「自己責任論」「イスラム国呼称問題」「日本の思考停止」後藤さん湯川さん事件が日本に与えた波紋

「自己責任論」「“イスラム国”呼称問題」そして日本のインテリジェンス。後藤さんと湯川さんの殺害事件は、日本の根本的な問題を浮かび上がらせた――
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People walk past a big screen reporting that a Japanese hostage was killed by the Islamic State in Tokyo on February 1, 2015. Japan said it was 'outraged' after the Islamic State group released a video purportedly showing the beheading of Japanese hostage Kenji Goto. AFP PHOTO / Toru YAMANAKA (Photo credit should read TORU YAMANAKA/AFP/Getty Images)
TORU YAMANAKA via Getty Images

ダーイシュ(イスラム国)による後藤健二さん、湯川遥菜さんの人質殺害事件から2カ月弱。後藤さんが拘束され、殺害が明らかになるまで、メディアではダーイシュのビデオメッセージを流し続け、テロリストの発信する情報にメディアも視聴者も釘付けになる状態が続いた。

テロにおける報道は、どのようにあるべきなのか。また、政府はテロリストに対してどのように対応すべきなのか。メディア論やインテリジェンスを研究し、『メディアとテロリズム』の著書もある、日本大学法学部教授の福田充さんに話を聞いた。

■報道のあり方は、平時に話し合うべき

――2月のダーイシュ(イスラム国)による邦人殺害事件に関して、メディアがテロリストの発信する情報に振り回された部分があったと思います。まず専門家として、率直な感想を伺えますか。

もうちょっと慎重であって良かったと思います。テロリストの意図に対して、メディアがどういう立場で報道するべきかということの、心構え、態度が普段からあるべきですが、残念ながら日本のメディアは新聞もテレビもそれをきちんと議論し、社会に共有していない。だから、出てきた情報に乗っかり、飛びついて、集団的過熱報道、メディアスクラムのような状態に陥る。イスラム国を支持しているわけではないのに、結果的に宣伝のために使われてしまうわけです。

もちろん、慎重なメディアもあったと思いますが、全体的にはそういう印象です。

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日本大学法学部教授 福田充さん

――報道のあり方はいつも事後に議論になりますね。

戦争も紛争もテロリズムも、政治的闘争です。

その扱いを、非常時になってから議論するのは危険だと思います。意見の正当性よりも、どちらの味方をしているのかに焦点が当たってしまう。非常時には、国家権力も国防という大義名分を理由に、議論をコントロールしようとします。平常時にこそ冷静に、メディアが主体になって、有事の際に政府とどうやって向き合って報道するのか議論しておくのが大事だと思います。

――メディア側がやるべきことは、平時における非常時のルール作り。日本はそれをどうやって構築すべきですか。たとえばBBCは、テロや戦争報道について事細かに規定していますね。

イギリスは一次大戦の頃から、「Dノーティス」という制度を作り、政府とメディアがあるべき論を話し合ってきた。二次大戦、戦後のIRAとの戦いやフォークランド戦争と連綿と積み上げられた蓄積があります。日本はやはり、敗戦で一度、大きな断絶があるので簡単にコピーするのは難しい。かといって、政府とメディアが絶えず拮抗するアメリカのような形でもないし、政府が完全に監視下に置く中国型でもない。戦後民主主義の中で、非常に立ち位置が曖昧です。

日本のテレビや新聞社も内部のガイドラインや規定はありますが、テロリズムとか戦争については踏み込んだものではなく、報道する上で自分たちの会社をどう守っていくかというコンプライアンス上の規定が多いんですね。テロリズムや戦争の問題をどう報道すべきか、という理念のようなものは入っていない。でも、そこが有事には大事なんじゃないか。平時にきちんと議論をしてガイドラインを作り、会社の方針として社外に出して欲しい。それはメディアに接する国民も知るべきものです。

事が起こる前に理念を構築しておいて、それに則って政府と闘うから、国民はメディアを支持する。それが曖昧でよくわからないまま報道されると、時には政府の肩を持っているように見え、時には数字を取るために政府を潰そうとしているように見え、国民も信頼が置けなくなる。誘拐報道ではきちんとした協定があるのだから、テロや戦争でも作ることは、決して不可能ではないと思います。

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日本では、連日イスラム国が配信する動画の一部が報道に使われた

■日本のインテリジェンスとテロ対策はどうだったのか

――日本人人質事件の政府の対応について伺います。日本の場合は2004年にもイラクで人質事件がありました。中東で過激派のテロに遭う、ということは今回が決して初めてではないですよね。

そうですね。同じことの繰り返しです。

あの時は「自衛隊を撤退させろ」という要求があって、小泉首相はそれに対しテロリズムには屈しないというメッセージを発した。自衛隊も撤退させず、人質も助けるという、至難の業だったと思います。でも裏ではちゃんと交渉のルートを持っていて、解放することができた。あれは奇跡的に上手くいった事例です。

では、テロリストにとってそれは失敗だったのか。そうではない。身代金も取れているはずだし、世界中に自分たちのメッセージを宣伝できた。そして、日本国内では自衛隊をイラクに派遣するのはそもそも間違いだ、と政権批判が出ました。そして、3人の日本人人質に対して、自己責任論が出てきた。こうなると、危険な場所に行った日本人が悪い、政権が悪いという国内の世論が割れて、混乱する。テロリズムの目的のひとつが達成されているのです。

今回の「イスラム国」の人質事件もまったく同じ構図です。何回同じことを繰り返せばいいのか。あれから10年経っていますが、その間に何も議論は進まなかった。私もこの問題に取り組んできた研究者として、責任と無力感を感じます。

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2004年の人質事件後に発生した、政府に自衛隊撤退を求めるデモ

■本音と建前を両立させる、それが大事

――日本が10年経っても進歩していない、と思われる具体的なポイントは?

建前と本音は違うということ、でしょう。

表向き、建前の部分をパブリック・ディプロマシーといいますが、これを世界にアピールすべきです。パブリック・ディプロマシーでは、日本国憲法や平和主義を世界に打ち出す。一方で、裏側ではテロ対策やインテリジェンスで守りを固めるというのは、国際的に見てもやって当然。両立すべきことなのに、今の安倍政権がやろうとしていることは逆なんです。

――というと?

表では自衛隊を出せるように法整備を進めて中韓を刺激しているのに、裏のインテリジェンスは何もできていない。秘密保護法や国家安全保障会議をやろうとしていますが、実質が伴っていない。インテリジェンスが構築されていないのに、実力部隊の自衛隊だけ出しても何の意味もないんです。

だけど、「裏側ではちゃんとインテリジェンスや危機管理をすべきだ」というと、メディアは短絡的に「監視社会だ」「戦争する気だ」「国民統制だ」「戦前の繰り返しだ」となってしまう。私はそれは思考停止だと思う。そういう極論に持ち込まれ、何もできなくなるというのが戦後70年の悲しい歴史です。

シビリアンコントロール(文民統制)で人々の命を守るために、リベラル的な「自由と人権」と、保守的な「安全と安心」という、2つの価値観のバランスを取りながら、国民とメディアで議論して、危機管理やインテリジェンスを構築する、そういうあり方が理想だと思います。国防を論じる、イコール、右派だ、タカ派だ、戦前だ、となるのは現実を見ない無責任な態度でしょう。

――「自由と人権」と「安全と安心」。本来、バランスを取るものなのに、オールオアナッシングのような議論になってしまう理由はなんでしょう? 太平洋戦争の後遺症ですか?

そう思います。戦前の反省から、戦後民主主義をやり直したというのは素晴らしいことです。それは疑いはありません。でも、アメリカの庇護を前提としていることが忘れられ、オールオアナッシングの話にしてしまい、観念的な平和絶対主義により思考が蝕まれているのは事実だと思います。だから、考えなければいけない「有事」や「危機管理」という言葉自体がタブーになってしまった。

この言葉が出た途端、「どこに危機があるんだ?」「誰が有事の仮想敵になるんだ」「そんなものを作ることが危険な考え方で戦争に繋がるんじゃないか」というヒステリックな批判によりつぶされる。このタブーが日本の危機管理を遅らせたのはまちがいないですし、災害対策や、原発事故対策にまで影響してきたと思います。

そうではなくて、やはり「自由・人権」と「安心・安全」がどこまで両立できるのか、ギリギリの議論をきちんとやるべきなんじゃないか。

平常時の議論そのものをタブーにしてしまうと何が起こるか。単に、政権が強い時に、議会の数の力で簡単に関連法案が通り、成立する間際になってまずいんじゃないか、と騒ぐだけになってしまう。特定秘密保護法がまさにそうだったし、90年代のPKO(国連平和維持活動)関連法もそう。通信傍受法国民保護法もそうでした。通ったあとは忘れてしまって、何もなかったかのように既成事実になる。これを繰り返せば、いつまでたっても議論が蓄積されず、民意が反映されないのです。「安全・安心」に関わる議論はタブーにせずやりましょう、ここが大事だと思います。

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東ティモールでPKO(国連平和維持活動)に従事する自衛隊(2004年)

■日本人人質事件。政府はどうすべきだったのか

――指摘されている、「インテリジェンスの欠如」。たとえば2月の人質殺害で、事後に国会の答弁で、政府が交渉ルートを持っていなかったと明らかにしましたね。

衝撃です。ただ、ルートがないっていうことは事前の情報でわかっていました。あの時点で、常岡浩介さんやハサン中田考さんが交渉できる能力を持ち、立候補もしたのに、政府は使わなかった。もし欧米のインテリジェンスだったら彼らを使うことを検討したと思います。

では、自衛隊を出して実力を使えば救助できるのか、という話も議論に出ますが、難しいでしょう。アメリカの特殊部隊でさえ助けることができないのですから。今回の事件で日本政府はなにもできない体制だったし、その通りなにもできなかった、そういうことだと思います。

アメリカもイギリスもテロリストに対しては交渉しない。お金も出さないと表向きは表明しています。だが裏で交渉もし、自力で助けに行く。そして殺されたら攻撃するということです。まさに「本音と建前」ですね。その論理で動くのがアメリカでありイギリスで、日本とはまったく違う。日本は建前だけを信じて、「テロリストと交渉しない」と言っているように見えますね。だからこそ、安倍首相が憲法改正で目指しているのはアメリカ、イギリスのような、人質を自力で救出できる体制なのでしょう。

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交渉役に名乗りを上げながら、結局渡航はならなかった、イスラム法学者のハサン中田考さん

■ソーシャルメディアはテロをどう変えたのか

――今のテロリストはインターネット、とりわけソーシャルメディアをうまく使いますね。ネット以前と以後のテロリズムは、大きく変わったのでしょうか。

全然違いますね。アルカイダの頃からそうですが、ホームページもあれば、TwitterやFacebookも使っている。「イスラム国」は非常に上手で、自分たちで動画を撮って編集して、アップすれば直接、世界中の人々が見てくれるということをわかっています。

そうやって自分たちのメッセージを拡散して、それによって世界中から若者をリクルートし、資金を集めることができるわけです。「イスラム国」はそれをわかっていて、イラクやシリアに実際の国を作ろうとするのと同時に、ネット上にバーチャルなイスラム過激派文化圏を作ろうとしている。ネットも闘争の場で、情報戦です。

それが今までのテロリズムとは違う、「イスラム国」がやろうとしている新しいテロリズムの形です。

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いくらアカウントを消されても次々と新しいアカウントに乗り換え、ソーシャルメディアを駆使するダーイシュ

――古いテロリズムとの違いは?

やっぱりインターネット以前の時代にはテレビと新聞が当然中心でしたから、たとえば、セオドア・カジンスキーがアメリカで起こしたユナボマー事件もワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズに「この論文を掲載しなかったら次の爆弾を送るぞ」と直接、新聞社を脅迫するわけです。

テロとは呼ばれませんが、日本ではグリコ・森永事件なんかも脅迫状が新聞社やテレビ局に送りつけられた例です。つまり、昔のテロリズムというのは、テレビ局や新聞社に脅迫状を送って報道してもらわないと自分たちのメッセージを社会に伝えられなかった。でも、今はインターネットがある。

もうひとつは、昔はテロリズムというのは要人暗殺テロが中心でした。権力者、政治家を殺すということで直接的に体制を変える。なぜ、それが無差別化していったかというと、昔は国民の命が軽かったんです。民主主義ではありませんでしたし、どんなに国民が死んでも社会は変わらなかった。

だから、政治家や権力者を殺す必要があったのですが、どんどん近代化して民主化した結果、国民主権の世の中になった。国民が主権者になったことで、テロリストから見ると、国民一人一人の『価値』が上がっていった。この象徴が、日本赤軍が1977年に起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で、当時の福田赳夫首相が言った、「人命は地球より重い」という言葉です。

民主主義的な社会こそ、国民が主権であり個人の命が重要ですから、だからこそ無差別テロの脅威や有効性が拡大した。民主化された国であればあるほど、一人、二人の人質のために、政治が揺らぐわけです。

テロリストはもちろん、それをわかっている。その意味で、「イスラム国」がやっていることはものすごく合理的。彼らからすれば、コストパフォーマンスがすごく良いわけです。

民主主義であるからこそ、相手がそこにつけこむ、こういう状況はますます強化されますから、その時、国民の命をどう考えるか。今の日本社会は、テロで1人が死んだらアウトです。一方で、年間約3万人が自殺で亡くなり、約1万人が交通事故で死んでいる。平和な日本で、戦争やテロリズムの被害と同等かそれ以上の人が死んでいます。人々が仕方ないと諦められる「受容可能なリスク(アクセプタブル・リスク)」と、ダメージ・コントロールという冷徹な危機管理、インテリジェンス活動が、今後日本にできるかどうかが重要です。

このレベルで考えられるのは、やはり戦争を経験しているかが大きいので、日本では難しい問題です。アメリカでも人命の価値は上がっている。だからこそ巨額を投じて戦争のための無人機やロボットの開発を進めるわけです。

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無人機の遠隔操作の訓練をするアメリカ兵

■「誰かをテロリストと呼ぶこと、それ自体が政治的行為」

――メディアとテロ、ということで言うと、今、「イスラム国」呼称問題で今国内がすごく揺れています。より多くの人に伝わる「イスラム国」を使うのか、他の呼称を使うのか。メディアはこの問題をどう考えるべきでしょうか?

僕は議論の結果であれば、どちらでも良いのではないか、という立場です。一方的に「イスラム」という言葉だけやめる、というのを議論せずにやってしまうと、結局、言葉狩りになるんですね。「イスラム」っていう言葉をなるべく使わないようにしようということが、ひょっとしたら新しいタブーや、差別を作る可能性だってある。「IS」にしても、「ISIL」、「ISIS」にしても結局省略しただけで、「イスラム国」という表現は入っているわけで、小手先の対応だと思います。

ただ、「テロリズム」という言葉も同じです。何がテロなのか。誰がテロリストなのか。

「イスラム国」だから何の疑問も持たず「テロリスト」と言われますが、考えてみてください。忠臣蔵の赤穂浪士はテロリストでしょうか。同じように、伊藤博文が殺害されたのは日本人にとってはテロリズムだけど、韓国や朝鮮半島の皆さんからしたら、伊藤を殺した安重根は民族解放運動の英雄、となるわけです。

なにがテロで、なにがそうでないのか。その判断が政治的な闘争なのです。

そこにメディアも、研究者も理性的であるべきです。なにかを「テロ」だと断じた時、それ自体が政治的な行為なのだと。私自身も、「テロ」や「テロリズム」、「テロリスト」という言葉は、研究者としての定義に基づいて使用しています。それらの定義や意味は、本や論文の中で説明しています。呼称問題も、動画を流すかどうかも、すべての問題はそこにつながると思います。

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■自己責任論とは、何だったのか

――「自己責任論」はどうでしょうか。2004年のイラクの人質事件の時と同様、今回も問題になりました。他の国では起こり得ることですか?

起こらないですね。まず起こらない。

「国民を守る」というのは国家にとって当たり前の義務ですから、「自己責任」というのは成立しない、と思うのが成熟した近代国家だと思います。

どんなに止められて、入った人がいたとしても、それは役割を背負って行っているわけです。フリージャーナリストであれば、フリーでなければ入れない地域だからこそで、報道してくれたおかげで私たちは情報を知ることができる。NPOの方であれば、その人たちがそこで活動してくれているからこそ「日本人の皆さんありがとう」と感謝してもらえる部分がある。私たちはそこにあぐらをかいているということを知らないといけない。

もうひとつは、逆を考えればわかります。仮に、成熟した近代国家でなければ、当然のように「行った奴が悪い」というのが当たり前になるので、「自己責任か否か」という議論にならないということです。

――そもそも議論にならない。

なりません。「それは死ぬよね」で終わりです。だから日本は、その両極端の中間くらいにあって、発展途上なのです。だからこそ、「自己責任」が議論になる。非常に残念な議論だな、というのが率直なところです。

――これに通じる話として、シリアに入国しようとしたカメラマンが旅券を返納するよう命じられた問題がありますね。国家に渡航の自由を制限する権限はあるのかどうか。

憲法と法律の問題です。明らかに国家の法律に違反した犯罪者であれば、渡航禁止や旅券押収はありえますが、今回のケースのような例は、先進国では珍しいと思います。

もちろん法的な運用でやろうと思えばできるでしょう。ただ、それをやっていいのかどうかを決めていくのが社会だし、政治です。シリアに行こうとした北大生と常岡さんに対して、私戦予備罪を使うという運用は、私はやりすぎだと思っています。

ただ、戦場など危険なところになるべく行かないようにする方法は、当然考えないといけない。そこが野放しになっていると、本当に自分探しで行ってしまう若者たちが大量に出てくる可能性があります。その人たちが死んで良い、というわけではありませんので。そこは議論しなければならないでしょう。

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シリアの渡航を計画し、外務省から旅券返納命令を受けたカメラマンの杉本祐一さん

――結局、「自由と人権」「安全と安心」。このバランスの話になりそうですね。

それも、時代によってブレるんです。

2001年、9.11の同時多発テロの後、アメリカは一気に「安全と安心」に傾き、そのためなら「自由と人権」を少し犠牲にしてもよい、という世論になりました。しかしその後、グアンタナモやアブグレイブの収容所で捕虜に対する人権問題が起き、イラク戦争では、国が大義名分にしていた「大量破壊兵器」の情報が嘘だったことで、一気にまた「自由と人権」の方に揺り戻しが起きた。それがオバマ政権誕生に繋がったのだろうと思います。今また、オバマ政権はシリア政策で行き詰まっている。来年の大統領選で共和党に支持が集まる可能性はあるわけです。これが、政治によるバランスというものだと思います。

日本では、明治維新後の近代化と富国強兵に対して自由民権運動が起こり、確立された大正デモクラシーと議会制民主主義は、世界大戦のもとで崩壊しました。GHQにより敷かれた戦後民主主義のレールの上で、タブー視されてきた危機管理や安全保障、テロ対策をどう構築すべきか、それが問われているのが現代です。

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憲法改正を最終的な目的とする安倍首相

■本当に今の状況は「軍靴の音が聞こえる」のか

――結局、国もメディアも、テロリズムに日常的に晒される時代に準備しなければならない、そう感じました。ただ安全保障体制を見直そうとする現政権に対しては、常に戦前の状況に合致させて「危ない、軍靴の音が聞こえる」と批判が集まりますね。

安倍政権が、今まではPKOや災害派遣など一部を除いては国外に出ることができなかった自衛隊を外に出し、他の国の軍隊と同じように、戦争ができる状態に準備を整えようとしていることは確かだと思います。

ただ、私は「歴史は繰り返さない」と考えています。

――というと?

戦前の大きな問題は、日本が国際協調主義から外れていった、国際的に孤立した、ということが決定的でした。

では、今の安倍政権が孤立への道を突き進んでいるのか、というと、違う。国際的に孤立しないために集団的自衛権を行使可能にしなければ、という発想で、世界の主流となっているアメリカ主導のグローバリズムと一体化しようとしているんです。

現在の安倍政権がやろうとしていることは、集団的自衛権も、TPPも、原発も、全てを日本の基準で考えるのではなくて、グローバルな基準の中に日本を合わせていこうとしている。そこは戦前と異なるというのが私の認識です。

「戦争ができる国・できない国」みたいな簡単な問題ではない。これは国家の大戦略の問題です。

今、私たちに突きつけられている選択肢。ひとつは、アメリカ主導のグローバリズムに乗り、政権が目指しているように憲法を改正し、国際協調して積極的平和主義の道に進むということ。

そして二つ目は、グローバリズムにノーと言い、集団的自衛権も積極的平和主義も捨て、「名誉ある孤立」を選ぶということ。日米安全保障条約もやめ、スイスのような永世中立を視野に入れることもあり得ます。スイスのように徹底するならば徴兵制を敷いて、国民皆兵にしなければならない、そういう痛みも伴います。

もし三つ目の選択肢があるとすれば、アメリカ主導のグローバリズムではない、オルタナティブなグローバルな連帯に、日本が積極的に参加していくことです。これは極めて難しい第三の道。

まさに今、安倍政権は戦後レジームを脱却しようとして、痛みを伴う危険な賭けに出ているわけです。これまでのように、アメリカの核の傘の下で安穏として商売だけに専念してればよい、「エコノミック・アニマル」でいてはいけない事態になりました。

この過程で、これからさらにテロリズムの危機に日本人は晒されていくでしょう。そして中国、ロシアにどう対応するかなど、テロリズム問題を超えたもっと大きい、安全保障の問題が発生することを考えなければいけない。

明治維新も太平洋戦争も、あれだけ国民の血が流れて焼け野原になってレジームが変わったわけですから。それを、血を流すことなくやるということは、どれくらい大変で困難なことなのか。大局的に考えて議論する場が必要です。

その上で、どの道を選ぶか、という究極の選択をしなければならない。歴史的に新しい日本の立ち位置を示す、大事な分岐点に私たちがいるのは確かだと思います。

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