都内で開催中の第36回東京国際映画祭で10月26日、「映画ジャーナリズムにおける女性のまなざし」をテーマにしたトークイベントが行われた。
世界各国で活躍する女性の映画ジャーナリスト・評論家4人が登壇し、映画・メディア界における女性へのジェンダーバイアスや賃金格差、また映画で描かれる女性の表象について、議論が繰り広げられた。
「女性の表象に違和感を覚えることはよくある」
登壇したのは、恩田泰子さん(日本、読売新聞編集委員)、ナダ・アズハリ・ギロンさん(フランス/シリア、映画評論家/ライター)、ウェンディ・アイドさん(イギリス、映画評論家)、セシリア・ウォンさん(香港、映画評論家/キュレーター)の4人。ナビゲーターは映画監督の安藤桃子さんが務めた。
イギリスの大手新聞で唯一の女性チーフ・クリティック(評論家)として一般紙「The Observer」で執筆するアイドさんは、イベントテーマである「映画ジャーナリズムにおける女性のまなざし」についてこう話した。
「まず、どんな視点もその人自身の主観であって、性別により型があるわけではない、という前提があります。その上で、自分が映画を観た時、女性の表象に違和感を覚えることはしばしばあります。往々にして男性が作った映画における女性像は幻想化、理想化されたものが多い。たとえばウディ・アレン監督の作品にも感じます」
読売新聞の恩田さんは「『女性だから』というより『人間だから』こういう見方をしていると、性別の区別なく思われたかった」とこれまでのキャリアを振り返ったが、同時に最近は変化も感じでいるという。
「あえて女性だからと強調することはしてきませんでしたが、映画自体が女性の視点を感じさせる作品、女性を取り巻く状況をきちんと描いた作品が増えてきて、これは私が女性だからわかるし、女性の視点で自由に書くべきだと思うことも増えてきました」
恩田さんはそう感じた具体例として、アフリカにルーツのあるアリス・ディオップ監督の『サントメール ある被告』や、ハリウッドの#MeTooを題材にしたキティ・グリーン監督の『アシスタント』などの作品を挙げた。
女性の評論家への偏見。「知的な重みのないもの」を任せられる
登壇者4人からは、これまでのキャリアで、たとえあからさまな性差別でなくても、潜在的なジェンダーバイアスを感じる体験をしたということが明かされた。
アラブ諸国やフランスなどで活動してきたナダ・アズハリ・ギロンさんは、「女性の評論家に対する偏見がある」と指摘。女性は「時間が余っているから書いているんだろう」「片手間で適当にやってるんだろう」という見方が強いと感じてきたという。
これには、アイドさんと、香港出身で現在は台湾に在住するウォンさんも同意。こんな体験を明かした。
「たとえば男性の同僚には『アートハウス映画の大作があるので、この記事は君に任せる』なんていう指令が出る一方で、女性である私は『子猫や靴について書け』と言われる。女性には『知的な重みのないもの』を任せられる傾向があります」(アイドさん)
「駆け出しの頃、ギャング映画とカンフー映画で有名な2人の監督にインタビューに行った時、君のような若い女には俺らがやっていることはわからないだろうと、その場で立ち去られたことがありました。こんな経験をして、これからキャリアを築けるだろうかと疑問を抱きました。何年も経ち再び取材した時には活発な議論ができましたが、男性監督の中には女性へのバイアスがあると思います」(ウォンさん)
恩田さんは30年前にジェンダーバイアスを感じた出来事として、「(新聞社である自社に)電話がかかってきて私が出ると『誰かいますか?』と言われたことがあった。『自分は“誰か”ではないんだ』と思った」と振り返った。
「バイアスを乗り越えるためには仕事で証明するしかなかった。同時に、悪く思われないように『和やかでいる』みたいな努力もしていたのですが、今思うと、そういうのは無駄だったのかもしれない。若い人にはそういうことに時間を割くことなく、働いてほしいです」(恩田さん)
また、アイドさんは「大きな問題」として映画ジャーナリストや評論家においても、ジェンダーにより賃金格差があることを指摘した。「男性の方が多く支払われている現状がある。言いづらいけれど、気づいたら声をあげることが大事だ」と訴え、ジャーナリズムを志す人たちには「自分を助けてくれるサポートシステムやコミュニティを見つけてほしい」と呼びかけた。
(取材・文=若田悠希)