2013年1月、フィリピンは南シナ海における中国との紛争について、政治的・外交的な解決努力は尽くしたとして、国連海洋法条約に基づく仲裁手続を開始した。
仲裁裁判所の裁判事務を担当する、オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所(PCA)は昨年10月、フィリピンが提起した15項目のうち8項目は留保するものの、7項目について管轄権があると判定し、審理することを決定した。そして7月12日、その裁定が下されることになったのである。
提起されている問題とはそもそも何なのか、仲裁裁判では何に対して裁定が下されるのか、そしてその結果どんな影響が南シナ海に及ぶのか。
国際司法に訴え出たフィリピン
2012年4月のことだった。フィリピン・ルソン島の西方、同国の排他的経済水域(EEZ)内にあるスカボロー礁の近くで、中国漁船の不法操業を取り締まろうとするフィリピンの艦船と、それを阻止しようとする中国公船とが対峙する事態になった。
にらみ合いは続くが、2カ月後、悪天候でフィリピン艦船が現場海域を離れた隙を狙い、中国が同海域を押さえ、スカボロー礁は中国が実効支配するようになった。
フィリピンの海軍力は艦船80隻、総トン数約4.7万トン。2700トン級のフリゲート艦2隻が最も大きい艦艇だ。これに対して中国は艦船892隻、総トン数142.3万トンで、潜水艦のほか6500トンや5700トンの駆逐艦などを擁しており、その圧倒的な戦力差は歴然としている。
中国の一方的な実効支配を実力で覆せないフィリピンは2013年1月、国連海洋法条約に基づくPCAへの提訴という方法をとった。紛争の解決を当事者間ではなく、国際司法の場に委ねたのである。
「島」なのか「岩」なのか
ではフィリピンが提起し、仲裁裁判所が同裁判所に管轄権があると認めた7項目を見てみよう。因みに仲裁裁判所は一方の当事国の参加だけで審理を進めることができる枠組みである。
(1)スカボロー礁にEEZや大陸棚は生じない。
(2)南沙諸島のミスチーフ礁、セカンドトーマス礁、スービ礁は「低潮高地」(後述)であり、領海、EEZ、大陸棚は生じない。
(3)ガベン礁、ケナン礁は「低潮高地」であり、領海、EEZ、大陸棚は生じない。
(4)ジョンソン南礁、クアテロン礁、ファイアリークロス礁では、EEZ、大陸棚は生じない。
(5)中国はフィリピン漁民のスカボロー礁での伝統的漁業を不法に妨害している。
(6)中国はスカボロー礁、セカンドトーマス礁の環境保護に関して条約に違反している。
(7)スカボロー礁近海での中国公船の危険な運用は条約違反である。
最も重要なのは、最初の4項目である。ここでは、対象となる各礁が国際法上の「島」なのかどうかが問題となっている。つまり、各礁の「国連海洋法条約上の法的地位」が争われているのだ。
国連海洋法条約では、島とは「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」と定義されている(海洋法条約第121条1項)。
ただし、人間が居住できなかったり、独自の経済的生活を維持できないものは「岩」とされ、EEZや大陸棚を持たないと定められてもいる(海洋法条約第121条3項)。
一方、低潮高地の定義はこうだ。「自然に形成された陸地であって、低潮時には水に囲まれ水面上にあるが、高潮時には水中に没するもの」であり、「その全部が本土又は島から領海の幅を超える距離にあるときは、それ自体の領海を有しない」(海洋法条約第13条)。
つまり「島」ならば、これを基点に領海やEEZ、大陸棚が決定されるわけだが、「岩」や「低潮高地」は「島」ではないので起点にはなりえない。仮にそれを人工島化しても、「自然に形成された陸地」ではないので、国際法上は「島」とはみなされないということなのである。
これらのことを前提に7項目を見てみる。
まず(1)だが、スカボロー礁はそもそもフィリピンのEEZ内にあり、しかも同国はこれを「島」ではなく「岩」と認識している。だから中国がここを実効支配しても、中国のEEZや大陸棚は生起しない、という言い分である。
(2)~(3)については低潮高地だから、領海やEEZの基点となる「島」とは法的に認められない。
(4)は、既に中国が勝手に人工島にしてしまったが、その人工島をもって大陸棚やEEZの基点としていることはけしからん、という訴えなのである。
(5)~(7)は、国際司法上、上記(1)~(4)が証明されれば、当然違法だというべき内容である。
間接的に「九段線」を論破?
注意しなければならないのは、こうした項目に対する仲裁裁判所の裁定は、中国の南シナ海支配の是非を直接的に問うものではない、ということだ。
中国は以前から、南シナ海のほぼ全海域を囲い込む「九段線」を主張している。これは、九段線内のエリアでは自らの主権、管轄権、歴史的権利がすべて及んでいるとするもので、西沙・南沙諸島などへの中国の進出は、すべてこの主張に基づいている。
フィリピンはもちろんこの点についても、「九段線内での主権、管轄権、歴史的権利の主張は海洋法条約に反し、法的効力はない」と仲裁裁判所に提起したが、昨年10月の裁判所の決定では「判断留保」とされ、直接的に審理されることはなくなった。
しかし、もし各礁の法的地位についてフィリピン寄りの裁定が下された場合、結果として九段線の主張が崩されることになる。当然これを中国は受け入れず、「裁判は認めない」「仲裁裁判所に管轄権はない」「裁判所の裁定は受け入れない、拘束力もない」と、裁定が出る前から徹底して裁判を無視する言動を繰り返しているのである。
彼らにとっては、国際司法判断上、違法か否かは問題ではなく、これまで積み上げてきた既成事実のみが大切なのである。
南シナ海は「核心的利益」
海洋法条約締結国でありながら、なぜ中国はそこまで裁判を忌避するのか。それは、中国にとって南シナ海が今や「核心的利益」になったからだ。
中国の海洋進出はもともと、漁業や海底資源といった経済的利益を求めるためのものだった。今回の仲裁裁判の原因となったスカボロー礁での紛争も、中国漁船の操業が問題視されたことが発端だった。
ところが中国は2014年から、実効支配している各礁の人工島化を急速に進めはじめた。中でも西沙諸島のウッディー島には3000メートル級の滑走路を造成したほか、レーダーシステムを設置、2砲兵中隊の地対空ミサイルを配備した。
さらに南沙諸島のファイアリークロス礁も埋め立てが進められ、3000メートルを超える滑走路、軍用とみられる港湾施設などの軍事施設が完成あるいは建設中という状況だ。
これはつまり、中国軍の前方展開が始まったことを意味しているのだ。3000メートル級の滑走路があれば、主力戦闘機を南シナ海に常駐させることが可能な上、港湾施設は、中国海軍水上艦艇はもちろん、戦略ミサイル潜水艦も海南島周辺よりも水深が深い南方に配備できるようになる。
南シナ海を核心的利益と中国が宣言したことは、この地域が中国にとって経済的利益のみならず、軍事的、国家戦略上極めて重要なエリアに本質的に変ったことを意味しているのだ。
したがって、中国がこれらをむざむざと手放すとはとうてい考え難い。
ちなみに、東シナ海における尖閣諸島も「核心的利益」と言いだしたように、南シナ海の島嶼と全く同じ文脈で観る必要があることを付言しておく。
「戦略的トライアングル」を阻止せよ
そして今年3月、米軍が重大な発表を行った。中国がスカボロー礁周辺海域の測量を行っており、いずれ人工島の造成を始めるのではないか、というのである。
もしスカボロー礁が軍事拠点化したら、フィリピンの喉元にまで中国軍が進出してくるだけではない。ウッディー島、ファイアリークロス礁、スカボロー礁を結ぶ、南シナ海の「戦略的トライアングル」が完成され、この地域の覇権を中国が完全かつ面的に掌握することになる。
それは言い換えれば、中国が日本や韓国の生命線であるシーレーンを押さえるのみならず、対米核抑止力としての第2撃能力、即ち米国からの第1撃の核攻撃に対して場所が特定困難な潜水艦から核ミサイルを報復攻撃する能力、を握ることになるのである。
こうした中国の野望を阻止する方法としてまず必要なのは、今回の仲裁裁判で、フィリピンの主張が国際的な司法判断として認められることだろう。
もちろん中国は、そうした判断を受け入れず、スカボロー礁の軍事拠点化に手を染めるかもしれない。しかしそうなると、昨年来言われている米軍のフィリピン再駐留が急がれることになる。
筆者は今年4月に寄稿した「海自護衛艦『カムラン湾寄港』の読み方」の中で、中国は南シナ海に「力の空白」が生じるたびに進出を繰り返した、と論じた。1992年、米軍はフィリピンのスービック海軍基地から完全撤退し、そこに力の空白が生まれた。
が、一昨年、フィリピンと米国は、米軍によるフィリピンの軍事基地使用を盛り込んだ新軍事協定に署名。米海軍はスービック港に戦闘機やフリゲート艦を再度常駐させる計画だという。
もしこれが早期に実現すれば力の空白は埋まり、中国のスカボロー礁軍事拠点化を阻止することが可能となる。どちらが先手を打つのかによって、南シナ海情勢は大きく変わるだろう。
南シナ海で国際的な活動を
だが、アメリカの動向に頼るだけでは不十分である。6月に寄稿した「日米への意趣返しか? 相次いだ中国軍艦の『進入』『侵犯』」でも述べたことだが、今回の仲裁裁判での司法判断を中国に理解させるためには、南シナ海問題を「国際化」することも必要である。
6月にシンガポールで開かれたアジア安全保障会議(シャングリラダイアログ)で、フランスのルドリアン国防相は、EU(欧州連合)各国に「海軍艦艇を派遣しよう」と発言した。
これは「国連海洋法条約に基づく考え方を中国に教えるため」に、「WEU(西欧同盟)海軍を南シナ海に派遣」しようという意味である。こうした国際的な活動が、中国に対しては案外効くのである。
その中国は、仲裁裁判の判定次第では「海洋法条約から脱退する」とまで過激な発言をしているが、本当にそこまでエスカレートするだろうか。
日本はかつて、満州事変に関するリットン調査団の報告を受け入れられず、国際連盟を脱退して孤立し、その後の悲劇を招いた。中国の現状は、当時の日本と似ている。
もし海洋法条約から脱退すれば、中国は孤立し、破滅の道に向かって歩み出すことになりかねない。賢明なる指導者はそれをよくよく理解している、と信じたいところである。
伊藤俊幸
元海将、金沢工業大学虎ノ門大学院教授、キヤノングローバル戦略研究所客員研究員。1958年生まれ。防衛大学校機械工学科卒業、筑波大学大学院地域研究科修了。潜水艦はやしお艦長、在米国防衛駐在官、第二潜水隊司令、海幕広報室長、海幕情報課長、情報本部情報官、海幕指揮通信情報部長、第二術科学校長、統合幕僚学校長を経て、海上自衛隊呉地方総監を最後に昨年8月退官。
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(2016年7月12日フォーサイトより転載)