土俵の女人禁制は「伝統」なのか? 相撲と女性をめぐる問題提起は過去にもあった

不文律となったタブーの歴史的経緯を振り返った。
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京都・舞鶴市内での大相撲巡業をめぐって、土俵の「女人禁制」は本当に伝統なのか、議論が再燃している。明治以降に不文律となったこのタブーについて、歴史的な経緯を振り返った。

■救命処置の女性に「土俵降りて」で非難、相撲協会が謝罪

4月4日に舞鶴市で開かれた大相撲春巡業で、土俵上で倒れた多々見良三市長に救命処置を施した女性に対して「女性は土俵から降りてください」と場内でアナウンスされたことが物議を醸している。

日本相撲協会の八角理事長はコメントを発表。「行司が動転して呼びかけたもの」として、不適切だったと謝罪した。

市広報課によると、多々見市長はくも膜下出血と診断。術後の容体は安定しているが、1カ月の安静と入院が必要だと、ハフポスト日本版の取材に答えた。

Twitterでは救命処置をとった女性を称賛する声がある一方、「人の命よりも伝統をとったことに恐ろしさを感じる」「こんなお粗末な対応で何が伝統か」と相撲協会を非難する声が相次いでいる。

土俵入りの柏手、清めの塩撒き――。「大相撲」は、神事と密接な関わりがあるとされ、女性を土俵に上げないことが「伝統」とされている。

だが、こうした姿勢を「女性差別ではないか」と問題提起する声が過去にあった。また、そもそも「"土俵は女人禁制"は明治期以降のもの。伝統と言えるのか」と指摘する声もある。

■「土俵に女性はNG」 過去にも問題に...

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森山真弓氏
時事通信社

1978年5月、こんな事件があった。小学生の「わんぱく相撲」東京場所・荒川区予選で小学5年の女児が優勝したが、国技館(蔵前国技館)で開かれる決勝出場を日本相撲協会が拒否した。背景には「国技館の土俵は女人禁制」という「伝統」があったとされる。

当時、労働省の森山真弓・婦人少年局長が協会側に抗議したが、結論は覆らなかった。

それから約10年、意趣返しのような事態が起こった。第1次海部俊樹内閣で森山真弓氏が女性初の官房長官に就任。1990年初場所で、首相の名代として「初場所の優勝力士に内閣総理大臣杯を手渡したい」と申し出た。

ところが、当時の二子山理事長(元初代横綱・若乃花)が「土俵に上がっての大臣杯授与は遠慮してほしい」と要請。森山氏側は断念した。

この翌年(1991年)にも、「わんぱく相撲」の地方予選で優勝した小学5年生の女子が決勝には進めないことが明らかに。疑問の声がでた。

当時、主催の東京青年会議所は朝日新聞の取材に対し、「あくまで男の子を対象とした全国大会。ただ、地方大会はスポーツよりも地域親善の色合いが強いので、女性も認めているだけ」と説明。「女人禁制」の国技館のせいではないとした(朝日新聞1991年7月3日夕刊〈東京本社版〉)。

2000年2月には、太田房江・大阪府知事が春場所の表彰式で、府知事賞を直接手渡したい意向を示したが、これも叶わなかった。

いまなお、女性は国技館の土俵に立てないとされ、女子が「わんぱく相撲」の地方予選で優勝しても国技館での決勝には出場できない。

断髪式でも引退する力士の髷(まげ)に女性は土俵上でハサミを入れることができない。2011年の元大関・千代大海の断髪式では、母の美恵さんのために一度土俵を下りたことが話題になった。

■古文書に初めて登場する「相撲」をとったのは女性?

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時事通信社

神道では血を出すことは「けがれ」とされる。そのため、生理があることから女性を「血」と結び付け、宗教的な禁忌ととらえるようになったとされる。

大相撲でも土俵は「神聖」なものとされ、「女人禁制」とされてきた。だが、古文書を紐解くと、女性と相撲は深い関わりがあるようだ。

日本史上初めて文献に「相撲」が登場したのは『日本書紀』の雄略天皇期の部分とされ、そこにはこう書かれている。

【原文】

(十二年)秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶」眞根答曰「竟不誤矣」

乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。

【口語訳】

(雄略天皇12年の)秋の9月、木工職人の韋那部眞根(いなべのまね)が、石を台にして斧で木材を削っていた。一日中削っても、間違って斧を石の台にぶつけて刃をつぶす事はなかった。天皇がやってきて不思議に思って聞いた。「いつも間違って石にぶつける事はないのか」と眞根は答えた。「決して、誤ってぶつけることはありません」。

そこで天皇は采女(うねめ。宮中の女官)を集め、着物を脱がせ、褌を締めさせ、みんなの前で相撲をとらせた。眞根は少し手を休め、それを横目で見ながら木材を削った。しかし相撲に気を取られて、間違って斧を台座の石にぶつけて、傷つけてしまった。

■室町時代には尼僧が相撲興行で活躍?

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『続史籍集覧』第7冊(近藤瓶城編、近藤出版部/1917-1930)
国立美術館デジタルコレクション

義残後覚』(16世紀成立)の中では、「比丘尼相撲の事」という項目で、室町時代の女性力士が紹介されている。

そこには、勧進相撲(営利目的の興行相撲。大相撲の源流とされる)に「比丘尼(びくに。尼僧)」が出場していたことが記されていた。

■江戸時代には「観戦禁止」も、女相撲があった

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井原西鶴『色里三所世帯』(博文館/昭和5)。「女相撲」に関する記述がある。
国立国会図書館

江戸期では、1781(天明元)年以降に両国・回向院の境内で勧進相撲が開かれたとされ、これが現在の「大相撲」の起源とされる。1909(明治42)年、この地には旧両国国技館が建てられている。

江戸時代は原則として女性の相撲観戦が禁じられ、許されても千秋楽のみだったという。

ただ、『江戸繁昌記』(1831年刊)などによると、当時の相撲では頭に血が上った相撲ファンが頻繁に乱闘騒ぎを起こしていたことが伺える。

一方で、この頃は女性が参加する見世物的な相撲や、女性同士が相撲を取る「女相撲」もおこなわれている。「女相撲」は戦前まで全国巡業もあったほど。東北や九州では今なお祭礼行事として残っている場所もある。

長らく禁じられていた女性の相撲観戦が許されたのは、1872(明治5)年だとされる。

明治維新と文明開化の流れの中、次第に相撲人気が下火になったこの時期、当時の相撲関係者が元土佐藩主・山内容堂に相談。これに山内は、女性への相撲観覧の解禁を説いたと伝えられる(朝日新聞2000年2月13日朝刊)。

1884年3月には明治天皇の臨席の天覧相撲が開かれ、やがて相撲は「国技」としての地位を得た。

■信仰か、伝統か、差別か... 議論なおも続く

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立行司木村庄之助を祭主に、土俵の安泰を祈る間垣部屋の土俵開き。奥前列左から3人目が間垣親方(東京・墨田区) 撮影日:1983年09月10日
時事通信社

相撲界で土俵は「スポーツ」の舞台であると同時に、神聖な"まつりごと"の場所とする「信仰」の対象とされる。

本場所初日の前日や部屋開きの際、立行司を祭主とする「土俵祭り」が執り行われる。そこでは立行司が、相撲の由来を述べる口上でこう唱える。

清く潔きところに、清浄の土を盛り、俵をもって形となすは、五穀成就のまつりごとなり

「女人禁制」のしきたりは、福岡・宗像大社の沖ノ島などに残る。各地には女性が参加できない祭りもあり、いずれも女性を禁忌とする価値観から生まれたものとされる。

一方で富士山や比叡山など、女人禁制が解かれた霊場もある。

「信仰」や「伝統」を理由に、土俵の女人禁制を肯定する声もある。その一方、性差別の観点から女人禁制への批判もある。

さらには、「『相撲は神道との関わりがあるから女性を排除する』というような論理は、明治以降に相撲界の企図によって虚構されたものであると考えられる(参考:吉崎祥司、稲野一彦 北海道教育大学紀要、人文科学・社会科学編 59(1):71-86)」という意見もある。

今回の救命処置をめぐるアナウンス問題は、相撲と女性をめぐる過去の問題提起を思い出させることになった。

いつかこの国に女性の首相が誕生したら、誰が優勝力士に内閣総理大臣杯を授与するのだろうか。