今回は雑誌の王道「週刊誌」を取り上げる。
最近でも「文春砲」で名を馳せているように、元気なルポ活動を見せてくれる週刊誌は、今でも雑誌界の花形だろう。
しかし残念ながら、以前の隆盛ほどではない。かつて週刊誌と言えば、各出版社はもちろん、各新聞社も盛大に発売していた雑誌の雄だった。発行部数100万部...というのは夢物語ではなく現実であり、文藝春秋社の『週刊文春』、新潮社の『週刊新潮』はもちろん、小学館の『週刊ポスト』、講談社の『週刊現代』、新聞社『週刊読売』(のちの『読売ウイークリー』)、『週刊朝日』、『サンデー毎日』、『週刊サンケイ』(現在の『SPA! 』)、さらには『週刊実話』、『週刊大衆』、『平凡パンチ』、『週刊プレイボーイ』など実に週刊誌が駅のキオスクなどに並んでいたもの。朝日新聞からはさらに硬派な(?)『朝日ジャーナル』まで刊行されていた。
列挙していると暇がないので、もっとも思いれの強い一冊、光文社から発行されていた『週刊宝石』を取り上げる。
「出版人」という人種が存在するのであれば、私自身がその立場になり初めて「お給金」を頂戴したのが、この週刊誌。学生時代にまんまと編集部に潜り込み、丁稚奉公をしていた。よって私の「出版人」としての最初の知識はすべて『週刊宝石』からはじまった。
同誌は1950年代創刊がざらという出版社系週刊誌の中で1981年創刊と最後発。しかし、その独自の「他社よりももう少しエロ」路線(?)が功を奏し、私の記憶している限り、最盛期には80万部を記録するに至った。
1981年の創刊。私もまだ高校に入学した頃。表紙はご覧の通り真行寺君枝さん。御年59歳ながら、当時はまだ22歳、透明感あふれる美貌。私よりもさらに年上の御仁からすると資生堂の「ゆれる、まなざし」でご記憶の方も多いだろう。
現在の週刊誌から比べると表紙の文字数はかなり少ない。特集である「長島茂雄 いま、僕は疼いている」、「密室の池田大作」、「中内功社長ヤクルト球団買収の情報!」など熱いルポもののみが、カバーを飾っている。
表紙を開くと表2は、カネボウ化粧品の「ギルバン」の広告とやや地味な印象を受ける。キャラクターに起用されているのは、バリー・ファーバー。よほど報道畑に精通している方でなければご存知あるまい。当時、米ABC放送の看板キャスターで、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』のコラムニストとしても名を馳せた。今の日本で例えると池上彰さんのような存在か...。
ファーバーさんは2018年11月24日現在、88歳でご存命である。「For beautiful human life」のCMで有名だったカネボウは現在、花王の完全子会社。CMを目撃することもなくなった。
巻頭は「ADAM'S EYE」と題した「男のための男の広場」というグラビア、エロなどの小ネタ集。この頃の雑誌は、ジャンルを問わずこうした小ネタ・コラムから始まるパターンが多かった。
エロも多い週刊誌の宿命か、意外なほど広告が少ない。さした取材もなく、ファッション写真が延々と続く、中身の薄い女性ファッション誌と比較すると広告量は雲泥の差。雀の涙ようにさえ思える。
目次に目を通すと、不思議なほど大きなインパクトはない。表紙に列挙された特集以外は、「桑野将大と美人モデルの猥せつ事件」、「バイオレンス時代の異彩システム トルコはここだ」などエロが売りの週刊誌らしい見出しが散見される程度。そう、トルコの方々には大変申し訳ないが、昔は「ソープランド」ではなく「トルコ風呂」という呼称だったわけだ。
その桑野さんも鬼籍に入り...え? 桑野将大? 誰だ、そりゃ?
大変な誤植を発見してしまった。このルポは、当時アン・ルイスさんの夫でミュージシャンの「桑名将大」さんが、美人モデルのウチに押しかけたという話題。ところが目次では「桑野」になっている。創刊号ブログでまさかの大誤植を発見してしまうとは...。
WEBと異なり出版物の怖い点だ。一度、出版してしまったミスは取り返しがつかない。
表4はトヨタのニュー・カリーナ。3代目A6#型としてフルモデル・チェンジの際の広告。以前からキャラクターとなっていた千葉真一に加え、岸本加世子が登場している。3A2エンジンでデビュー。のちに4A-GEエンジンも搭載。これがAE86への流れとなって行くのは、クルマ好きならご存知だろう。そのカリーナも2001年を最後にトヨタのラインナップから姿を消した。
目次ではあまりに級数が小さく、見落としてしまい、創刊当時には存在しなかったのかと、一瞬勘違いしてしまったが、名物企画「処女探し」は、202ページに掲載されている。
数多の雑誌企画が世の中に存在するが、1980、1990年代を過ごした男性諸氏でこの企画を知らない者はあるまい。発想は単純。1号につき20人程度の街の美女の写真を撮らせてもらい、名前、職業、スリーサイズ(死語だな)を訊ね、最後に処女か非処女かをクイズ形式で掲載するもの。21世紀の現代では、セクハラ、モラハラとして、とうてい実現しない企画だ。後に「おっぱい見せます」の企画も人気だったが、そんな現在なら裁判所行きではないだろうか。
もっとも当時でさえ素人に取材し「処女ですか?」などと聞けるわけもなく、このキワモノの質問は「あの、その、もちろん『ご卒業』ということで、よろしいですよね」という奥歯に物が挟まったような設問で乗り切っていた。
実は私が丁稚奉公していた取材班こそが、この企画担当だった。
土日に渡りカメラマンと担当者が、例えば新宿南口の改札口などで張り込み、歩いて来た女性に点数をつける。カメラマン「8点!」、担当「9点!」、「よし、GO!」というような具合だ。双方が7点をクリアしていたら取材するルールだったと記憶している。謝礼に1000円と編集部の連絡先を渡し、後になって「掲載拒否」と考え直した際は、編集部に電話連絡を入れてもらえば掲載は取り消しになった。
私が丁稚奉公していた1980年代後半は一号につき20人を取材、見開きの上段に8人、下段に8人の計16人掲載の形式を踏襲しており、中でも四隅に美女を配置する決まりになっていた。見開き右手上段が、もっとも上玉という暗黙の了解。
掲載了承を得た美女たちの紙焼き16枚をデスク上に並べ、取材班のメンバー全員で「一斉のセ!」とそれぞれ自身の「一番」を指差し、もっとも投票数の多かった美女からレイアウトしたこともあった。
あまり暴露してしまうと編集部の諸先輩方に叱られるやもしれぬが、多くのエピソードがある。「取材OK」をもらうには、実はカップルのほうが成功率が高く、単独よりも2人連れ女性、2人連れ女性よりもカップルを優先してトライしていた。
ある時、カップルに取材をお願いすると、実はご夫婦と判明。旦那さんが本企画のファンだったため「お前、取材を受けろ」と非常に協力的。撮影も終わり、最後の設問で「主婦ですから、『ご卒業』ということで、よろしいですよね」と訊ねたところ、旦那様が「処女だって言え!」とひと言。よってその方は掲載時、「職業=主婦」しかしクイズの答えは「処女」になっていたというオチ...。懐かしい、牧歌的な雑誌の時代だ。
創刊号は、この企画も「早慶戦」になっており、あまりにも昔過ぎるので、どちらに可愛い子が多いのか、まったく判断が付きかねるものの、この企画そのものが日本の学閥制度の根深さを振り返ることができる。
そんな『週刊宝石』も私がアメリカから帰国するのを待って2001年、2月8日号をもって休刊。「帰らぬ人」となった。週刊誌の中では、かなり諦めが早かったことになる。
この後『週刊DIAZ』としてその年の6月にリニューアル復活を遂げるのではあるが、その顛末はまたの機会に譲ろう。
「たまさぶろ」のメディア人、書き手としての出発点『週刊宝石』、この場を借りて御礼まで。
「週刊宝石は永久に不滅です!」