「権威」を疑うと見えてくる「聖徳太子」「天武天皇」本当の関係

少なくともこれだけは言えるだろう。『日本書紀』という権威を、あてにしてはならないということだ。権力者の描いた歴史書を信頼していては、いつまでたっても本当の歴史は解明できないのではないだろうか。
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 権力者が嘘をつくことは歴史の常としても、権威ある者が人を騙すことは、裏切りであり、信頼を損ね、権威そのものが地に墜ちかねない。もちろん、朝日新聞の「慰安婦強制連行をめぐる捏造記事」の話だ。

 新聞は2紙以上読め、が鉄則だが、それはなぜかというと、それぞれの新聞が色眼鏡をかけ、情報を分析しているからであって、読者は新聞記事を多角的に見定めなければならない。権威のある新聞だからといって記事を鵜呑みにすることはできない。しかも捏造記事が載っていたとなると、読者は何を信じてよいのか分からなくなる。

天武「生年」の謎

 古代史の謎解きにも、どこか似たところがある。権威を信頼しきっていては、真相を見誤る。ひとつの情報だけに頼っていては、真実を見極めることができないのである。

 ヤマト建国から7世紀に至る歴史を記した『日本書紀』は、西暦720年に編纂された。朝廷の正式見解だから「正史」であり、もっとも信頼できる古代文書とされている。

『日本書紀』と異なる伝承や記事が存在する場合、『日本書紀』の主張を信じることが、鉄則となっている。『日本書紀』よりもあとから書かれた稗史(はいし、民間の歴史書)を信用するわけにはいかないというのだ。事件の現場に立ち会った役人の証言と後の時代の民間人のうわさ話では、比較するのもおこがましいということだろう。しかし、現場に居合わせた役人が事件の関係者や当事者だったとすれば、話は別だ。役人は嘘をつき、それを目撃した「民間人」は真相を語り継いだかもしれない。

 具体例がある。天武天皇の年齢をめぐる問題だ。

 15世紀前半に編纂が始まった『本朝皇胤紹運録』(皇族の系譜)によれば、天武天皇は推古31年(623)に生まれ、朱鳥元年(686)に亡くなり、65歳だったとある。しかしこれだと計算が合わず、その上、『日本書紀』で推古34年生まれとされている兄・天智天皇よりも年上になってしまう。

 もちろん史学者たちは、この記事を無視する。「65歳は56歳の誤り」とする説もあるほどだ。

 けれども、中世文書のほとんどが、天智よりも天武が年上としているのはなぜだろう。『日本書紀』の主張に対し、声を合わせて反論しているとしか思えない。

「本当の父」は蘇我氏系?

『日本書紀』は、天武天皇の生年と年齢を記録していないが、もし仮に中世文書の主張が正しく、『日本書紀』が天智と天武の兄弟関係を逆に記しているのならば、『日本書紀』編者に何か「動機」があったはずだ。

 こういう考えがある。天智と天武の母・皇極天皇(重祚して斉明天皇)は、舒明天皇に嫁ぎ天智らを生む前に蘇我系の高向王(たかむくのおおきみ)と結ばれ、漢皇子(あやのみこ)を生んでいたが、漢皇子こそ、天武の本当の姿ではないかというものだ。すなわち、天武は蘇我系皇族だったというのだ。

『日本書紀』は、古代史の根幹を揺るがしかねない巨大な隠蔽工作を行ったのではあるまいか......。ここで注目されるのは、聖徳太子である。

『日本書紀』は「聖徳太子は推古29年(621)に亡くなった」と記録するが、百科事典を調べれば分かるように、一般にはその翌年に死んだと考えられている。それはなぜかといえば、法隆寺や中宮寺に残される金石文に「聖徳太子は推古30年(622)に亡くなった」と刻まれているからだ。なぜここだけ、通説は『日本書紀』の記事を採らなかったかというと、金石文は聖徳太子の死後すぐに作られたと信じられているためだ。

 しかし、どうにも不可解だ。なぜ、『日本書紀』は、皇室の聖者としてもてはやされた古代の有名人の死亡年数を誤って記録したのだろう。信じがたいことではあるまいか。恣意的な隠蔽工作の匂いを感じる。

 聖徳太子の死亡年と中世文書の示す天武の生年を重ねてみると、興味深い事実に気付かされる。それは、もし『日本書紀』の証言通りなら、天武は聖徳太子の死の2年後に生まれたことになるが、金石文の証言を採用すれば、翌年ということになる。しかも中世文書は天武天皇の年齢を間違えて計算していることがあるが、なぜか誕生の年は推古31年だと言い張っている。じつは先述した『本朝皇胤紹運録』もそうなのだ。ここに、中世文書の「本当にいいたかったこと」が、隠されているように思えてならない。

 そこで筆者は、意地の悪い推理を働かせる。

「『日本書紀』は聖徳太子と天武の関係を抹殺したくて、聖徳太子の死を1年繰り上げ、さらに、天武の生年を隠匿したのではなかったか」

 つまり、天武が聖徳太子の子供だったと推定するのだ。とすると、聖徳太子とは高向王だったことになる。父の死の翌年に子が生まれていたなら、計算上親子関係を否定できなくなる......。だからこそ『日本書紀』は天武の生年を抹殺したのではなかったか。

 天武を聖徳太子の子と考えると、古代史の多くの謎が解けてくる。天武は反蘇我派の天智と対立していたし、壬申の乱(672)で天武は窮地に立たされたが、蘇我氏の後押しを受けて勝利している。天武を蘇我系皇族とみなせば、これらの謎が解けてくる。兄弟で敵対する別々の派閥に支えられていた意味がはっきりする。

 もちろん、この考えはまだ仮説だが、少なくともこれだけは言えるだろう。『日本書紀』という権威を、あてにしてはならないということだ。権力者の描いた歴史書を信頼していては、いつまでたっても本当の歴史は解明できないのではないだろうか。

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明日香村酒船石遺跡の亀形石。天武と天智の秘密を知る斉明天皇の祭祀の場とされている。

(筆者撮影)

関裕二

1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。

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(2014年10月8日フォーサイトより転載)