木村拓哉と二宮和也主演の映画、『検察側の罪人』が公開中だ。45歳の木村は、同作で"失敗知らず"のエリート検事・最上毅を演じた。
そのキャラクターは、2001年に大ヒットしたドラマ『HERO』の久利生公平検事とは"真逆"だった。最上は己の正義を盾に「物語」を作り、暴走していく。映画ではその痛々しさもありありと描かれた。
平成を代表するスター、木村拓哉がこの役柄を見事に演じきったことには、大きな意味がある。久利生公平と最上毅。木村が演じたこの2人を比べながら、その理由を解説する。
「木村拓哉と検事」と言えば、2001年にスタートしたドラマ『HERO』の久利生公平のイメージが大きい。常識にとらわれず、正義に従って真っ直ぐに生きる久利生のキャラは、多くの視聴者から愛された。
検事は通常、捜査の権限があっても、デスクワークがほとんどだという。『HERO』はそんな検事のイメージを覆し、自ら現場に出向き、警察のように捜査をする若手検事の姿を描いた。
また、久利生が高校中退で、青森の地検から東京地検城西支部にやってきたこと。ファッションも、スーツではなく「Tシャツにジーンズにダウンジャケット」というラフな出で立ちだったこと。これも、お堅い検事のイメージを打ち破った。
「検事=いじめる人、弁護士=守る人。これがあたしたちのイメージだもん」
『HERO』の中には、同僚の検事が言うこんなセリフがあるが、久利生は決して「いじめる」人ではなかった。その姿が視聴者の共感を生んだのだろう。
検事という"怖そう"な仕事をしている人たちの中にも、血の通った久利生のような人がいる。その人間的魅力を描くだけで、当時は十分に新鮮であった。
そんな『HERO』が誕生してから17年。木村拓哉は『検察側の罪人』で、再び検事を演じた。
それは、木村拓哉以外であっても、生半可な気持ちでできることではないだろう。前作のイメージを払拭し、まったく別の検事像を見せなくてはいけないからだ。そしてそれは間違いなく成功したと言える。45歳の、そして芸能界で常にスターであり続けた木村拓哉の新境地を見せてくれた。
『HERO』の久利生公平検事と『検察側の罪人』の最上毅検事は、真逆であった。
最上は凶悪事件を担当する刑事部の本部係の人間で、初動捜査からかかわることが当たり前である。そして普段から高級感の漂うスーツを着ている。登場シーンからして、新人検事に対して威圧感たっぷりに検事としての正義感を問う。
久利生は、通販番組に夢中で、テレビショッピングで何かを見つけては、執務室に商品を送ってもらっていた。対して最上は、ガベルという木でできた小槌をコレクションしている。海外の法廷もので裁判官が持っているのを見た人もいるのではないだろうか。
このガベルを集めるという行為に、最上のフェティシズム(物神崇拝)も見えて、何か不穏な感覚をこちらに感じさせた。
ガベルは正義の象徴でもある。それをコレクションするということは、正義を手中にしたいという欲望にも思えるし、もっと強い執着のようなものも見える気がするのだ。
こうした最上の姿は、久利生とは極めて対照的だ。『HERO』の時に見せた親しみやすさはすっかり消え、『検察側の罪人』では、むしろ木村は「権力」を行使することに対して疑いを持たない人物になっていた。
昨今、検事が出てくるフィクションには、『99.9 -刑事専門弁護士-』(TBS系)や、『アンナチュラル』(TBS系)などがあった。
特徴的なのは、弁護士や法医学者が主人公のこれらの話では、法律がいかに守られているか、三権分立は成り立っているのか、というのも重要なテーマだったことだ。
検事という職業は、まさに「検事=いじめる人」にはなっていないか?こう疑う視線が描かれるようになったのだ。
『99.9』では、検事だけではなく、裁判官にもその視線は向けられた。『アンナチュラル』には、「白いものも黒くする』という異名をとる検事が登場した。
自分の「物語」で事件を見たてて、その「物語」に従って捜査を進めてしまう。白いものも黒くしてしまう。これがいかに暴力的であるかを描くことは、昨今のフィクションを見ていると、重要なことであると感じる。
しかも、刑事事件の有罪率が99.9%と言われる日本では、「白いものを黒く」することが、もしかして必然なのではないか?フィクション作品が、このような疑問と真正面に向き合うようになったとも言える。そして、『検察側の罪人』もその流れに沿っている。
2018年のフィクションは、久利生のように検事の身近なキャラクターとまっすぐな正義感を描けば新鮮に見える時代を過ぎ、現実社会とリンクした形で、正義とは、三権分立とは何かを問うくらいでないと、人々の心をとらえることはできないのかもしれない。
『HERO』の久利生は、不正を許さず、社会的弱者に寄り添う優しさがあった。一方で、『検察側の罪人』の最上は、"正義"という盾を武器に己を転落させていく。この違いも特筆すべき点だ。
最上は、確かに「正義感」によって動く人物だ。
しかし、自らの正義感と執念から、過去に時効を迎えた未解決事件の重要参考人を裁こうと"暴走"していく。自分の正義を貫くために、ありもしない「物語」を作ってしまうのだ。
駆け出しの検事・沖野(二宮和也)は、初めは最上を尊敬していたが、次第に疑いを持つようになっていく。
自分の信念のためなら、「物語」をゆがめてもいい。この境地に彼を至らせたのは何なのだろうか。もちろん、検事を始めた頃には、そんな自分になりたいとは考えていなかったはずだ。
しかし、検事として「力」を手中にした感覚の中で毎日を過ごすうちに、ある部分では正義感に従って生きているのに、ある部分では、その自分だけの正義に溺れるようにもなったのではないか。
日本では使われることのない、つまり効力をなさないガベルを執務室にいくつも置いている最上を見て、妙にぞくっとする感覚を持った。
それは、ガベルという法の象徴を集めることと、自分こそが法の番人であると信じて疑わない万能感が重なって見えたからだったのだと、映画を見終わってから理解できた。
『検察側の罪人』の公開と同じ時期に、NHKのスペシャルドラマとして『満願』という作品が三夜連続で放送された。
第一夜の西島秀俊主演の「万灯」も、40代後半の男性、しかも失敗の経験のない男性の慢心による、ある種の転落が描かれていた。
西島演じる商社マンの伊丹は、資源開発の仕事を任され、活路を海外に求めて旅立つ。天然ガスの権利を得る交渉をするためだ。しかし、現地の人々は、この資源を海外に手渡すことを快く思っていない。そのうち、フランスの企業もガス開発に着手しようとしていることもわかる。
結局、伊丹も、「会社のために動く」ということが自分の使命であり、自分のアイデンティティが会社と同化していく中で慢心する。そして、大きな波に飲み込まれることとなる。部下に「自信過剰は寿命を縮めるぞ」とアドバイスしていたにも関わらずだ。
最上と伊丹は、組織の中で懸命に働く中で実績を出し、地位を得、自分の仕事に誇りを持ちすぎているという点が共通している。しかし、2人ともそのことで、無意識のうちに自分の信念に基づく行動は正しいと過信しすぎている。
その結果、木村拓哉演じる最上も、西島秀俊演じる伊丹も、本当に偶然ではあるが、己の信じる道が最も正しいという慢心から、夜中にシャベルを持ち、山奥の地面を掘り起こすこととなる。
ネタバレを避けるため、詳しくは書かないが、"己の信念"というものが、人を一番惑わせるものなのかもしれないと思わせるのである。
こうした二つの物語がリンクしているということは、キャリアを積み、この不況の世の中で負け知らずの仕事人間の男性は、自分を過信しやすいばかりに、とんでもない運命に巻き込まれることがあるということなのだろうか。
これを、「男らしさの呪縛」というと、安易すぎるように思う。しかし、仕事の上での業績により、とんでもない「力」を得たと勘違いした人間の呪縛の物語と考えると納得がいく。
『満願』の伊丹は、これが因果応報か...と思わせる結末を迎えるが、『検察側の罪人』の最上検事は、ある「新しき世界」の入り口に立つ。
それは決して観客をスッキリとはさせないものだった。しかし、『HERO』を観た後とはまったく異なる性質の問いかけを残してくれた。
2001年、Tシャツにジーンズ姿の久利生公平を颯爽と演じた木村拓哉は、2018年に地位も名誉もあるスーツ姿の最上毅を冷徹に演じきった。
裁かれる人の立場に立って職務を全うした久利生公平。内なる正義を守り抜こうとするばかりに人生の歯車を狂わせた最上毅。
同じ検事でも、その正義と力のありようは大きく違う。
何が真実かわからないことの多い平成の終わりに、最上が誕生したのは必然だったのかもしれない。
(執筆:西森路代、編集:生田綾、笹川かおり)
『検察側の罪人』
8月24日(金)全国東宝系にて大ヒット公開中
監督・脚本:原田眞人
原作:雫井脩介「検察側の罪人」(文春文庫刊)
キャスト:木村拓哉 二宮和也
吉高由里子 平岳大 大倉孝二 八嶋智人 音尾琢真 大場泰正
谷田歩 酒向芳 矢島健一 キムラ緑子 芦名星 山崎紘菜 ・ 松重豊 / 山﨑努