「ダーイシュ(イスラム国)が私の街を奪った日、忘れない」シリア人が語る紛争と難民としての暮らし(画像)

ダーイシュがシリアの街を襲ったとき、そこでは何が起きたのか。難民としてのトルコでの暮らしはどのようなものなのか。難民を受け入れるトルコの現地住民の心境とは。
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過激派組織ダーイシュ(イスラム国)が台頭するシリア。アサド政権と反政府軍による衝突から始まった内戦は間もなく4年を迎えるものの沈静化することなく、情勢はますます混迷を極めている。

ダーイシュがシリアの街を襲ったとき、そこでは何が起きたのか。難民としてたどり着いたトルコでの暮らしはどのようなものなのか。また、難民を受け入れることとなったトルコの現地住民の心境とは......。

2015年1月、トルコ南東部シャンルウルファで暮らすシリア難民家庭やそれを受け入れる地元トルコ人を訪問した。画像とともに紹介する。

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■「ここでは私はただの難民」

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3ヶ月前にシリア北部コバニからやってきた兄弟。父は仕事に出かけ、長女は病気の母を連れて病院へ出かけていた。

一家が暮らしていたコバニは、2014年7月にダーイシュの攻撃を受け、最近までダーイシュと現地住民による熾烈な戦闘が続いていた。戦闘の結果、20万人もの住民がトルコへ脱出した。

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一番下の男の子は、まだ1歳になったばかり。

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次女は16歳。2014年6月には、試験を受けるためにコバニからシリア北部アレッポへバスで移動していた学生約200人をダーイシュが誘拐するという事件があった。彼女もそのバスに乗るはずだったが、その日の朝に母が止めた。

トルコに来てからは友達もおらず、何もせずに1日を過ごしている。かといって、現地のシリア人学校にも行きたくないと言う。「ここでは私はただのよそ者だから。ただの難民。早くコバニに帰りたい」と言葉少なげに語った。

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こちらの家族は、3年前にシリアの首都ダマスカスから親戚の伝手を頼ってシャンルウルファへ来た。今は親戚のところでペンキ塗りの仕事をしているが、過去40日間で1日しか働くことができなかった。もらった賃金もたったの40トルコリラ(約2000円)。一家を養える金額ではない。

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男性は「3年間トルコで暮らしているけど、近所のトルコ人は自分を見下してくる。親戚以外はだれも信用できない」と話す。

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男性の母親も、3ヶ月前にコバニからトルコへ逃れてきた。トルコへ来た当初、自分たちを匿ってくれた知り合いには「すぐにクルド人民兵組織(コバニの地元住民を中心に組織された勢力)がダーイシュをコバニから追い出してくれるから。そしたら自分の家に帰るから」と話していたが、結局帰ることはできずにいる。

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娘は6歳。8歳の兄は、シリア難民のための学校に通っている。

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左の男性は、1年3カ月前にシリア北部ラッカからシャンルウルファへやってきた。ラッカは、現在ダーイシュが自分たちの「首都」としている街だ。

男性は大学で法学を専攻し、トルコに来る前はラッカの地元政府で働いていた。トルコに来てからは11人の家族を養うために小さな店を営んでいるが、生活は苦しい。「食料支援などがある難民キャンプで暮らすという選択肢はなかったのか?」と尋ねると、「難民キャンプで暮らすくらいなら、死んだほうがマシだ」と答えた。

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男性の子供たちはまだ幼く、働きに出す年齢ではない。一家全員の生活が、父の肩にのしかかる。

■「ダーイシュがコバニを攻撃した日のことは、決して忘れない」

今回通訳を務めてくれたゼイナさん(仮名)も、コバニからトルコへ逃げてきた難民の一人だ。以前は6歳前後の子供たちに英語を教えていた。

「ダーイシュがコバニを攻撃した日のことは、決して忘れることができない」とゼイナさんは話す。「ダーイシュの兵士はコバニに来ると、まず男たちを誘拐していった。それを見て、わたしはとっさに弟を屋根裏に隠したわ。それから父や夫を奪われて路上で泣き叫んでいる女性たちを家にかくまったの。その後も、何度もダーイシュの兵士が来ては『男を隠していないか』と家中を探したけど、結局弟を見つけることはできなかったわ」と誇らしげに語った。

その日から1ヶ月後、ゼイナさんはダーイシュに対抗するクルド人民兵組織のメンバーではないかという疑いをかけられたため、トルコへ逃げることを決めた。着の身着のまま逃げてきたものの、家を見つけることもできず、知り合いの家に転がり込んだ。「貧しい家族だとわかっていたから、頼るのが本当に辛かった」と当時を振り返る。

イスラム教徒のゼイナさんは、父の教えに従って17年間スカーフを被って生活していた。しかし「イスラム法に基づく国家の創設」を主張しているダーイシュがコバニを攻撃した日、彼女はもう二度とスカーフを被らないと決めた。

「ダーイシュが主張する教義は、イスラム教の教えとは全く異なるもの。でも、ダーイシュが女性にスカーフを被り全身を隠すよう命令するなら、それには絶対に屈しないと思った」と話す。父には「もう十分でしょ」とだけ言ったという。

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スカーフを被って生活しているシリア難民の女性

また、ラッカから逃れてきたシリア人女性のラシャさん(仮名)も、「ダーイシュはイスラム教徒を宗教から遠ざけるか、ダーイシュに引き寄せるかのどちらか」だと話す。

彼女の知り合いの女性は紛争中もシリアで生活を続けていたが、10代の息子がダーイシュのメンバーになりたいと言い始めたため、彼をダーイシュから引き離すためだけにシリアを離れることを決めた。

ラシャさんは、紛争が始まった頃を振り返ってこう話した。「まずは、街に政府軍の戦車が現れるようになった。それから、空爆が始まった。空爆が始まったときは恐ろしくてしょうがなかったけど、最後にやってきたダーイシュがなによりもひどかった」。

「政府軍は、戦車や戦闘機やミサイルなどありとあらゆる武器を使って私たちを弾圧してきたけど、彼らにはルールがあった。でも、ダーイシュにはルールがない。彼らが自分たちで作ったルールしか」と話した。

さらに、今もラッカで生活している子供たちがダーイシュの教育を受けてどのように育っていくのか不安だと言う。「彼らの主張はイスラムの文化とは全く異なるもの。ならば彼らの思想はどこから来たのか、私たちは今後考えていかなければならない」そう言うと、静かに目を伏せた。

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■60万人のシリア難民が暮らすトルコ南東部シャンルウルファ

多くのシリア難民が暮らすトルコ南東部シャンルウルファは、人口80万人の地方都市。現在、約60万人ものシリア難民が生活していると言われている。夕方になると、近隣家庭が炭やゴミを燃やす独特の匂いが街に満ちる。

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シリア難民の多くは、シャンルウルファ中心部から車で10分ほど離れたエリアで生活している。シリア難民が入居するまでは、現地住民の貧困層が暮らしていた地域だ。急な斜面に隙間なく建てられらた家々は、ざらざらとした石やコンクリートでできている。

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コバニから来た6人兄弟の家の洗面所。この洗面所の他に、6畳ほどの広さの居間と寝室がある。石の床は、冷たい。

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家々をつなぐ狭い道には、子供たちが走り回る足音が響く。真上から差し込む光が石の壁に反射して眩しいくらいだ。

シリアと国境を接するトルコ政府は、2011年3月に内戦が勃発したその1ヶ月後から、命からがら逃げてくるシリア難民を受けて入れてきた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の調べによると、2014年末までにトルコへ逃れてきたシリア難民の数は、約162万人と言われている。正式な難民申請をしていない人も多数いることを考えると、その数はさらに膨らむ。

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シャンルウルファの街並み。上空には、雨を促すために人工的に作られた輪っか状の雲が見える。

ラシャさんは、シャンルウルファの風景を見ると学生時代を過ごした首都ダマスカスでの日々を思い出すという。

「アサド政権に反対する人々が武器を持って戦い始めたとき、わたしは『みんな自分の身を守らなきゃならないんだから当然だわ』と思ったの。でも今思うと、本当に馬鹿な考えだったわ。本当に馬鹿な。武力で弾圧してくる相手に対して武力で応じた時点で、自分も相手と同等になってしまうから。その時点で敗けよ」

■「このままでは難民を敵視してしまう」

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一方、大量になだれ込むシリア難民を受け入れた現地住民にも動揺が広がっている。シリア人が多く暮らす地域で病院の警備員をしている男性は、「このままでは難民を敵視してしまう」と不安を露わにした。

「以前は平均月300トルコリラ(約1万4千円)だった家賃が今ではその倍になっている。労働賃金も下がっているし、失職している現地住民もたくさんいる。シリア難民が来てから、自分たちにとっては全てが悪い方に転じた」と話す。

「それ以上に、今は誰が国境を越えて自分たちの街に入ってきているのか全くわからない。政府はもっと厳しく国境を管理しないといけない」とトルコ政府を批判した。

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羊飼いの男性も「シリア難民は感謝することを知らない」と、自分たちの税金が大量にシリア難民支援に投入されていることに対する不満を口にした。

その一方「彼らは紛争から逃げてきたのだから追い返すわけにはいかない。自分たちが家族で食卓を囲んでいるときも、彼らは飢えているのだから」と話した。

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生まれ育った街や暮らしは紛争によって破壊された。何も持たずに国境を越え、誰も知らない国で生活を始めた。「家族以外は誰も信用できない」そう言い切るシリア難民の心細さを思うと、「写真を撮ってもいいですか?」の一言を通訳してもらうことも、時には苦痛だった。それでもみなさん私の拙い質問に、辛抱強く答えてくれた。

シリアの情勢はますます複雑になっている。それは、シリア紛争がダーイシュを始めとする過激派組織の台頭の舞台になっているからだけではない。4年続いた紛争が、民族や宗派の違いで敵と味方を判断させる「癖」を人々につけているからだ。

その「癖」は、いつか爆弾や銃撃による物理的な紛争が終わったあとも、シリアの土地に染みついて残ってしまうのではないかと思うと、不安になる。「民族や宗派の違いなんか昔は関係なかった」と語るシリア人が、元のような暮らしを取り戻せる日は来るのかと、途方に暮れる。

そんな私をよそに、通訳のゼイナさんは「いつか必ずシリアへ帰る」と強く語っていた。

「イスタンブールやヨーロッパで暮らそうと話しているシリア人はいっぱいいる。でもわたしはここに残る。だって、みんながヨーロッパへ行ってしまったら誰がシリアを建て直すの?」 そう言って笑う姿は、とても力強かった。