パニック障害の自分を「許してしまおう」。姉との別れから考え続けた「社会に適応するより大切なこと」【あるゲイカップルの記録②】

1994年に性的少数者についての知識を伝える活動を始めた伊藤悟さんと簗瀬竜太さん。当時の講演で偏見が強い攻撃的な質問にたびたび晒され、簗瀬さんの心は追い詰められていった。

「1990年代の終わりぐらいにパニック障害だと分かった。この活動は、もう続けられないかもしれないなと思った」

簗瀬竜太(58)を追い詰めたのは、講演をすると毎回のように出た「偏見がもろに刺さってくるような質問」だった。パートナーの伊藤悟(67)と性的少数者についての知識を伝える活動を精力的にしていた1990年代のことだ。偏見と向き合い、対応し続けることに特に簗瀬はすり減っていった。

母と姉との別れをきっかけに、簗瀬は一旦活動を離れ、生きることと向き合うことになるーー。

セクシュアルマイノリティの人生を応援する団体「すこたんソーシャルサービス」が2019年、創設25周年を迎えた。伊藤悟さんと簗瀬竜太さんが1994年に「すこたん企画」として立ち上げ、性的少数者についての正しい知識を伝える講演活動を始め、ゲイ・バイセクシュアル男性の居場所を作り続けてきた。

二人の出会いから2020年で35年目。歩みを振り返ると、個人の人生と、人との関わり、社会が絡み合いながら時代が進んでいく様が見えてくる。【3つの記事で伝えます】(文中、敬称略)

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その日まで、自分自身を押し込めて生きていた

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「すこたん企画」事務所での伊藤悟さん(右)と簗瀬竜太さん。1990年代後半の撮影。
伊藤さん、簗瀬さん提供

1986年4月に32歳と24歳で出会うことになる伊藤と簗瀬。その日まで、共に自分自身を押し込めて生きていた。

伊藤は、勉強に打ち込む少年だった。父の仕事の関係で転校が多く、友人ができにくい中、好成績で先生に気に入られれば学校に順応できると考えていたからだ。中学生の時には同性に性的関心があることに気づいていたが、開成中高から東大という“エリートコース”を歩む中で、「異性愛者にならなければならない」と自分に言い聞かせていた。

大学では差別問題などを考えるサークルを立ち上げ、教員になってからは理不尽な校則に反対する運動に取り組んだ。そうやって人権問題に取り組む一方で、自身のセクシュアリティのことは肯定できずにいた。

たまたま伊藤がゲイであることを知った見知らぬ人から職場に脅迫状が届いた時の怖さ、お金で解決したことへの後ろめたさが彼を深く落ち込ませた。

 

父が家の中で見せる「権力性」に怯えていた

「父は、職場のストレスをぶつけるように母を殴った。当時は、ただひたすら父に殴られないように気を遣っていました」。簗瀬が幼少期・思春期を振り返る時、父の存在を抜きにはできない。

父が家の中で見せる「権力性」に怯え、小学校でも他人に言い返せない簗瀬は、同級生から「おとこおんな」という言葉をぶつけられた。

小学高学年から「男の子らしさ」を演じ、いじめられることを避けた簗瀬は、短大に進学した頃には、友人を作ろうとは思わなくなっていた。同性が好きだと中学生で自覚していた簗瀬は、同級生がする「女の話題」に口を合わせるのは「うんざりだった」。

学校を辞め、大工として働き始めた。仕事であまりに理不尽なことがあっても、簗瀬は抗議しなかったという。「あの頃は、時間が止まったままだったんです」

 

駅で会ったその人に、「自分にはない何かがある」と感じた

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VTT Studio via Getty Images

1986年4月、雑誌の通信欄を通して二人が初めて待ち合わせをしたのは、千葉県船橋市内の駅だった。

喫茶店で「ゲイ」という言葉を躊躇せずに口にする伊藤に、当時の簗瀬は面食らい、お腹が痛くなってトイレに駆け込んだ。

しかし、正義感が強い伊藤の真摯さに、「この人には自分にはない何かがある」と感じた。洋楽が好きという、共通の趣味もあった。ちなみに、伊藤の方は“一目惚れ”だった。

信頼できる相手と積み重ねる時間は自身を変えた。

「同性愛者として自信を持てるようになった。『愛し続けてくれるパートナーがいる』という思いは、僕を守ってくれた」(伊藤)

「彼は厳しさと無条件の優しさを兼ね備えた人。彼とのぶつかりあいの中で、今まで蓋をしてきた『自分』と向き合えるようになった」(簗瀬)

 

向けられた「好奇の目」。交際を続ける中での葛藤

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ニューヨークでのパレードに参加した後、セントラルパークで休憩をとる伊藤悟さん(右)と簗瀬竜太さん=1994年6月
伊藤さん、簗瀬さん提供

だが交際を続ける中で、簗瀬は周囲の「好奇の目」が気になるようになった。実際、伊藤が簗瀬の体に手を回したのを笑われたこともあった。デートは田舎道のドライブばかりになり、車中で買った弁当をつついた。

一方の伊藤は、改めて同性愛者にとって生きにくい社会について考えるようになり、「府中青年の家事件」(※1)に関する集会に参加するなど、より活動的になっていた。

そんな伊藤に対し簗瀬は、「積極的な姿を見るほど、同性愛者であることを受け入れることもままならない自分の情けなさを感じてしまった」。嫉妬のような感情を伊藤にぶつけ、二人は衝突した。 

“様々な距離”を埋めるため、1993年に二人は伊藤の実家で、当時70代後半の伊藤の母と三人暮らしを始めた。伊藤の母は、息子のカミングアウトに「押しつぶされないように生きて」と応えた人だ。しかし、仕事を理由に家事を顧みない伊藤に代わり、簗瀬は高齢で足が不自由になっていた伊藤の母を支えることにもなり、「伊藤家へ尽くす」役割へのストレスを募らせていた。

「気分を変える意味も込めて、アカー(※1参考)が主催したニューヨークツアーに行くことを決めました」と伊藤は振り返る。そして、1994年のこの旅をきっかけに、二人は「すこたん企画」を立ち上げ、講演活動を始めることになる。 

※1 1990年に、同性愛者への差別をなくす活動をする団体「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」(現・NPO法人アカー )が、東京都の施設「府中青年の家」で他の利用者から嫌がらせを受けた上、都からその後の利用を拒否された事件。団体側は東京地裁に提訴し、一審、東京高裁とも都の違法と判断。

 

「何があっても味方する」。姉との別れから、考え続けた

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講演活動をする伊藤悟さん(左)と簗瀬竜太さん。1990年代後半の撮影。
伊藤さん、簗瀬さん提供

しかし、年50回にもなる講演では、「ゲイに襲われたくない、見分ける方法を教えて」などの偏見が強い質問、攻撃的な質問にたびたび晒され、特に簗瀬はパニック障害に苦しむようになっていった。

「閉所に恐怖があり、講演中に『ここから出られない』と思うと、パニックになってしまった。だけど、自分の状況を認めたくなかった。認めてしまったら、活動を続けられなくなってしまうから」

社会を変えたいのに、思うように動くことができないーー。葛藤の中で、簗瀬は肉親との別れに向き合うことになる。

2004年、簗瀬の母が亡くなった。息子のカミングアウトから1年かけて対話をし、同性愛への理解を深め、のちに簗瀬と伊藤の生き方をつづった本が出版された時には「こういう本を出してくれてありがとう」と言って、親戚に配るような人だった。“自慢の息子”として愛してくれた。

「母が亡くなって、自分の中で糸が切れてしまった。これ以上頑張り切れないと思った」

さらに別れは続いた。

簗瀬にはパニック障害について相談できる人がいた。姉だ。彼が異性愛者で初めてカミングアウトした相手でもある。友人だと紹介していた伊藤がパートナーであることも同時に伝えた時、姉はこう応じた。

「そうだったんだ。言ってくれてありがとう。何があっても味方する。それにしても、あんなにいい人滅多にいないんだから、伊藤さんのこと大切にしてあげなきゃだめだよ」

その姉が翌2005年に他界した。

「姉が亡くなってから、ずっと考え続けた。姉は社会に適応するために、会社に行って会議に出るために無理をしていた。みんな頑張りすぎて死んでしまうんです。自分は180度考え方を変えようと思った。社会に適応するのはもうやめよう。それより大切なことは生き続けること。それが一番の供養になると思った。パニック障害で講演ができない自分のことも、許してしまおうと思った」

講演活動から退く決心がついた。伊藤も時間はかかったが、決断を受け入れた。

 

「憎い父親」の介護。記憶が、手から離れていった

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phokin via Getty Images

さらにその頃、簗瀬の父の介護が始まった。「母を殴る父を、世界で一番憎んでいた。みんな死んでしまって、なんで父親と二人なんだ…と思いました」。父とは長らく、会話もしていなかった。

だが「向き合わざるを得ない父」は、過去の父ではもうなかった。息子にお尻を拭いてもらうために身を委ねる父の後ろ姿を見た時、信頼されていることが伝わってきた。

父が職場の強いストレスを抱えていたことも知っていたが、暴力は決して許されることではない。だが、あの「憎い父親」は、もう自分の記憶の中にしかいなかった。ずっとつかみ続けていた父親の記憶が、手から離れていった。

「父への許しが訪れた、不思議な体験でした。この体験をするために、生まれてきたのだとさえ感じました」

2011年、父も旅立っていった。

父が元気だった頃、簗瀬が同性愛者であることを伝えると、父はこう口にした。「全然、いいじゃねえか」

 

二人が、人生で向き合い続けてきたもの

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オンライン取材に応じる、伊藤悟さん(右)と簗瀬竜太さん。
Akiko Minato/HuffPost Japan

父を見送ったあとの簗瀬を、伊藤は「再生した簗瀬さんが帰って来た」と表現する。改めて残りの人生を共に歩むことを意識し、二人は2019年にパートナーシップ宣誓をし、千葉市で暮らしている。

姉を亡くしてから、簗瀬は今一度「生命(いのち)に優しい生き方」について考えるようになった。

「生活を少しずつヴィーガンにしていったんです。虐待やいじめを無くす方法を自分なりに考えた時に、あらゆる生命の尊厳を大切にすることが、最終的には人間にも優しい、人間の尊厳を守る社会につながる気がしているんです」

伊藤は、「最初は抵抗したんですけど、話し合った結果、僕もできるだけ動物性食品を食べないようになりました。こういう風に価値観を問い続ける作業は、周りとの摩擦も起きますし大変なんです。ただ、全部簗瀬さんが始まりなんです。自分がゲイであることを受け入れられたのも、すこたんを始めたのも…いつも新しい価値観を持ってきてくれるのは簗瀬さんなんです」と笑う。

二人が、すこたんの活動だけでなく、自分の人生でも向き合い続けてきたものは「人の尊厳」だ。

自分を肯定すること、パートナーを尊敬すること、家族の人生と向き合うこと、性的少数者みんなのために闘うこと、全ての人に優しい社会を目指すことーー。人生のいくつかのステージを過ぎた今もまた、「人の尊厳」が尊重される社会を作ることに、自分たちなりの方法で向き合い続けている。