テロから何を学ぶべきなのか/矛盾する『政治』と『経済』と『文化』

2015年にテロのような悲惨な事件が多発してしまったという現実を『文明』のレベルで解読し、新しい時代に生かしていく智慧とすることはできるはずだ。

▪改革を余儀なくされる近代国家(文明)

本年(2015年)も押し迫ってきて、そろそろ10大ニュースをまとめようとこの一年間を振り返ってみると、年初から年末に至るまでテロ事件ばかりが目立って気が塞いでくる。

しかも、テロは、年初にパリに始まり、年の終わりが近くなってそれより大きなテロがまたパリで起きるという、フランス(パリ)にとっては、大変な受難の一年だったわけだが、ヨーロッパ近代国家(文明)の象徴とも言えるフランス(パリ)が標的になった2015年という年は、ニューヨークがテロの標的になったのとはまた違った意味で(より根源的な文明の衝突を想起させられるという意味で)この年がターニングポイントとして、後世に語り継がれるような予感さえある。

もっとも、私個人的には、中長期的な世界の未来は必ずしも暗くないと考えている。テクノロジーの圧倒的な進化が、経済的な貧困を世界的な規模で緩和する可能性が高いとかなり真面目に考えている。もちろん、それですべての問題が解決するわけではなく、その時点ではまた新たな問題が出てくるだろうが、少なくともテロの温床に経済問題があるとすれば、少なくともその点では問題が緩和される可能性はあると見る。

しかしながら、文明の大きな転換期を迎えていると言っても過言ではない今は、新しい文明と、それに抗う旧来の価値観/既得権益/頑迷な保守主義者等との激しい争いは(少なくとも当面は)避けられないと考えられる。そういう意味では、ヨーロッパ諸国vsイスラム諸国、あるいは、キリスト教vsイスラム教、というような二項対立ではなく、数世紀の間世界を席巻したヨーロッパ近代文明とその枠組みで形作られた近代国家自体が変貌(あるいは改革)を余儀なくされている、という視点が不可欠だろう。

▪近代以前に回帰する世界

かつて政治学者のフランシス・フクヤマは著書『歴史の終わり』で、国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、以降は社会制度の発展は終結し、社会の平和と自由と安定は無期限に維持されると説いた。

民主主義は政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するような戦争やクーデター等の歴史的大事件はもはや生じなくなり、よって歴史は終わったと主張した。だが、昨今の世界情勢を公平に見れば、グローバルな普遍性に向かうよりむしろ、近代以前の何かに自己のアイデンティティーの拠り所を求めて回帰する活動のほうが活発というべきだろう。

ちょうど手元に届いた、思想家の東浩紀氏が編集する『ゲンロン1 現代日本の批評』にこの点を非常にわかりやすく表現した一文(発言)がある。美術評論家のボリス・グロイスへのインタビューから、少々長いが引用する。

世界中で完全に同じことが起こっていて、ロシアも例外ではないのです。いま、冷戦が生んだグローバリズムが崩壊しようとしています。冷戦という機械が機能を停止して、あらゆるものが機能しなくなったのです。たとえばトルコでは、ケマル・アタチュルクが禁止したオスマン語がふたたび導入されました。中国では誰もが孔子の話ばかりしています。イスラム国はサラフィー主義で、すべてが預言者時代のイスラムへ回帰している。いまのわたしの国、すなわち米国でさえ、ホモセクシュアルに反対し、宗教、家族といった価値観や働きを賞賛するティーパーティー運動が出現しています。これを、イデオロギー的な紋切り型からなる思いがけない組み合わせであると言うことはできません。ですから、すべての国がいま、イデオロギー的にかなり昔に逆戻りしてしまっている。

ロシアですら、スターリン時代ではなく二十世紀初頭に回帰しているし、ほかの国々は中世帰りしているとわたしは思います。だれもが起源に向かい、文化的アイデンティティを探しています。だれもが自分の文化的アイデンティティのいたってシンプルな公式を用いることで、自己を規定し、自分の場所を見つけようとしているのです。こうした自己規定はグローバルな競争空間でも起こっています。巨大な世界市場が生み出され、そこで競争が行われています。競争に勝つためには、「ヒューマン・キャピタル」と呼ばれるものを持たねばならない。これは家族、自国の古い文化、伝統といった基礎となるもののことです。

ゲンロン1 小特集 テロの時代の芸術 インタビュー アメリカの外ではスーパーマンしか理解されない

グローバルな競争に勝つためには、ストレスのかかる普通でない生活(毎日長時間働くこと等)をおくる必要があり、それは簡単なことではない。だが、民集の知恵や国の伝統などは、癒やしと同時に規律を与える効果を持っており、文化の持つ力はその点でも不可欠になっていると述べる。それをグロイスは『ヒューマン・キャピタル』と呼ぶ。

▪バラバラな三つ/政治と経済と文化

フクヤマやフクヤマの支持者は、テロの発生等は過渡期的な問題で、ある段階間までいけば、結局普遍性の点で民主主義と自由経済に勝るものはないことに気づき、再び世界は普遍に向けて収斂すると考えているように見える。だが、私は当時からその見解には隙があり、当面は、資本主義陣営の勝利の熱狂に紛れて表面化しにくいかもしれないが、どこかでその隙は亀裂となり、その亀裂が決定的に大きな問題となるのではないかとの疑念を払拭できないでいた。

というのも、80年代の中ごろに読んだ、 社会学者のダニエル・ベルの著書『資本主義の文化的矛盾』におけるベルの議論が非常に印象的で、長らく忘れることができなかったからだ。(興味深いことに、グロイスもダニエル・ベルに言及している。)ベルは、社会を制御しているシステムは、現代世界ではほとんどの場合、経済と政治と文化であり、それぞれ独自の中軸的な原則によって支配され、それぞれ相互に矛盾する要素を持っているから、その矛盾は過去150年にわたって、西欧社会の緊張と相克の原因となってきた、という。

『資本主義の文化的矛盾』については、著述家の松岡正剛氏も著書やブログで取り上げていて、大変わかりやすいので、参考に著書『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』より該当部分を引用する。

まとめると、ひとつには、世界はこのまま進むと「政治」「経済・技術」「文化」の三つがバラバラになっていくしかないと予想した。

 なぜなら政治は「公正」を表明していくしかなく、経済と技術は「効率」を追求するしかなく、文化は「自己実現」ないしは「自己満足」をえがくしかないからだというんです。モノサシがまったく別々になってしまったからですね。「公正」と「効率」はなかなか一緒になりえない。それならこの三つは、ぬきさしならないほど矛盾しあっていくしかありません。

(中略)

こうしてベルは、現在の社会が罹っている病気を七つにわたって、あげました。私がサマライズしたものです。読み上げますから、何かを思い浮かべてみてください。

1. 解決不可能の問題だけを問題にしている病気

2. 議会政治が行き詰まるから議会政治をするという病気

3. 公共暴力を取り締まれば私的暴力が増えていくという病気

4. 地域を平等化すると地域格差が大きくなる病気

5. 人種間と部族間の対立がおこっていく病気

6. 知識階級が知識から疎外されていくという病気

7. いったんうけた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気

▪再考が必要な文化の問題

すでに、1976年の時点でベルが指摘していた問題は、それから40年たって古びるどころかますます深刻になってきているように思えてならない。松岡氏ブログでベルは、文化は反合理と反知性に向かうという性質をもっているのではないかと分析したというが『公正』と『効率』と『反合理と反知性』では、矛盾しているどころか、正反対だ。

この当時も、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を世に出したころも(おそらく現代でも)『経済・技術』が何より重要とされ、『政治』はともかく『文化』が社会秩序に決定的な影響力を持ち、『経済』『政治』を維持するためにも『文化』が不可欠、という視点には支持を表明する人は多くはなかったと思うが、その想像力の欠如は隠れた問題をより複雑にし、解決を遠ざけてきたと言えるのではないか。

現代では、『公正』と『効率』は完全に解離していて、『効率』を最大限追求した結果、巨大な経済格差が生まれた。また、文化は『公正』とも『効率』とも関係ない。むしろ感情的で主観的でベルが指摘するように、時に反合理で反知性でさえある。それどころか、暗い『影』や『闇』や『悪』を包含しているほうが、深み(凄み)が増すことさえある。イスラム過激派の思想などまさに『闇』の領域にあるとしか考えられないが、強い一体感や熱狂や恍惚を生み出していることは確かだろう。

人間や人間社会から『影』『闇』『悪』を完全に払拭することはできないし、それが存在しないことにして抑圧すると、むしろエネルギーが凝集され、予想もしなかったようなところで出口を求めて爆発してしまいかねない。あるいは逆にその文化圏はエネルギーや生命力を喪失して滅んでしまいかねない。

分化(文明)は、その『影』『闇』『悪』等のネガティブの存在を認め、そのエネルギーを善導して有用な目的に昇華させ、社会を破壊させないような工夫の上に成り立っているといってもいい。『公正』や『効率』だけでは社会は維持できない、という思想/常識は、長く続く文明であれば、必ず引き継がれて来た重要な叡智の一つだったはずだ。

▪テロから得るべき教訓

戦後の日本は、幸か不幸か、『公正』と『効率』だけを過剰に追求することで社会が成り立っていた(かに見えた)。大学紛争も終わり、赤軍派のようなテロリストもいなくなった。オームのような過激な宗教による事件も乗り切った。いや、乗り切ったというより、臭いものに蓋をして、見て見ぬ振りをした。

そして、今では『公正』さえかなぐり捨てて『効率』一本になっている。そして、文学も、思想も、エネルギーが抜き取られて、ほとんど誰も真剣に向き合わなくなってしまった。日本の場合、エネルギーを抑圧したというより、文化のエネルギー自体が抜き取られてしまった感がある。その結果、経済はむしろ活力を失い、政治は機能せず、人は生きる意味を見いだせなくなってしまっている。

ボリス・グロイスの言うように、人的資本は経済に不可欠だが、『効率』の追求だけでは社会に人的資本は蓄積できないことに、もうそろそろ気がついてもいい頃ではないか。そして、このままでは世界で起きている現実の本質を把握するどころか、ますます、世界から遊離して、何が起きているかわからなくなってしまいかねない。

テロのような悲惨な事件が多発してしまった2015年は確かに非常に残念な一年になろうとしているが、この現実を『文明』のレベルで解読し、新しい時代に生かしていく智慧とすることはできるはずだし、是非、一人一人、自分の立場でそれを始めて行くべきだと思う。皆でそのような覚悟ができれば、2015年を好転のきっかけとなった年として、後世に残すこともできるはずだ。