7月4日に公示される参院選に、元派遣労働者のシングルマザーが挑むことになった。渡辺照子さん(60)。3カ月更新の契約を17年間続けてきたが、突如、仕事を失った。
「ボロ雑巾のように捨てられた。こんな世の中を変えたい」。渡辺さんはそう意欲を語る。
7月3日夜、東京の参議院議員会館裏手にあるホールの壇上に、渡辺さんは立っていた。
「今日、この日を迎えられて、生きてきてよかったです」。涙ぐみながら演説をする姿に、満席の会場からは大きな拍手がわいた。
「熱い、熱いわ。この人たちに国会に行ってもらいましょう。ガチンコで喧嘩する人たちでしょう」。司会役の山本太郎参院議員がそう激励した。
この日は山本氏が代表を務める政治団体「れいわ新選組」が参院選の候補者を発表、渡辺さんもその一人となった。比例区から立候補するという。
渡辺さんは25歳の時、当時の夫が失踪、2人の子どもを抱えるシングルマザーとなった。職を転々としてたどり着いたのが、派遣労働という道だった。40歳になっていた。
3カ月ずつの更新で、いつ雇い止めに遭うかわからない不安定な日々。いくつも資格を取ったが正社員になれず、2017年12月、約17年間働いてきた派遣先の企業から突如、契約終了を告げられた。
派遣労働者の貧困は社会問題となり、渡辺さん自身、2015年に「宇山洋美」という仮名で参議院厚生労働委員会に出席、派遣労働の過酷な実態を訴えたことがある。
派遣労働者の貧困、今なお
非正規雇用をめぐっては、1999年の労働者派遣法の改正で派遣業種が原則自由化され、派遣労働者が増え始めた。
さらに小泉内閣時代の2003年、「構造改革」の名の下に派遣法が改正され、製造業への派遣が解禁されたことでさらに派遣労働者が増加した。
企業側の「雇い止め」や「派遣切り」が相次ぎ、ネットカフェで寝泊まりしながら日雇い派遣で働く若者も現れるなど、ワーキングプア(働く貧困層)が社会問題となった。
2008年12月31日から翌年1月5日にかけて、派遣切りされた人たちに年末年始の食事や寝泊まりする場所を提供する「年越し派遣村」が東京・日比谷公園に設けられるなど、支援の動きが広がった。
こうした動きは、この年起きた民主党による政権交代の原動力の1つになった。
民主党政権は2012年に関係法を改正した。その結果、有期雇用の契約が5年以上の条件を満たす派遣労働者は企業に対し、雇用期限のない契約に変更を申し出ることができるようになった。
この制度は2018年4月からスタートしたが、企業にとっては人件費の増加につながる可能性があり、その前に大量の雇い止めが起きる可能性が指摘されていた(2018年問題)。
渡辺さんの契約が終わった背景にも、こうした問題が関係している可能性がある。
今回の参院選でも、公明党は非正規労働者の賃金を引き上げることを主張。立憲民主党や共産党なども非正規労働者の正社員化を進めることを訴えるなど、非正規雇用をめぐる貧困は今なお、主要な政治課題となっている。
渡辺さんは演説をこう締めくくった。
「私のような悔しい時代を知るような人が一人でも少なくなるように、多くの人に生きてよかったと思えるような社会をみんなで作りましょう」
渡辺さんの演説(抜粋)
立候補なんて夢のまた夢だと思っていましたが、現実に叶えようと思います。
私、記者会見の後に、新聞記者の方から「どういう肩書きだ」と非常に詳しくというか、まあ、しつこくですね、聞かれたんですけど、私にはしかるべき団体や会社の肩書きなんてまったくございません。
元派遣労働者、そしてシングルマザー。この2つです。
私、25歳になるかならないかのときに、幼子2人をかかえて、夫が突然、どっかにいなくなってしまいまして。捜すこともできなくて。それでシングルマザーということになってしまいました。
女手一つで子ども育てるって一言で言いますけど、今の日本ではなかなか厳しいものがあります。
正社員になることはまずできません。なので必死になって働きました。で、やっとたどり着いた仕事が派遣だったんですね。
それで約17年働きました。正社員のように退職金もボーナスも手当ても、それに交通費すらもらえなかったんです。で、2年前に「あんたは派遣だからいつやめてもらってもいいんだけど、今やめて」って言われて突然クビを切られたわけです。
「派遣だから何年勤めても退職金は一銭もあげないよ」って言われました。
本当にボロ雑巾のように捨てられたんですよ。こんな世の中おかしいなと思います。子どもを育てるために一生懸命働いてきた私がなんでそんな扱い受けなきゃならないんですか、これを変えたいと思って、だから私は今、ここにいます。
本当にみなさんのパワーを感じます。私子ども2人抱えて、本当に生きていけないなあと思って、母子心中しようかなと思ったことも正直ありました。
でも今日、この日を迎えられて、生きてきてよかったです。そして私のような悔しい時代を知るような人が一人でも少なくなるように、多くの人に生きてよかったと思えるような社会をみんなで作りましょう。