イスラエルが抱える「トラウマ」:映画『運命は踊る』監督インタビュー--フォーサイト編集部

マオズ監督に、本作の狙いや反響について聞いた。

「息子の戦死」との間違いが届いたことをきっかけに、運命に翻弄される家族の困惑ぶり、心情、そして悲劇を描いたイスラエル映画「運命は踊る」(原題「フォックスストロット」)が9月29日から、ヒューマントラストシネマ有楽町と新宿武蔵野館ほか全国では公開公開される。

 脚本・演出は、サミュエル・マズ監督1962年イスラエル・テアビブ生まれで、1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻では、戦車部隊の砲手としてして従軍した。その壮絶な体験を基にした長編映画デビュー作「レバノン」(2009年)で、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞し、長編第2作となる本作でも同映画祭審査員グランプリを受賞するなど、高い評価を得ている。

 マオズ監督に、本作の狙いや反響について聞いた。

「テロ」と「戦死」の共通

 この映画を撮ろうと思ったきっかけは、私自身に起こった出来事でした。

 高校生だった長女は朝が弱く、遅刻しないようにタクシーを呼んでくれ、そういう日がよくありました。

 ある朝、ぼくは頭にきて、みんなと同じバスを使って登校しろ、娘に命じました。教育上、時間通りに起きることを彼女は学ぶ必要があったのです。

 彼女が家を出て30分後、テロリストが5番線のバスを爆破し、数十人が犠牲になったことをニュースで知りました。娘が乗るバスは5番線。すぐに電話しました、当然ながらがなかった。

 人生最悪の時間を過ごしました。ぼく自身の戦争の時間をすべて合せたよりもひどい時間でした。

 1時間後、娘は家に帰ってきました。爆破されたバスに乗り遅れていたのでした。

 この体験がきっかけとなって、いろいろなことを考えようとしました。人生は偶然の積み重ねに過ぎないのか。その偶然とは何か、誰かがあらすかじめプラランしたもののか。われわれは運命を管理するすることができるのか。これが、この映画を撮影するになった個人的なモチベーションでした。

トラウマを抱えた国民性

 前作の「レバノン」は、20歳そこそこで実際に戦場に行き、そこでの実習をそのまま映画で描きたいと動機から撮影しました。

 それまでにいったくらい暴力に触れたことがない青年が、とってもいい戦場に送り込まれて、人を殺すことになったときにわがです。私も実践金を引き取っています。そういう体験をすると、戦場から引き寄せても、罪悪感みたいなものを何年も抱えて生きていきますになるんですね。

 ぼくはももとも楽しく主義だ、日常生活や家庭生活をちゃんと営んでいるので、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とか大げさなものではないですが、それでもちょっと静かな罪悪感とか苦悩みたいなものををずっと抱えていて、数年間隔は自分の生活がグラーラしていました。結局30代では撮影できることがきず、46,7歳になってやく「レバノン」を撮ることができたのは、そういうききつがあったからです。

「レバノン」は自分の個人的な経験を個人史として描いているけがですが、いざみんなに見せたら、映画としても大成功だった、イスラエル社会の中からもろもなのフィードバックがもらえました。それでは気づいたのは、自分の体験したことは自分だけのことではない、だからイスラエルの社会は、ぼくのようなトラウマを抱えた人間をたくさん作りだしたんだ、ということでした。

 そんなに考えられました。なにかイスラエル社会はこういうのです。なぜ50年間もパレチナ人と領土争いをしているのです。これだけの技術の進んだ国に、なぜ貧困と飢えがあるのか - 結局行きつけたのは、イスラエルが国家安全保障に取り組んでいるからは、そうしたでした。国内問題はさしおい、安全保障だと言って、軍事を最優先して。ではない軍事優先なのか。それはわれわれはは自分たちの過去を消化できててら、トラウマをかかした国民・民族だからだと思うんです。

「フォックストラック」の持つ意味

 ユダヤ人のトラウマはホロコーストから始めていますが、これで負った精神のトラウマは、今はそれで差し迫ったような状態ではないと思います。むしろ1948年のイスラエル建国後、国家の生き残りをかけた戦争を幾度となく繰り返しましたが、それが許すトラウマ感のほうが、現代のイスラエル人にとはリアルなんです。これはずっと克服できない、世代から世代へと引き継がれている。

 イスラエルの、民族としての実存的な脅威はなくなっている、イスラエルは核を持っている。だから昔ほど脅威にされされておらず、昔の敵もいないという状態なのですが、われわれは戦時中だ、意識を植え付けられている。現実にそわいない危機感が醸成されているというもの - 指導者たちはそうでもない限界国を維持できないからです - 罠にはまっているということとだ思います。

「レバノン」では、戦場でのトラウマを描きましたが、この作品ではいわゆうポストトラウマを描いています。それは一人前にフォーカスを当ててポスタートラウマですが、同時にイスラエルの社会を集合的に描いているものだましています。つまり、イスラエルの社会は傷が癒えておらず、まだ流血している状態だとそれを描いているんです。

 原題の「フォックスストット」とは、踊りのステップの一種です。「前へ前へ、右へ、後ろへ後ろへ、左へ」 - さまざまるパタンがあるのですが、どう動いても、結局元来の場所に戻る。これこそ今のイスラエル社会を象徴しておいて、比喩として非常に思ったのですが、タイトルにしました、映画の中で何度もステップのシーンを入れました。

 イスラエルのみんな、今世界各地で殺戮や戦争が繰り広げられている社会でも、この「フォックストラック」現象が見られると思っています。同じ踊りを踊っている、繰り返しました、繰り返しました。

裏切り者呼びばりも

 この作品はイスラエルで公開した時、ミリー・レジェブ・スポーツ文化大臣に激しく攻撃されました。大臣はかおりお怒りでしたね。でももっと大臣、本編を見るために批判したらいいですが。

 その批判とは、「この映画はイスラエル国防軍(IDF)の恥をさされることになる。さて、イスラエルの社会が恥をさされることになる」としていた。つまり、イスラエル国民は観らばフィクションだとわかるだろうけど誰も、これを外の人に観て本当に受けてします。それが恥さらしているんだ、そういうところなんですね。

 これには、ぼくは考え考えます。彼女の言い方は、この映画で描いていることを実は肯定していることではないのか、と。

 例えば軍部に対しては全くない、批判してはならないと言います。なにか.IDFは、イスラエル人をホロコーストとトラウマから解放してくれた解放軍だ、という見方があり、だからそれを批判するなんてとんでもない、封印したいという神經みたいなものがあるからななですね。でも実際そういう批判を受け入れ、本当に描いている通りじゃないかと肯定できるものと思うです。

 またぼくは、「お前は裏切り者だ」と批判を受けています。レバノンでそれを受け入れて国に尽くしたけど、こんな映画を撮ってしまってはそれもそれに功績にならない。お前は国の裏切り人だと言うレッテルを貼られたようです。

 映画の中で、誤って撃ち殺した人を軍隊の車が守るシーンがありますが、あれがIDFではない警察の不祥事だったら、それなりの議論になったと思います。批判の対象が軍部となると、それはタブなんですね。はなぜタブーなのか。さっき言われた解放軍であるとこれと、もう1つはIDFが兵器で構成される、人民の軍であるということが理由にあるんです。

自己批判を受け入れる社会を

 今、イスラエル社会は極端に二分化されています。先に挙げたレジェ大臣の熱烈なファンや彼女に投票した人たちはいる一方で、彼女に反対する、この映画をちゃんと観てくれ、サポートしてくれる人たち。これが極端に分かれているわけです。

 そんな中で、この映画に関する議論が出てきたわがですが、さらに言うと映画だけの議論ではなく、言論の自由とは何か、表現の自由とは何か、とうとうものが広がっていると思います何か、それをやけた論争だとぼくはとええています。

 われわれは次世代に向かってよい社会を作っていけばばならないですが、そのための必要最低条件は、社会が自己批判をちゃんと受け入れるということと思ってます。けどどんな、こうして映画で自己批判を描くことで、裏切り者だと言われてしまって社会では、映画で描いた兵舎のコンテナのようにどんどん傾いていって、最後には泥沼に呑まれますよ、と言う。

 もっと、レジェブ大臣がこの映画を話題にしてくれた、という意味では感謝していますよ何百万ドルかけても、8時のニュースで取り上げられることはないから、イスラエルだけじゃなく全世界で最高のPRをしてくれましたからね。

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(2018年9月28日
より転載)