた内田だが、念願のブラジル大会目前の2014年2月。またもや運命が彼の前に立ちはだかる。

足を負傷して戦線離脱し、シーズン内にチームに復帰することはできなかったのだ。右ひざ裏の腱損傷で全治3カ月と診断された。手術をしたらワールドカップに間に合わない。すぐに帰国し、古巣のアントラーズのチームドクターを務める香取庸一氏や、日本代表の医療スタッフに治療を依頼。彼らの尽力もあり、再び日本代表に返り咲いた。彼は、こう決意を新たにする。

「これで(W杯は)自分だけの問題じゃなくなった。色々な人の思いを背負って戦うことになる。自分がW杯のピッチに立つ姿をみせないとね。リハビリを一緒にやっていた他競技の仲間や、ドクター、スタッフの人たちに、その姿を見せたい」

(Number2014年7月17号「日本代表23人に問う。」)

■「日本のベッカム」と呼ばれて

内田は1988年生まれ、静岡県出身の26歳。清水東高校を卒業したばかりの2006年に鹿島アントラーズに入団。Jリーグ開幕戦ではチーム史上初の高卒ルーキーでのスタメン出場を果たすなど、プロデビュー当時から「近未来の日本代表」と期待されてきた。スピードと高い技術を兼ね備えた右サイドバックに定評がある。

甘いルックスとひたむきな性格から、日本代表の中でも特に女性人気が高い。シャルケのチームメイトであるGKのラルフ・フェールマンは、「日本のデイヴィッド・ベッカム」と言って本人をからかっていると明かした。

2日に行われたトレーニングに日本から約250人のファンが訪れたようで、フェールマンは、「すごかったよ。ランニングしている時は、ちょっと旅に出ているみたいだったね。ウシ(内田の愛称)が母国でどれだけ人気があるか分かったよ。ロッカールームでは、『日本のデイヴィッド・ベッカムだ』ってからかっているんだ」と、当日の様子を語るとともに、内田のエピソードについて触れた。

(サッカーキング『シャルケGK、同僚内田篤人の人気に驚き「日本のベッカム」』2014/02/04 10:55)

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