1983年9月1日、私は南レバノンでフィジーの国連平和維持軍の基地で夜を過ごしていた。その時、短波ラジオのダイヤルをBBCに合わせた。初めの頃に流れたニュースは、レバノン内戦やベイルート空港(翌日の私の目的地だった)を守るアメリカ海軍の窮状ぶりとは、何の関係性もなかった。その代わり入ってきたのは、300名近くの乗客が乗った大韓航空機007便の墜落のニュースだった。ソ連は当初、責任を否定していた。しかし、撃墜した人物について嘘を言い続けるのが不可能であると分かった途端、態度を一変させ、航空機は民間航空機と見せかけたスパイ機という主張を始めた。
300名近くの乗客が乗ったマレーシア航空機が、ドネツク領域で墜落したというニュースの見出しと似ている。まるでヨギ・ベラ(元ニューヨークヤンキースの捕手)の不朽の名言ではないが、「これはまるでデジャヴの繰り返しだ」(It's like déjà vu all over again)。今回もまた、旅客機墜落のせいでガザ地区で繰り広げられている中東危機が霞んでしまった。全ての証拠は、この犯罪の実行者が、ロシア-ウクライナ間の国境に留まる親ロシア分離派かロシア軍であると示している。もちろん、ロシアはウクライナに責任があるとしているが。そしてもっと重要なのは、ロシアのリーダー――今回はウラジミール・プーチン――がまたしても、この無情で残忍な所業が長い目で見れば、国内における彼の影響力や、国外における立場を弱くすることになりそうだ、という点である。
今回と前回との間では違いがある。墜落現場にいた分離派が、ウクライナの役人が残骸や分離派にとって不利な証拠を捜索しようとするのを妨害したにも関わらず、事件の真実が、1983年の時よりもずっと早い時期に明らかになりそうだ。事件当初、分離派のソーシャルメディアの投稿には、航空機を撃ち落とすことができるミサイルを入手したと記されていた。そして事実、当初は、ウクライナ軍の輸送機を撃墜したと主張していた。しかしその後、マレーシア航空機のニュースが発表されると、この投稿はすぐに削除された。デジタル時代では、投稿が削除されても、なかったことにはできないのである。
しかし重要な点で似ているところもある。プーチンという存在だ。ソビエト体制で成長し、KGBの役人として仕えた彼が、どのような振る舞いをすれば賢明なのかを理解していないのである。プーチンの場合、何もしていないと主張しながら、分離派に武器を渡していた。このような行為が、決定的な失敗だと理解していない。ソビエト体制は、反共産的な運動の盛り上がりに圧力をかけるために、現地で代わりに鎮圧する人間を繰り返し用い、または調達することにより、思う通りにならない西欧諸国を永久に牽制できると信じていたのだ。1956年のハンガリー動乱、1968年のチェコスロバキアの「プラハの春」、1981年のポーランドの「連帯」非合法化...いずれの場合もそうだった。1989年までに、すべてが解体し始めた。
もうひとつ共通点がある。それはプーチンが初めて2000年に大統領を引き継いだ時に、すぐに明らかになった。2000年は、ロシアの潜水艦クルスクが爆発し、118名の乗組員を乗せたまま沈んでしまった年である。新しくロシア大統領になったプーチンは、外国からの支援の提供をすべて断り、救助活動が失敗続きだった5日間、休暇先に滞在していた。国民が、悲しみにくれる家族の光景にくぎ付けとなっている中、プーチンは家族と不名誉な対面をすることになった。彼の態度は紛れもなく、このような事件の苦しみを、いつも無視してきたロシア伝統のやり口に、どっぷりと浸かった指導者の態度そのもので、人質やその他の危機的な状況で、何度も繰り返し取られてきた態度そのものだった。
プーチンはクルスクの経験からどのような教訓を得ていたのだろうか? まず第一に、先代のエリツィン大統領から受け継いだ、比較的自由に報道するメディアを厳重に取り締まる必要があった。プーチンが厳しく取り締まった結果、ほとんどのロシアのメディは大人しく従って、プーチンの評価を押し上げた。特に、クリミアを掌握し、ウクライナの新政府を弱体化させる運動を組織的に行いながら、その一方で、あらゆる面でのロシアの関与を否定し、国際社会に盾突いた。
悲しいことだが、プーチンは、他に取るべき方法を知らないのだ。プーチンは、世界におけるロシアの威信を取り戻せると信じている。しかし実際、彼を突き動かす一番の刺激は恐怖である。プーチンは、崩壊したポスト共産圏に反対する民衆蜂起の産物とも言えるウクライナ新政府を容認するのが怖いのだ。ロシア国民が影響を受けて、同じような行動に走ることを恐れているのである。
表面上、プーチンには人気があるように見えるが、プーチンが古いルールに縛られた、昔のゲームを行っていると、少なくとも一部のロシア人は認めている。7月12日に死去したワレリア・ノボドヴォルスカヤは、昔からロシアの反体制派で積極的な発信を続けていた。彼女は、ますます多くの国民が理解し始めていることを総括していた。2010年、エストニアの聴衆への演説の中で、バルト諸国及びその他の地域の国民に対し、過去におけるソ連の行為について謝罪を行い、現在のロシアのリーダーシップを非難した。
以下は彼女の談話の要旨から、彼女の主張を引用した。
「これだけ国家資源があるにも関わらず、ロシアは依然として貧しく、教育が行き届いていない。ロシアは大きなコンプレックスに悩まされており、憎しみと復讐心を煽り立てる目的にしか、限られた経済資源を活用していないのである」
これまでの多くの反体制派と同様に、ノボドヴォルスカヤもまた、ロシアの強圧的な政治方針に対し、西側の反応が弱々しいと非難していた。ヨーロッパ諸国はこのような警告は無視するという態度を、あまりの多くの機会に取りすぎてきた。ヨーロッパ諸国の政府は、これまでロシアに対して厳しい制裁を科すのに気が進まなかったのだが、今、もっと強硬な立場を取るようにと、再び新たな圧力に晒されているようである。少なくとも、この危機を平和的に解決したいという、プーチンの言葉の虚しさが、誰の目にも明らかになるだろう。
独裁的な政権の正面玄関が、激しい真実の光に晒され始めると、普通、ある時点で崩壊するものである。崩壊が必ず、すぐにあるいはもっと早く起こるとは限らない。しかし世界とロシア人自身の双方が、ロシア政府の皇帝は裸の王様であると悟ることになるだろう。未来の歴史家は、マレーシア航空機17便の墜落を、この崩壊の転換点としてみなすことになりそうだ。
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