こんにちは!縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。
はてなブログ内を巡回していたら、面白いブログを見つけました。
「ゆるふわ√3」
このブログ内にある才能に関する記事が、非常に興味深かったので紹介します。
一番上の記事から連載的な感じで「才能」についての考えをまとめられています。管理人のゆるふわ√3(id:yuki3mori)さんの鋭い指摘にハッとさせられました。
これらの記事を読んでいて、ふと「選ばれる側」の理不尽さを考えました。フリーランスや自営業でない限り、基本的に誰かに選ばれて仕事をしている人が殆どですよね。かくいう自分も、たまたま会社に選んでもらえたからここに居るわけです。
でもこの選ばれる行程って、とても不条理で理不尽なことだと思うんです。
1.完全需要ベースという理不尽
前回の記事でオーディションの事を書きました。オーディションに合格して登録アーティストになれば、ショーに出演する人材バンクに登録される仕組みです。
仮にオーディションで合格し、ここで登録されたとしましょう。でもショーに呼ばれるかどうかは、完全に需要ベースなんです。
たとえば自分の話ですと、ラヌーバに出演するまでに2回の打診がありました。どちらも最終選考まで残ったけど選ばれず、三度目の正直でここの契約が貰えました。選考で落とされた理由は条件とのミスマッチ。1つ目は単純に募集していた枠が無くなり、2つ目はイメージ的に女性が適していたんです。
そして最後のラヌーバは「男性2人」「縄跳び」という条件が偶然にも重なり、出演が叶いました。では最初の選考に落とされた2つと、ラヌーバに決まった時の自分で果たして何が変わったか。
きっと自分は何も変わっていません。変わったのはシルク側の需要だけです。
2.選ばれるかどうかは、殆ど大差なし
たとえば最終候補に上がった「Aさん」「Bさん」「Cさん」が居たとしましょう。結局Bさんが選ばれ、ショーに出演します。では、選ばれなかった「Aさん」と「Cさん」は才能がなかったのでしょうか。いいえ、それは単に条件が合わなかっただけ。持っている技術や才能に殆ど差はないと思うんです。
でも結果的に「選ばれる人」と「選ばれない人」が生まれてしまう。場合によっては「性別」や「居住地」で明暗が分かれることだってあります。これって選ばれる側からしたら、ひどく不条理で理不尽だと思いませんか?
3.選ばれる側はどうするか
自分はラヌーバで夢を追いかけてきました。しかしある時をキッカケに、その夢を諦めることにしました。
当時は情熱を持って突き進めば光が見えると信じていました。しかし今のポジションは、選ばれる側として条件が悪すぎる。ようやく現実と夢との折り合いを付けられたのは、つい最近です。
要はプロというのは、「選ばれる」というより「残る」ものなのじゃないかしら、と。割と世の中には天才と呼ばれる人は溢れていて、でもプロとして残るのはほんの一握り、その分野での才能と「継続という稀有な才能」を持ち合わせる人、みたいな。それは運に依るのかもしれないし、絶対諦めないという執着に依るのかもしれない。
もしかすると選ばれる側が出来るのは「残る」ことだけなのかもしれません。ゆるふわ√3さんは「継続という稀有な才能」とも表現されています。ネガティブに聞こえますが、相手の需要を積極的に待つことが求められるのではないでしょうか。
自分は今も「キャラクター」「クラウン」になる夢を捨てていません。広くアンテナを巡らしてチャンスを伺っています。「残る」とは、積極的に居場所との関係性を見つけ続けることだと思います。
(2015年6月24日「なわとび1本で何でもできるのだ」より転載)