アジア人であることを恥じながら、アメリカで育った私の半生。そこから誇れるようになった理由

「自分の文化的アイデンティティが、私が普通のアメリカン・ガールであることを妨げることはない」と理解するのに、とてつもない時間がかかった。
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著者のアリソン・ラウ
NAVJEET HUNDAL

「娘さんは1年進級を遅らせなければならないかもしれません。知能が遅れているように思います」

私がほかの子供たちのように童謡をうまく歌っていない事を懸念したプレスクールの保育士がこの言葉を口にしたとき、中国人移民の両親は恐怖に息をのんだ。


「幼稚園への進学への許可するには、ご家庭でいろいろと変えていただく必要があります」

その後、私は小学校へ上がり、中国語は二の次にして英語を集中的に学び始めた。ポップスやボーイバンドの歌詞を覚え、MTVやディズニーチャンネルなどの番組表もチェックした。すべては、ただ英語の会話に入るためだけに。しかし時が経つにつれ、自分を隠し、アメリカ化しようとする行動は拡大していった。


移民一世の子供につきまとう特有の地獄がある。私が育ったのはカリフォルニア州シリコンバレーにある小さな郊外の町、サンカルロス。そこは圧倒的に白人が多く、正確には80%近くを占めていた。小学1年生から5年生まで毎日が過密スケジュールで、クラスメートたちと教室で授業を受け、追加でスピーチセラピーのクラスにも出席した。主にthの発音を学ぶためだ。中国語にこの発音はない。

「スではなくth、ゾウではなくthough、ゼンでではなくthen」、まるで人生はこれに掛かっているとでもいうように、毎日これらを何百回も繰り返した。


クラスメートのほとんどは放課後にスポーツやダンスをするというのに、私は家へ帰って母と一緒にすべてを繰り返し、母の知らない単語があれば教えた。話すことへの自信はついていったが、時折クラスメートがふざけて両目の端を指で吊り上げる(アジア人に対しての差別的行為とみられる)のを見るとゾッとし、すべての進歩が潰れたような気持ちになった。


他にも、密かにクラスメートたちの行動を観察した。スラングや笑いのタイミング、友達の作り方...社交的なクラスメートたちの頓着しない魅力に心を奪われていた。一方私自身は、自分の陣地でひっそりと、優しい「壁の花」的な友達と仲良くしていた。


家では、夜に宿題や授業の復習を終えた後、家族でテレビの周りに集まり、たわいのない中国の連続ドラマを見た。それらはどれも目のぱっちりした主人公が、平凡な男性2人との悲痛な愛の三角関係に捕らわれるという筋書きだった。そして私は母の腕のなかで、カルマ、生まれ変わり、目的のある利他的な人生を送ることの重要さなどについての物語を読んでもらいながら眠りに落ちた。


しかし友達が遊びに来るときには、まるでそれが犯罪シーンでもあるかのように、文化を示唆するすべてのものを大忙しで部屋から消し去った。ディズニーのプリンセス人形たちの入った箱を引っ張り出し、トトロやハローキティをクローゼットの奥深くへと隠した。麻雀パイは、怪しまれないモノポリーなどのボードゲームに置き換えた。


このようにして、私はダブルライフのクイーンになった。

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Hero Images via Getty Images

何年ものイメトレの結果、ゆっくりとではあるが確実に、自分の声を見つけ、人見知りせず会話に参加することができる自分の立ち位置があると感じた。私の変なアクセントや、たまについ出てしまう中国語以外でクラスメートを笑わせる感覚が、私のアメリカ人としてのアイデンティティを発達させる原動力となった。でもその代わり、自分の文化的ルーツは置き去りにし、急速に消し去っていた。


何年も経つと、「あなたはどこ出身?本当はどこから来たの?」という恐ろしい質問への軽くてクレバーな返答を編み出した。「母のお腹からよ」というのが私のお気に入りの答えで、たいてい相手は呆れるような反応を見せた。

しかし、性格や個性などで自分を知ってもらう前に、常にアジア人女性として見られるのだと意識せずにはいられなかった。長年アメリカに同化するための訓練を積み重ねてきた結果、私は気持ち悪いほど完璧な「バレーガール(LAの典型的な女の子を指す)」のアクセントを身につけ、ついにある時、私はアジア人としてのアイデンティティは単なるおまけで、実質的にカリフォルニア・ガールになった、と実感した。


私はこのバージョンの自分を次第に愛するようになり、アメリカ人の友人たちに囲まれることを誇らしく感じた。その一方で、移民としての一面も愛し、深く理解していた。


大学時代には中国語を話すことはめったになくなり、友達と行ったレストランでたまに中国語で注文したりするのは、まるで手品を披露するようだった。しかしその時でさえ、私の下手な箸使いを見たスタッフがフォークを持ってに駆けつけてくれることも多くあった。私はなんらかの典型的なグループに分類されるのを避けるために、グレーゾーンにいることをある意味楽しんでいた。それは私にとって、人種差別の固定概念を避けるための最大の予防策だったのだ。


しかし時が経つと、私はどちらのアイデンティティにも当てはまらないと認識するようになった。育ったアメリカの町の友人たちの中で私は、常に説明を必要とする外国出身者として目立っていたし、両親の母国である台湾では、場違いに見られたり感じたりし、せいぜい6歳くらいの中国語しか話せなかった。


繋がりを持つことに憧れる気持ちが1番反映されたのは恋愛観だった。偶然なのか、それとも気付かずにパターン化してしまったのか、20代でデートした相手のほとんどは、自分とは別の背景をもつ移民もしくは一世だった。

文化の衝突というものを理解する人と一緒にいる心地よさが人生の孤独を和らげてくれ、そしてまた新たな背景を知ることは、違いを認めて受け入れるという課題を与えてくれるのだと知った。

この貴重な経験からいろいろと学んだなかでも特に、出会った人それぞれのアイデンティティの深さや、それがその人の人格形成にどのような役割を果たすかが本当に理解できるようになった。

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台湾のイメージ写真
Thant Zaw Wai via Getty Images

両親は数年おきに家族で台湾に行くことを大事にしていたが、私は文化的ルーツの繋がりを失っていった。高校、大学、大学院と経て職に就くに従い、海外の家族に会いに行くことの重要度は失われていった。


そしてこの2月、私は祖父に会いに台湾を訪れることにしていたのだが、私が到着するちょうど1カ月前に祖父は亡くなった。台湾へ着いたとき、亡くしたすべての人々(叔母、祖父母)の重みに打ちのめされ、彼らのいない初めての帰郷を体験して心が痛んだ。子供時代に多くの時を過ごした彼らの家を訪れ、何年も抑圧していた罪や恥や悲しみが襲ってきた。


リビングに行き、祖父のアームチェアに座ると、祖父がお茶をすすりながら母が幼かった頃の話を私に話して聞かせてくれたことを思い出した。

今は物置として使われているかつての祖父母らの部屋の中で、かつて彼らが私を膝に座らせて溺愛し、ミルクキャンディーやパイナップルケーキの小袋を、母に没収されないようにポケットに突っ込んでくれたのを思い起こした。

祖父母の飾り戸棚のすべてには、私や兄弟の色褪せた、20年分はあると思われる写真があり、それは祖父母に時間と海を越えた私たちへの愛を思い起こさせていたのだあろう。


台湾での最終日に私たちは、祖父母を偲んで線香の束と花と果物を持ち、なだらかに起伏する陽明山の青々とした森林を進んでいった。

「お母さん、お父さん、私たちは会いに来ましたよ。アリーもいっしょです」と線香束のひとつひとつに火をつけながら告げる母の頬には、涙が止めどなく流れていた。

感情がどっと押し寄せ、線香の刺激臭が薄い山の空気のなかへと散っていき、私は悲しみにすっかりとらわれて母の横で崩れ落ちた。
私は祖父母を恋しく思うとともに、彼らがいないことや両親と分かち合ったこの時間が、自分には忘れてはならない文化のルーツがあることを深く心に刻むものとなった。


今でも私は、なぜこれほど長いこと自分は台湾に帰らなかったのだろうかと思う。

この15年間で家族に会いに行くための1週間の時間を、自分は本当にとることができなかったのだろうか? 

私は何年にも渡り、自分の文化的ルーツを、恥やアメリカ文化への順応のアンチテーゼと結び付けていたのだ。

そして、自分の文化的アイデンティティを保つことが、普通のアメリカン・ガールであることの妨げになるわけではない、と理解できなかったのだ。その2つを別のものとして考えていた事は、その後何年もの間、私の人生を支配した。私の決断はすべて、愛ではなく恐れからきていた。


今では質問をそらすのではなく、興味をもってくれた人には何かにつけて私の文化について説明するようにしている。

しかしもっと重要なのは、家族に過去の体験や、移住により彼らのアイデンティティがどのように形成されたかを尋ねるようにしていること。多くの意味でそれは、自分にとってアジア系アメリカ人であることの本当の意味を明らかにし、自信をもって前へ進むためのやり方なのだ。

この「恥ずかしい」という気持ちを乗り越え、自分のルーツを誇り讃える方法を見つけるまでに半生を費やしてしまったが、残りの人生で、改めて繋がりを見つけるというこの美しい旅路を歩んで行くことができるだろう。

ハフポストUS版の記事を翻訳、編集しました。

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