「友達いない」「仕事復帰したい」転勤妻の悩みを受け止める全国組織TKT48とは

働く女性が同居継続のために「転勤妻」になると、多くは転職活動か、専業主婦かの決断を迫られる。数年に一度転勤する「転勤族」ともなると、悩みはさらに深まる。
|
Open Image Modal
Yuriko Izutani

同居する夫が転勤になった。転勤先について来たは良いものの、知らない土地で友達もいないし、やることがない。本当は仕事も続けたかったけど――。そんな、モヤモヤを抱える女性たちのために活動している全国組織がある。その名も「転勤族協会TKT(転勤妻)48」。メンバーは2016年6月現在、900人を超える大組織だ。

こうした悩みは、決して新しいものではない。「TKT48」代表の奥田美和さん(41)が転勤妻支援活動を始めたのは1999年。以来、転居先での友達作りを主な活動としてきたが、加えて近年では転勤妻から「キャリア継続」の悩みを聞く機会が増え、支援活動も活発化させているという。

「転勤者の配偶者」のキャリア継続をめぐっては、2015年に、全国の地方銀行が連携し、転居先でも別の地銀で働ける仕組みを構築した「輝く女性の活躍を加速する地銀頭取の会」などの先駆的な取り組みが話題になった。しかし、こうした制度はまだごく一部に過ぎない。男性側が仕事を辞める例もまれで、結局、同居継続のために働く女性が「転勤妻」になると、多くは転職活動か、専業主婦かの決断を迫られる。ブランクが長くなると仕事復帰も難しくなり、数年に一度転勤する「転勤族」ともなると、悩みはさらに深まる。

自身も転勤妻として、悩みながら転勤妻の支援を続けてきた代表の奥田さん、2015年からのメンバーで今は「不動産部」で企業とのプロジェクトを率いる浅井由夏さん(35)に、「転勤妻」の気持ちや、どんな活動をしているのか伺った。

■孤独を癒すランチ会が全国に広がった

Open Image Modal

海外を含む6回もの夫の転勤に同行している奥田さんは「ベテラン転勤妻」として、浅井さんのような1000人近い悩める女性たちの支援を17年間続けて来た。活動を始めたのは1999年、新潟県長岡市に転勤妻として初めて引っ越した頃だった。神奈川県でシステムエンジニアとして働いていた奥田さんは、「手に職もあるし」と仕事を続けるつもりで転勤に同行したものの、いざ探そうとすると地方では思った以上に難しいことがわかった。1カ月もすると「今日も夫以外と一言も話さなかった」と虚しさに襲われたという。

当時、SNSはまだなかった。ウェブサイトの「掲示板」で集った仲間たちからコミュニティが生まれ、以来、その活動は各種SNSなども利用して全国へ広がっていくことになる。奥田さん自身も長岡市ではPCインストラクターに就くことができた。

■仕事復帰したい、でも...

それ以来、奥田さんは海外駐在などでのブランクも挟みながら、転勤ごとにその土地で仕事を見つけ、転勤妻のコミュニティを作って活動してきた。

5度目の転勤で千葉県に住んでいた2010年ごろのことだ。当時は海外駐在から帰国したばかりでブランクが長く、ひとまず不慣れな大学教授の秘書として仕事復帰していた。就職はできたが「あんなに大好きだったITの仕事がもうできない」と悲しみに襲われ、キャリアカウンセラーに相談した。だが、かけられた言葉は「そんなに良い仕事に就いているのになんで?」。確かに、一般論として教授秘書は「良い仕事」かもしれない。しかし、「私にとってのITの仕事は、私にしか分からないやりがいや面白さがあった。仕事ができればなんでも良いというわけではないんです」。

同じ頃、転勤妻の仲間たちからも「仕事復帰したい、でも...」というモヤモヤした悩みを聞く機会が増えたという。ある転勤妻は、元は百貨店の化粧品売り場で美容部員として8年間勤務し、店長まで務めた経験の持ち主だったが、転勤後は仕事をしばらくしていなかった。「専業主婦になって見た目も変わってしまったし、もう一生美容の仕事なんてできないだろうな」と嘆く女性に、奥田さんはメンバーを対象に無料のメイク教室を開くことを提案した。最初は「無理無理」と渋っていた女性だったが、強く勧めると教室に向けて資料作りをし、無事教室を成功させた。その後、女性はエステサロンへの就職を経て今はフリーランスのメイク講師として独立したという。

「仕事探しはしんどいけれど、そこで一歩踏み出せるかどうかで、キャリアが継続できるかどうかが決まる。メイク教室の経験が仲間作りだけでなく、キャリア支援もできそうだと思った最初の経験でした」。

■転勤で、転職「私は何をやっているんだろう」

一方、浅井さんは、愛知県長久手市出身。大学卒業後、地元の不動産会社で企画職に就いていた。就職して9年目、当時交際中だった夫の転勤辞令を機に退職。長崎市に引っ越すことになった。「新婚生活を楽しもう」とポジティブに捉えたが、引っ越しから約1週間も経つと心細さに襲われた。「夜中に無性に寂しくなって、急に泣いて『私の気持ちなんて分からないんだ』と、夫に当たったこともありました」

夫も多忙で帰宅が午後9時以降になることも多かった。「自分の収入がないことがストレスで」出版関係の会社でのアルバイトに応募したものの、「数年後にはまた転勤する」ことなどを理由に、問い合わせ段階で断られたこともあった。それでも転職活動を続け、市役所での事務の仕事などもした。一生懸命取り組み、楽しさも感じた一方で、かつての不動産会社での仕事への愛着がこみ上げてきた。お皿を洗う仕事をしている時に、ふと「私は何をやっているんだろう。楽しかった仕事していた自分が懐かしい」という気分にとらわれることもあったという。

そんな浅井さんを救ったのも、SNSを通じて出会った、同じ転勤妻たちとの「オフ会」だったという。年代もバラバラなグループだったが、観光地を訪れたり、フラダンスやパン作りを習ったりと、次第に生活が充実するようになっていった。長崎生活の3年目には長女にも恵まれ、次第に長崎の街が好きになっていった。

しかし、2015年に再び夫が転勤に。今度は10カ月の長女を伴って、東京都内へと引っ越すことになった。保育園に預けることも難しく、託児所付きの職場を中心に検討したが、まだフルタイムの仕事は見つかっていない。長崎と同じように転勤妻のグループがないかと探したところで「TKT48」にたどり着き、参加するようになったという。

2016年には、京王線沿線に転居してきた人々を集めた「KEIO隊」が結成され浅井さんはその隊長になった。ウェルカムパーティーなどを主催して、コミュニティ作りや、地域を知るイベントを定期的に開催している。

■自治体や企業とのプロジェクトで「一歩踏み出す」きっかけに

Open Image Modal

ミサワホームとの打ち合わせ風景(転勤族協会TKT48提供)

TKT48ではこれまで、デザイナー経験のあるメンバーらと、水戸市の「よそ者」目線のお土産ガイドや、群馬県の子育て中の転入者向けパンフレットを共同製作するなどのプロジェクトを手がけてきた。

そして2016年には、武蔵村山市内で大規模な住宅開発を手がけるハウスメーカー大手「ミサワホーム」からTKT48に共同プロジェクトへの参加依頼があった。引っ越しや単身赴任などを何度も経験する「転勤族ファミリーが暮らしやすい住宅」をテーマに、内装や間取り、収納などについてアドバイスしてほしいというものだ。

浅井さんは、経験者として、他に4人のメンバーとともにこの「てんつまホーム」プロジェクトに加わった。まず6月には、更地の敷地を見学に訪れ、現場で様々な案を出すことから始まった。着工する10月まで、ミサワホーム側とプランについてやり取りするという。「久しぶりに、昔働いていた時のワクワク感が蘇ってきた」と浅井さんは話す。

このプロジェクトはまだ始動したばかりで、どんな成果を生み出すかは分からない。しかし、TKT48のマネジメントも糧にして様々な仕事を続けてきた奥田さんは、プロジェクトに大きな可能性を感じているという。

「たとえランチ会であっても、チームをまとめたらマネジメント力になり、企業とコラボレーションしたら提案力も身につく。モヤモヤを吐き出し、励ましあいながら一歩を踏み出す場所として、TKT48を育てていきたいと思っています」

関連記事