シリア難民拒絶で再び注目される、日系人強制収容施設の歴史

過ちを繰り返さないために、差別と迫害の歴史と向き合うときだ。
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◆米国内で広がる「シリア難民拒否」の声

パリで発生した同時多発テロを受け、米国ではシリア難民の受け入れを拒否するべきだという世論が一気に高まった。

テロ発生前からシリア難民の受け入れ拡大を表明していたオバマ大統領は16日、「難民の受け入れを拒否することは我々の最も深いところに根ざした価値を裏切ることになる」と語り、シリア難民の受け入れ拡大をあらためて表明した。ところが、野党共和党の議員達はオバマ氏の姿勢に反発。大統領選出馬を表明している共和党のテッド・クルーズ上院議員をはじめ多くの議員が「市民をテロの脅威から守るためには受け入れは拒否するべきだ」とオバマ大統領を強く非難。「シリア難民受け入れ停止法案」が議会に提出され下院で可決された。ニューヨークタイムズ紙の調べによると、全米50の州のうち26の州知事がシリア難民の受け入れに反対する姿勢を示し、対立は強まっている。

そうした中、ワシントン州のインズリー知事は18日、シリア難民の受け入れは必要な措置だとした上で、第二次世界大戦中の日系人強制収容政策の過ちを繰り返してはならないと訴えた。一方で、バージニア州ロアノーク市のバウアーズ市長は当時の日系米国人と同様、シリア難民の受け入れは米国にとって脅威だと発言し、批判を浴びた。バウアーズ市長は20日、当時の日系米国人がテロリストと受け取られかねない発言だったと陳謝した。

◆いま注目される、差別と迫害の象徴「日系人強制収容施設」

いま再び注目を集める日系人強制収容施設。米国人たちは戦後この問題とどう向き合ってきたのか。カリフォルニア州に現存する当時の収容所跡地「マンザナー」を訪ねた。

ロサンゼルス市街から北におよそ200キロ。砂漠を抜け、青い空を突き刺すように切り立った岩肌むき出しの山々にかこまれた谷間の地に施設は建設された。

1941年12月、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃ではじまった太平洋戦争。日米開戦を受け、直ちに全米10箇所に強制収容施設がつくられ、敵国にルーツを持つ11万人以上の日系米国人たちが大人から子どもまで男女を問わず住まいを追われここに集められた。マンザナー強制収容所にはロサンゼルスなどから1万人以上が収容され、戦争が終わるまでの間、差別と偏見にさらされながらここでの生活を強いられた。戦後、10箇所の収容所の多くが解体されたが、マンザナーは国定公園に指定され、収容所内にあった建物の一部が戦争資料館として今も当時のまま保存されている。

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資料館に入ると、おかっぱ頭の黒い目をした少女が憂鬱な顔でこちらをみつめる大きな白黒写真が掲げられていた。奥に進むと写真やパネル、当時の生活を伝える服や日用品など、現物の展示が並ぶ。メインゲートのパネルには「なぜ、私たちは差別をしたのか?」というタイトルが記され、当時、米国人がどのような言葉や態度で日系人を差別し、蔑んできたか、当時の時代背景と共に解説が続く。「ここは白人の地域だ、JAP(ジャップ:日本人の蔑称)は出て行け」という大きなパネル写真には「こうした差別は間違っていた」という説明が添えられ、謝罪やもう二度と繰り返してはならないという決意のメッセージがそこに込められていた。

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館内を撮影していると、子どもを連れた男性が入館してきた。男性は57歳、父親は空軍のパイロットとして第二次世界大戦を戦った。機会があれば近所の子どもを連れて度々ここを見学しているという。「子どもたちに事実を教え、よりよい未来をつくってもらいたい。敗戦から這い上がって成長した日本人に敬意を感じている」と語った。その後もこの男性と同じように子どもを連れて熱心に展示を解説して回る白人たちの姿が後を絶たなかった。

この施設では収容された人たちの名前や年齢、出身地などを全てデータベース化して公開している。職員に照会を頼めば親身になって家族や友人の名前がないか一緒に探してくれるのだ。私がいる間も、初老の日系人の女性が施設を訪れ、職員と顔をつきあわせながらパソコンの端末を覗き込んでいた。家族の名前を探しにここを訪ねたという。「死んでしまった自分の家族の名前を探しに来たの。どんな思いで生き抜いたのか、少しでも想像したかったから」。

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過ちを繰り返すことがないよう人々の記憶の風化を防ぐ取り組みが陸の孤島で続いてきた。敗戦からの復興を成し遂げた日本への敬意を抱き、差別と迫害の歴史と向き合いかつての敵国との友好関係を築いてきたことに誇りを持つアメリカ市民がいる。今回のパリ同時多発テロを受け、アメリカ国民がシリア難民とどう向き合うのか。70年の取り組みの真価がいま問われている。