新たな経験の現れ

人が構造的暴力に巻き込まれている時に、そこから離脱することは容易ではない。

福島県広野町で、震災後の地域医療を担っていた高野病院の高野英男院長が昨年末に急逝された。

その後に広野町から南相馬市に支援依頼があり、広野町に南相馬市立総合病院が支援を行う形で「高野病院を支援する会」が成立し、広野町長が代表を務められることとなった。現在では医療関係者などのさまざまな立場の人々が、ボランティアでこの活動に参加している。

その後の経緯の中で、この「高野病院を支援する会」と福島県の間で、非常に敵対的なコミュニケーションが交わされたことが公開されている。

高野病院をめぐる報道が高まっていることを背景に、1月4日に行われた福島県知事の年頭記者会見では、福島県として医師確保を行うことが表明された。

1月6日には、福島県、広野町、高野病院の関係者が出席して高野病院をいかに救済するのかという件について、緊急会議が開かれた。会議の冒頭に、福島県の担当者が「双葉地方の地域医療と、高野病院の話は別です。そこから話を始めましょう」と発言した。この会議については、常勤医確保に向けた具体的な提案はなされなかった。

このことを受けて、「高野病院を支援する会」の関係者である医師がSNSで会議の経緯について公表した。1月18日には、高野病院を支援するための緊急会議の第2回目が開催されるが、SNSによる発信を行った「高野病院を支援する会」の医師らには、その日程についての連絡が行われなかった。

これは、2種類の正義のぶつかり合いのように思われる。

「高野病院を支援する会」の医師らが、会議における福島県の関係者の言動を公表したことは、広野町を含む福島県双葉郡(そこには東京電力福島第一原子力発電所が立地している)の地域医療を維持したいという熱心さが動機となっていることは理解できるものの、勇み足なのではないかという疑念を生じさせる。問題解決のためには当事者間の信頼関係の構築が重要である。しかしながら、許可なく会議の内容を公開してしまうようなことを行えば、信用を失ってその関係者から外されるのは、当然の帰結ではないだろうか。

そして、一民間病院の利益や立場を県が支持してしまえば、病院間の統制を維持することが困難になる。そのような「わがまま」が通じるような前例をつくることは望ましくないだろう。さらに言えば、「高野病院を支援する会」の関係者には、福島県外の東京などを本拠地にしている者も混ざっているらしい。そのような者が影響力を発揮することを、簡単に認めることは問題だろう、というような考慮も働いていたかもしれない。

通常の場合、まっとうな社会人の感覚を持ち合わせているものならば、このような主張の正当性をある程度は認めて受け入れるであろう。しかし、今回は非常に特殊な状況なのであり、そのような場合においては、「高野病院を支援する会」の医師が行ったような行為についても「理」ありと見なしうることを、今回の小文では主張する。

(同時に、このような非常事態的な対応は通常は許容されるべきではなく、特殊な状況が解消されたのならば、適切な陳謝とともに撤回されるべきであることも、合わせて述べておきたい。)

1月6日の会議で福島県の担当者が行った「双葉地方の地域医療と、高野病院の話は別です。

そこから話を始めましょう」という発言と、その後の一連のコミュニケーションには、私が「日本的ナルシシズム」という形で告発してきた構造的暴力が、純粋に濃縮した形で現れている。さらにこの一連の言動は、その構造的暴力を強化・維持し、反復させる質を持っている。

(「日本的ナルシシズム」については、拙著『日本的ナルシシズムの罪』(新潮新書)の他、以下のようなブログ記事を参考にしていただければ幸いである。

「日本の変わらなさへのささやかな抵抗」http://blogos.com/article/53751/

「平成26年12月に浪江までの相双地区と仙台が常磐自動車道で直結した時に被災地で感じたこと」https://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/namie_b_6298480.html

「コロナイゼーションの進展としての東京電力福島第一原子力発電所事故対応」https://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/post_9738_b_7778974.html

ここで注目している福島県の担当者が行ったコミュニケーションは、以下のような質を持っている。

・密室性

・「場からの排除」を一方的に行使できる権威性の主張

・上記による力関係を背景に、課題となっている事柄が「双葉地方の地域医療」であるという本質的な問題であることを否定し、「高野病院の話」という一民間病院の利益や立場の問題であると矮小化していること。

・そこには、高野英男先生と高野病院が、震災後の双葉地域の医療の多くを担ってきたことと、それと比べて県などの行政が貢献する部分が大きくはなかったという事実についての、否認が行われていること。

ナルシシズムの観点から心理の深読みを行うならば、このコミュニケーションには、行政からの自分たち以上の業績を挙げた高野病院に対する羨望や、そのような対象に対して「軽蔑」「支配感」「勝利感」などの感情を向ける躁的防衛のメカニズムが働いているといえる。しかしそのような心理は、人間のいる場面ではどこにでも現れうることであろう。

ここで問題なのは、事故を起こした原子力発電所の間近という世界的な注目を集める場所における政治的かつ経済的な意義も大きい高度な社会的な問題に対応する場面で、未熟な心理の表現が、そのままに修正されずに顕在化してしまう状況である。

私が「日本的ナルシシズム」と呼んでいるものは、幼児的なナルシシズムの心理と素朴な「上長を敬う」という道徳的な感覚が、曖昧で混とんとしたまま高度な社会問題の解決を目指す場面でも、そのままに適応されてしまう事態のことも指している。時として現実を適切に扱うよりも、ナルシシズムを守るような想像的な満足が優先される。

そうである場合には、精神性を成熟させることよりも、その混然とした一体感とそれに支えられた素朴で土着的な道徳観念に留まり続ける方が、政治的・経済的な利益が大きいという社会になる。

当然にそのような社会の構成員は、社会的な場面での現れが未熟なままに留まるであろう。そのような構成員は、さらに社会をそのようなものへと固定させる。

このように「日本的ナルシシズム」の心理・社会構造は、反復・強化されている。強いられなくとも、自律的にその成員がそのように行動し、他の成員にもそれを強いるようになるのだ。

率直に言って、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故の発生にもっとも大きな要因となったのは、この「日本的ナルシシズム」の病理であったと私は考えている。そして、あのような経験をした私たちは、この現実に目覚めて、この病理性からの脱却を志すべきなのだ。

しかしながら、あの事故の記憶が色濃く残る場所で、ほんの6年弱しか経過していないのに、その病理性が何の反省も修正もなく反復され、それに対して何の抗議を行うこともできずに従わざるをえないのならば、それは絶望的な事態ではないだろうか。

中立的で学問的な立場からは、二つの正義の利点と欠点を明らかにして、その仲裁を試みるのかもしれない。しかし、私は、私自身がその「日本的ナルシシズム」の心理・社会構造にどうしようもないほどに強固に巻き込まれているものとして、必死にそこからの脱却を目指さなければならない。そして、こちらの正義がもう一つの正義よりも優先されることを主張せざるをえない。これが、私が「造反有理」と主張する根拠である。

人が構造的暴力に巻き込まれている時に、そこから離脱することは容易ではない。

例えば、精神医学で「ストックホルム症候群」として知られている現象がある。それは、誘拐や監禁等の犯罪が行われた場合でも、被害者が加害者と長時間を一緒に過ごした場合に、時に加害者に被害者が好意を持つようになる事象を指している。

私自身が精神科医として臨床的に経験した事例を、事実関係が特定されない形で紹介させていただこう。

ある「仕事が生き甲斐で、好きで仕方がない」若い女性が、疲労困憊して混乱した様子で受診した。話を聞けば、いわゆるセクハラ・パワハラの被害者である。しかし、彼女は自分の勤務先の上長の言動に疑問を感じているものの、「まじめに職場に迷惑をかけずに働く」ことをやめようとしない。数回受診した後に通院が途絶え、しばらくしてまた私の外来を受診した。その時に彼女はすでに、不本意な形での退職を強いられた後であった。

その場で彼女は、「先生から『職場の上長が私のことを適切に扱っていない』と言われて、先生のところに来られなかった」と話していた。今となっては「先生の言っていたことが正しかった」と話すが、それでも以前に私から「上長が患者のことを適切に扱っていない」と指摘されたことは、恨みに思っている様子であった。

私としては、診療を行うことの難しさを感じていたものの、さほど驚くことではないとも考えていた。構造的暴力に巻き込まれている被害者に、その事実を指摘することは、強い恨みを引き起こす可能性があることについては、ある程度の経験のある心理系の臨床家ならば、十分に理解して経験している事柄なのである。

ストックホルム症候群や上にあげた事例のように、実際の加害者とのせいぜい数年間の経験でも、ここまで強い愛着が生じ得るのである。ましてや、「日本的ナルシシズム」のような、前時代の数十年にわたって日本社会の安全と発展を守ってくれた構造であるならば、その構造については問題の方が大きいように時代と状況が変化したのだとしても、その内部の人間がその構造への愛着を離れられないのは、当然のことであろう。

人間の心理はそのようにできている。自分が巻き込まれている構造的暴力については、極端に思考能力が弱まるのだ。

さらに、そのことを意識すること自体が、強い罪悪感を引き起こす。そして、そのような事態を明らかにする対象を、何らかの悪とみなし、その上で攻撃して排除したい欲求が高まるのだ。この場合にその攻撃性は、共同体への愛着に由来する道徳的な真面目さの表現として理解されている。

このように「構造的暴力の被害者」である私を自覚することには困難が大きい。

そして、それ以上に困難なのは「構造的暴力の加害者」である自分を自覚することである。私もまた、何らかの意味で、「日本的ナルシシズム」の構造の被害者に多くの責任を押し付け、それによって自分の安全や利益を確保しているのである。

例えば、私は高野英男先生の苦境を漠然とは知っていた。しかし、その実態を明確に知ろうとしたり、それを手伝おうとしたりはしなかった。ほんの一部かもしれない。決して割合は大きくはないだろう。

しかし私もまた、高野英男先生の労苦を搾取していた中の一人だ。その意味で、私たちは決して一方的に福島県の担当者を弾劾できるような立場にはない。

それでも、この構造のなかで強い影響力を発揮できる立場にある人々、さらに大きな利益を得ている人々が、漫然とこの構造を反復・強化するような行為を継続した場合には、何らかの批判を受けることは適切な事柄であると思われる。

日本的ナルシシズムの構造からの完全な脱却などありえず、漸進的にのみ進行しうる程度の差しか存在しないとも言えるだろう。私たちは皆、構造的暴力の中の被害者であり加害者である。被害者であることを自覚することも、加害者であることを自覚することも、とても絶望的なことである。しかし、その絶望を回避して、漠然と構造的暴力の中に留まり続けることの方が、真に恐るべきことがらに思える。

そして、今までとは違うことが起きつつある。

1月9日にボランティアの医師らの交通費や宿泊費を確保するために開始されたクラウドファンディングは、わずか1日で目標額を達成した。

1月11日には、東京の総合病院に勤務する外科医が、2~3月と常勤医として高野病院に勤務することが発表された。

1月13日には福島県立医科大学の次期理事長が、福島民友のインタビューに答えて「高野病院は地域で重要な役割を担っており、入院患者や近隣の住民に対する切れ目ない医療を維持することが大事。県から要請があれば、常勤医の派遣を含め検討する」と発言している。

構造的暴力に巻き込まれている経験に適切に絶望し、それを心理的に乗り越えて現実を扱えるようになった個人が、今までの反復ではない新しい共同体のあり方を生み出していることに、私たちは希望を見出そう。